セロハン

             





10.





最近夜は冷えるようになったな。
いつもの路地に見台を出して座りながら、僕はすっかり暮れてしまった空を見上げた。
今夜は一週間前に来てくれたOLさんが来るはずだった。
“来週また来ます”と言ってくれた彼女の悩みは、恋愛相談。交際中の彼との結婚を迷っているということだ。
人生を左右する大切な決断に、僕が少しでも貢献できたなら幸せなことだと思う。
けれどいつも仕事が終わると真っ直ぐにやってくる彼女が、今夜は8時を過ぎても姿を見せない。
夕べから少し熱っぽくて寒気がしていたのだけれど、多くはない常連客の一人を風邪くらいで逃したくないという気持ちもあって、少し無理をしてやってきたのだけれど。
今夜はどうやら来ないようだ。
占いなんて思い出さない程充実した時間を過ごしているのかもしれないと考えながら、僕は手元の本に視線を戻した。

一時間近く本を読んで過ごしたけれど、客は一人もやってこなかった。
冷たい風が吹き抜けて、僕は寒さに身をすくめた。
そろそろコートを厚手のものに取り換えて、足下に置く小さなストーブを用意した方がいいだろう。
この通りは大通りから少し入っているので、普段から人通りはそう多くない。
今日は午後から店を開き、馴染みの客が3人立ち寄っただけだった。
稼ぎとしてはよくないが、こういう日もあるものだ。
本当はもっと表通りに行けばいいのだけれど、以前少し面倒なことがあってこの場所に引っ込んだ。
一見の客は減ったけれど口コミで訪れてくれる客がちらほらいるので、あまり不便は感じていない。
今日は周りの店が月に一度の定休日のせいか、陽が落ちてからは特に人通りも減っていた。
最近街灯の数が減って、道のそこここに暗がりができている。
少し早いけど今日はもう終わりにしようと思い切り、店じまいを始めた時だった。

突然見たことのない男の人が、目の前に現れた。
真っ黒いジャケットに黒いパンツといういでたちのせいか突然暗闇からわいて出たように見えたその人は、神経質そうな眼鏡をかけて髪もきちんと整えてはいたけれど、どことなく不安定な印象を与える人だった。
客だろうと思い営業用の微笑みを向けると、いきなり手首を掴まれて引き寄せられた。
驚いて男の顔を見ると、眼鏡の奥の瞳が何かに取りつかれたような色をしている。
「ちょっと占ってほしいんだけど」
「今日はもう、店じまいなんです」
掴まれた手首の痛みといきなり頭の中になだれ込んできた映像に、僕は驚いて動けなくなった。
「そんなこと言わないで、頼むよ。お兄さん、時々××に通ってるでしょ?何回かあの店で見かけたことがあるんだけど、覚えてないかな?」
男はもう一方の腕を肩に回して僕を抱き寄せようとした。
身をよじって逃げようとするけれど、すごい力で身動きができない。
「やめてください!お会いした記憶はありません!」
××というのは、男性同士の出会いを求めて男たちが集まる店だった。
確かに時折立ち寄ることはあるけれど、こんな人を見た記憶はない。
「ここじゃ寒いから、どこか静かな場所に行こうか」
「放してください!」
精一杯の力で振り払おうとした腕を背にしていた壁に縫い付けるように押し付けられて、僕は恐怖に震えた。
以前にも酔客に絡まれたことがあって似たような状況に陥ったことがあったけれど、苦もなく追い払うことができたのに。
おかしなことに、今日は上手く身体に力がはいらない。
頭がズキズキと痛みだして、ひどいめまいがした。
羽織っていたコートもシャツも無理矢理開かれて、男の舌が首筋を這いまわる。
その気持ち悪い感触に、吐き気がこみあげた。
「や…やめ……っ」
抵抗したいのに、頭痛と一緒に頭の中になだれ込んでくる映像に意識を奪われて動きが鈍る。
これは一体、…何なんだ?

長い長いエスカレーター。隙間なく並び上昇していく人々。崩れる人の波。響き渡る怒号、悲鳴。
どこかで見たようなシーン…


追い詰められた僕は、壁を背にしてずるずると座り込んだ。
抵抗できない僕のことを誤解したのだろう。
余計に大胆になった男の掌が、シャツの下へと潜り込み胸や腹、さらに下へと這いまわる。
いいようにされている自分が情けなくて、涙が出た。
一体どうしてこんなことになっているんだろう。
さっきから何度も見えるこの映像は、この男がこれから経験することなんだろうか?

掌をすり抜けて落ちてゆく白い掌。
“ごのう…”

ごのうって、誰だ?




「なにやってンだ?てめぇ」
地の底から響くような低い声と同時に、突然僕にのしかかっていた男がふっ飛んだ。
「こんな所でサカっんてじゃねーよ。この男は客か?それともお前のオトコか?」
涙で霞む目で見上げると、壮絶に不機嫌な顔で三蔵さんが立っていた。
男は殴られたのだろう。腹を押さえて地面に転がっている。
「違います…いきなり、抱きついてきて…」
三蔵さんは舌打ちすると、転がる男の背中を蹴った。
「こいつは先約があるんだ。ヤリてぇだけなら、他当たれ!」
怒りに満ちた三蔵さんの声にも、男は呻くばかりで反撃できないようだった。

「立てるか?」
いつもあんなに僕に触れることを警戒している人が、迷うことなく手を差し出してくれる。
座り込んだままの僕を抱え起こすと、コートの中の乱れた僕のシャツを目にして眉を顰めた。
ボタンは引きちぎられ裾は引きずり出されて、胸から腹まで露わになってひどい有様だ。
這いまわった掌と舌の気持ちの悪い感触を思い出して、僕は震えた。
「ありがとう…ございます」
強張った指でノロノロとシャツをかきあわせる僕を見かねたように、三蔵さんは手早くコートのボタンをはめて埃を払ってくれた。
「また携帯切ってただろ。親父が呼んでる。…顔色悪いぞ。何かされたのか?」
「いいえ、大丈夫です。いきなりだったので、驚いてしまって」
「誰にでもヘラヘラしてるから、ナメられるんだ」
「…すみません」
三蔵さんはふらつく僕を抱えたまま、歩き出した。
男は倒れたままで追ってこない。
「三蔵さん…」
「いいか、未来がどうとか、一切聞きたくねえからな。何も言うなよ」
「…わかりました」


僕らは大きい通りへ出て、通りかかったタクシーをつかまえた。
桃源寺の名前を告げてシートに沈み込むと、緊張がとけたせいか急に疲れが襲ってきた。
節々が痛み、体がだるい。
何より頭が割れるように痛み出して、僕は三蔵さんの肩に身を預けて目を閉じた。
「おい…大丈夫か?」
「ごめんなさい…何も…見ない、から…」
閉じた瞼の中で、世界がぐるぐるとまわりだす。

さっきの男の取りつかれたような瞳と、怒った三蔵さんの瞳。
長いエスカレーターと、たくさんの人。
差し出された掌。
ゆっくり落ちてゆく、ながい髪の…

“ごのう”

僕は不思議と懐かしい声を聴きながら、意識を手放した。











(葉村/2012.5.23)

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