セロハン
7.
僕は虚しい考え事を諦めてノロノロと起き上がると、リビングの灯りを点けた。
南向き3LDKのこの部屋は、僕と悟浄がお金を出し合って借りている。
リビングの白い壁と落ち着いた色のカーテン、柔らかい色のソファの組み合わせは、なぜかとても落ち着いた気持ちにさせてくれる。
聞けば一緒に住むことになった時に、僕が気に入ってこの色に決めたのだそうだ。
大きな男二人が共に過ごしても狭苦しい感じがしないこの部屋が、僕はとても好きだった。
冷蔵庫から飲みかけの白ワインを出してきてソファに戻ると、何も食べずに流し込んだ。
何の酒を飲んでもほとんど酔うことがない僕に、悟浄はいつも「昔っからザルだったよ、お前」と嬉しそうに笑うのだけれど、僕が記憶を無くした時はまだ未成年だったはずだ。
「いったいどういう高校生だったんですか?」と尋ねれば、悟浄は「めちゃくちゃ真面目な優等生だったな、見かけだけは」と笑っていた。
「生徒会長で成績はいつも学年トップ。人当たりもよくにこにこしてて、女の子にもモテモテで。でも恋愛なんか見向きもしねえ、超堅物なフリしてたんだぜ。それよりさ、この間のリーマンとはどうなった?まだ付き合ってんの?」
僕が昔の自分の輪郭を手さぐりしようとすると、悟浄はさりげなく話題をそらすことが多い。
それはいつまでも昔の自分にこだわる僕を気遣う、悟浄の優しさなのだろう。
現に悟浄の言葉からいくら自分の過去を思い出そうとしてみても、僕はそんな自分をまったくイメージできない。
まるで透明な膜が僕の周りを包んでいて、手を伸ばしても柔らかく押し返されるような、もどかしくて、でも心地がいい不思議な感覚に襲われてしまう。
「いつか思い出すから慌てんな。大丈夫だ。俺がいるじゃん」
自分の過去をたどろうとする僕に、悟浄は明るく笑う。
記憶がなくてもこうやって毎日充実した生活を送っていられるのだから、これ以上こだわっても仕方がないのかもしれない。
それでもずっと、気にかかっていることがある。
僕はなぜ記憶を失くしたんだろう。
姉が亡くなって悲しんでいたのは当然だと思う。だけど記憶を失くすほどにショックを受けるなんて、一体何があったのか。
高校で出会うまで存在すら知らなかったという双子の姉は、どんな人だったんだろう。
以前悟浄に尋ねたら、彼は一枚の写真を見せてくれた。
眩しい光の中で肩までかかる長い髪で鮮やかに笑う制服姿の女の子。そして彼女を囲んで並ぶ制服姿の僕たち。
だらしなく制服を着崩してやんちゃな顔で笑う悟浄と拗ねたようにそっぽをむいている三蔵さん。それから少し眩しそうに眼を細めて微笑む僕は、3人とも今とは全く違う顔をしている。
姉という人は、自信に満ちた幸せそうな表情をしていた。
まっすぐに背を伸ばし、全てのものを見通してやるというような強い光を瞳に浮かべている。
写真だけでこんなに強い印象を与えるようなきれいな人が、僕の姉だったんだろうか。
「これ、桃源寺で光明サンが撮ってくれたやつ。ちょうど俺らが高2で、三蔵が卒業する頃だな。なんだか俺ら、今と全然違う顔してんな」
悟浄はしみじみと写真を眺めて、懐かしそうに目を細めた。
「花喃って名前なんだぜ。美人だろ?すげー気の強い、きっぷのいい女だった」
「彼女は…どうして?」
「俺とお前と3人でライブに行ってさ。あいつ、好きだったんだよな、あのバンド。会場に向かうエスカレーターに乗ってた時、上の方にいたやつが足滑らして雪崩みたいになっちゃって。俺らは助かったんだけど、あいつは巻き込まれて…」
そう言って辛そうに写真に目を落とす姿を見て、僕はそれ以上聞けなくなった。
後になってインターネットでその新聞記事を探してみた。
上昇中のエスカレーターが突然停止して数人が足を踏み外し、将棋倒しになったこと。
多くの人が巻き込まれてエスカレータを滑り落ち、下敷きになった数人が亡くなったこと。
その中に、花喃という名前が載っていた。
結局皆で写っている写真も痛ましい事故の話も、僕の記憶を呼び覚ますことはできなかった。
姉に申し訳なく思いながらも、僕はそれ以上詮索することをやめた。
いつも飄々としている悟浄が、花喃の話をするとき見せた苦しそうな表情が忘れられなかったから。
時折考えることがある。
もしかしたら、姉と悟浄は恋人同士だったんじゃないだろうか。
彼女の弟だから、悟浄はこんな僕に親切にしてくれるんじゃないか。
もしそうならば、大切な人を失くした事故のことをあれこれ口にするのはつらいはずだ。
ましてや双子の弟である僕と一緒に暮らすことは、彼にとって苦痛なことかもしれない。
僕の存在が悟浄を傷つけているのではないかと、ずっと気にかかっていた。
悟浄の態度からは、そんな気配は全く感じられないけれど。
“ごじょう…”
さっきから悟浄のことばかり考えてしまう。
あの人が仕事柄夜に家を空けるのは仕方がないけれど、今夜は一緒にいてほしかった。
ホテルで会った人を思い出し、苦笑いをしながら僕はまたワイングラスを空けた。
あんなに誰かのことを深く愛する様を見せられたら、人恋しくなっても仕方ないだろう。
“寂しいな”
突然そんな言葉が頭の中に浮かんだ。
まるで誰かの未来を見るときのように、ぽっかりとその言葉が現れた。
寂しいだなんて子供みたいだ。
随分甘えたことを考えているなと呆れながら笑って、僕はまたグラスを飲み干した。
半分以上残っていたワインを一人で空けてしまうと、無性にアレが欲しくなった。
僕は落ち着かない気持ちで部屋の中を見まわした。
いつも切らさないように入れてあるはずの丸い缶を持ってきて開けてみたけれど、何も入っていない。
がっかりして買い置きの食品を収納している棚を開けて奥まで漁ってみたけれど、缶詰やカップ麺、レトルト食品ばかりで欲しいものはみつからなかった。
夕方悟空にあげたものが最後だったのだと知って、とたんに胸の鼓動が早くなる。
どうしよう、アレがないと僕は…。
よろよろしながら半泣きで、リビングの続きに位置する悟浄の部屋に入ってみた。
悟浄なら部屋に一つくらい持っているかもしれない。
まるで危ない薬みたいに探し回っているのは、そこらの駄菓子屋で売っているラムネ菓子だ。
自分でもおかしいと思うのだけれど、どういうわけか時々ラムネを食べないと落ち着かなくなる。
今夜みたいな夜は特に。
パソコンの横に乱雑に積み上がった雑誌の陰にも、乱れたままのベッドの上にも、気後れするようなデザインのスーツやジャケットが並んだクロゼットの中にも、欲しいものは見つからなかった。
僕はカーペットの上にぺたりと座りこんで、缶を抱えた。
淡い希望を抱きながらもう一度蓋を開けてみたけれど、やっぱり中身は空っぽで。
急に自分の中身までが空っぽになってしまったような、不安な気持ちが押し寄せる。
いつもは上手く誤魔化している、“自分がどんな人間かわからない”という恐怖に似た感情が、じわりと床から這いあがってきた。
急に寒気を感じて、僕は腕の中の小さな缶を強く抱きしめた。
こんな時はいつも、ひどく人恋しい気持ちになってしまう。
自分を抱きしめてくれる腕を思い浮かべようとするのだけれど、どうしてもうまく頭の中で像を結べない。
光明先生が三蔵さんを思うように、僕の存在すべてを受け入れ抱きしめてくれる人。
僕は縋るように、もしかしたら記憶を無くす前にはそんな人が自分にもいたのかもしれないと思ってしまう。
亡くなった姉は、そんな風に僕を愛してくれていたのだろうか。僕は彼女を愛していたのだろうか。
震える掌を見つめて、僕はこの5年の間で終わった恋を数えてみた。
望んでもいないのに様々なことが見えてしまう妙な力のせいで、僕の恋愛は長続きしない。
そもそも男性しか好きになれないというハードルの上に、いい感じになって触れ合うところまでいっても、いつもこの力が邪魔をする。
見えすぎて疲れてしまうのだ。未来が見えてしまった人に恋愛感情を抱き続けるのは難しい。
それでもひと時でもいいから満たされない思いを紛らわしたくて、僕は時折、その手の人が集う店に足を向けてしまう。
悟浄はそんな僕を軽蔑するでもなく、時には恋愛指南までしてくれる。
失恋した時は「ほら、精神安定剤」なんて笑いながら、ラムネを口に入れて抱きしめてくれたりもする。
あくまで、友人を慰める程度の距離で。
悟浄だけが、何の屈託なく僕に触れてくれた。
悟浄の未来だけは、見えないから。
悟浄がいつでも触れさせてくれたら、抱きしめてくれたらいいのに。
もし悟浄が恋人だったら―。
でもあの人は根っから女の人が好きで、僕に望みなんてありはしない。
こうやって一緒に住んでくれて、笑ってくれて、僕にアレをくれるだけで十分だと思わなければ。
“寂しいな”という言葉が、何度も頭の中で響きだした。