セロハン
6.
僕は入院中、不思議なことに気が付いた。
検査や点滴などで看護士さんが僕の身体に触れる度に、なにかぼんやりした映像みたいなものが頭の中に見えるのだ。
たとえば隣の部屋の患者の包帯を取り替えている様子とか、ナースステーションで婦長さんに叱られている様子とか。
そしてそれは、しばらくするとどちらも現実に彼女の身に起きていた。
その後他の医師や看護師に対しても同じようなものが見えて、やはり彼らの身にも僕が見たままのことが起こっていた。
廊下で気分が悪くなって倒れそうになった女性を支えた時に、手術室に運ばれる姿が見えたこともあった。
その夜彼女が緊急手術を受けたと聞いた時に僕は確信した。
信じられない話だけれど、僕は触れた人にこれから起きる出来事が見えているようだった。
退院してしばらくたってから、僕は半信半疑で悟浄にこの話をした。
困惑しきった僕の話を聞いても、悟浄は笑い飛ばしたりしなかった。
「確かめてみようぜ」
とても真面目な顔で僕の手を握った。
「…何も見えません」
驚いた。本当に何も見えなかった。
「マジ?じゃ、これは?」
悟浄は首を横にふる僕の肩を引き寄せたり長い両腕で抱きしめたりしたけれど、心臓がバクバクと張り裂けそうな音をたててやたらと身体が熱くなるだけで、映像みたいなものは一向に見えなかった。
僕はホッとした。少なくとも悟浄には、触れても大丈夫なようだった。
「何であなただけ、見えないんでしょうか?」
「誰かに試したの?」
「入院しているときにお医者さんや看護師さんや…あとは三蔵さんですけど」
悟浄は眉を上げて、ちょっと嬉しそうな顔をした。
「何でも見えたら疲れるだろ?よかったな、俺とは気兼ねなくスキンシップできるじゃん♪」
そういって、笑いながら僕の肩をひきよせた。
悟浄は笑ってくれたけれど、僕はどうしても気持ちが晴れなくて、数日後桃源寺を訪れた。
退院してから数回しか会っていなかったけれど、不思議と光明先生に会えば気持ちが落ち着くような気がしていた。
桃源寺は僕らのマンションから1駅離れた場所にある、小さな古いお寺だ。
雑居ビルや住宅が密集する地域に小ぢんまりと建っているのに、なぜか狭さを感じさせない。
濃い緑に囲まれた境内には、いつも住職の光明先生そのもののようなゆっくりした空気が流れている。
玄関を入ったところで三蔵さんに出くわしたのでこの力のことを伝えたら、思った通りまともに相手にされなかった。
仕方なく彼の手を握って見えたままを口にしたら、ますます変な顔をされてしまい少し悲しくなった。多分これが、普通の人の反応だ。
でも僕らの様子を見ていた光明先生は、優しい瞳で“もう少し詳しく話して下さい”と言ってくれた。
何度か通された客用の座敷ではなく、先生の私室に案内された。
先生は馬鹿馬鹿しいと笑われても仕方のないような僕の話をゆっくりと時間をかけて聞いた後、“試してみましょうか”と穏やかに微笑んだ。
並んで座った僕の手を握った温かい掌が、そっと頬に触れた。それから髪、肩、背中とゆっくりと触れてゆく。
柔らかく抱きしめられて、僕は言葉を選ぶ間もなく次々と見えたものを伝えていった。
自分はどうなってしまったんだろうという不安な気持ちを、受け止めて貰えることがただ嬉しかった。
触れ合う度にどんどん明確になってゆく頭の中の映像を追ううちに、いつしか僕は光明先生と抱き合っていた。
驚きも嫌悪感もなかった。ただ見えることを伝えることに夢中で、事の重大さを理解していなかった。
でもある予感を伴う映像を見た時に、僕の言葉は止まった。
“何でも話してください。見えたままを、全て。”
思いがけないものを見てしまい先生の腕の中で泣きじゃくる僕に、先生は穏やかに、でもきっぱりと告げた。
幼い子供にするように何度も頭を撫で背中をさすってくれる掌が温かくて、僕はますます涙が止まらなくなった。
この温もりが、あと数年でこの世からなくなってしまうなんて――。
見えたままの未来を伝えても、先生は僕を抱きしめて穏やかに笑っていた。
ただ一言“あの子には言わないで下さいね”とだけ、とても真剣な瞳で囁かれて、僕はまた泣いてしまった。
この5年間のことしか知らないけれど、光明先生がどれほど三蔵さんを大切に思っているかよくわかる。
血の繋がりはないそうだけれど、先生は本当の父親以上の愛情を三蔵さんに注いでいる。
あんな風に存在を丸ごと肯定されたなら、どんなに幸せだろう。それだけで人は十分に強くなれる気がする。
もしかしたら記憶を無くす前には、僕にもあんな風に愛してくれた人がいたのかもしれない。
それから数か月がたっても、僕の記憶は戻る気配がなかった。
悟浄は高校を卒業してから定職につかず、その日暮らしのフリーターのような生活をしていた。
知り合いから頼まれて法律事務所で働いていたかと思えば、CDショップの店員、バイク便のドライバーにバーテン、ホスト。
器用な彼はどんなことでも卒なくこなすかわりに、どんなことでも長続きしなかった。
時折携帯に電話が入ると、やけに念入りに身支度を整えて見惚れるような笑顔を浮かべながら出かけて行くことがあった。
何をしに行くんですか?と尋ねたら、「趣味と実益を兼ねた肉体労働」と返されて、店以外でも女の人を喜ばせる仕事をしているのだと知った。
もちろんショックを受けたけれど、僕が口出しできる立場じゃなかった。
僕は毎日食事を作り掃除洗濯に精を出したけれど、二人きりの暮らしに必要な家事などたかが知れている。
いつまでも悟浄の世話になってばかりはいられないと仕事を探し始めた僕に、光明先生がある人を紹介してくれた。
その人は先生の古い知り合いの占い師で、とても腕がよいと評判の人だった。
「あなたは以前から勘が鋭くて、物事の先を見通す感覚も優れていたのですよ」という先生の言葉を頼りに彼の元で勉強を始めた僕は、すぐにこの仕事に夢中になった。
1年ほど彼の下で学んだ後、僕は独り立ちして街占を始めた。
持てる限りの感覚を総動員して会話をし、カードや星の巡りや手相から客がよりよい道へ進めるようにアドバイスをする。
もちろん人の未来の可能性を口にすることはとても責任のあることだし、自分の力の至らなさに落ち込むことも度々だ。酔客に絡まれたり危ない職業の人に脅されたりすることもある。
収入は日によってまちまちだけど、それでも最近では少しずつリピーターの客がついてきた。
まだまだ修行中だけれど、様々な人の悩みと接してささやかな希望を示すことができるこの仕事は、とても性にあっていると思う。
それからもう一つ、大切な仕事がある。
記憶を失うと同時に得た、先をみるという“力”。
奇妙なこの力を使って特別に依頼された人の未来をみる、今夜のような仕事だ。
先生からこの話を持ちかけられたのは、街占を始めて少したった頃だった。
条件がよいということもあったけれど僕は二つ返事で引き受けた。
それは先生が、何よりも福祉施設存続のために尽力していると知っていたからだ。
先生の本業は桃源寺の住職だけど、他には不動産業、貸金業、福祉施設の運営と手広く事業を行っている。
様々なビジネスで得た利益のほとんどを、先生は望まぬ形で親と引き離された子供たちのために注いでいた。
私欲のないその姿勢は、心から尊敬できるものだ。
親との死別や遺棄、虐待。
抵抗することも逃げることもできない子供たちが被る痛みや悲しみはいつになっても無くなることはなくて、たとえ記憶を失っていても僕の胸の中に深く染み込んでいる。
僕や悟浄のような子供を一人でも多く救えるのなら、僕はいくらでも協力したいと思う。
誤解のないように言っておくと、決して毎回客とベッドを共にするわけじゃない。
男性同士の行為を好む客なんかそうそういるわけじゃないし、もちろん女性が依頼主の場合もある。
客の話をじっくり聞いて意識を集中して掌を握り、見えたものを相手の希望に沿うような形で、どうしても添えない場合は別の道を示すような言葉を伝えることで、たいていの人は満足してくれる。
それ以上の詳しいものを望まれる場合には、隣の部屋のベッドを使うことになるのだけれど。
先生から紹介される客は、それなりに地位も財力もある身元の確かな人ばかりだ。
一度だけおかしな客に一服もられたことがあって、それ以来僕の右目はほとんど見えなくなってしまったのだけれど、記憶を失くしたことに比べたら大したことじゃないし、今では三蔵さんが付き添ってくれるから心配ない。
僕の仕事に付き添う時の三蔵さんは、いつもの不機嫌が五割増しになって煙草の本数も激増する。
でもそれも仕方がないことだ。他人のsexの付き添いなんて、嫌にきまっている。
しかも男同士ときたら、眉を顰められても仕方がないことだ。
それでも毎回付き添ってくれるのは、それが光明先生の希望だからなんだろう。
見かけによらず親思いで、優しい人なのだ。
もちろんそれなりに魅力的な報酬があることも理由の一つかもしれない。
三蔵さんの密かな夢は温かい南の島でのんびり暮らすことのようだから、今夜の報酬もその資金の一部になるはずだ。
数年前に引き当てた50万の宝くじも、すぐに銀行に積み立てていたようだったし。
こんなことまで知っているのは、まだ僕の力に対して無防備だった頃、彼に触れて解ったからだ。
三蔵さんは今ではすっかり僕に触れることを警戒している。寂しいけれど、仕方がないことだと思う。
僕の力を知った人は、たいてい皆そんな態度をとるから。
彼の不機嫌な視線の中には、僕に対する憐みのような思いを感じるときがある。
僕の知らない僕を知る彼は、多分いつでも“記憶を無くす前の僕”と“今の僕”とを比べている。
以前にぽろっと「こんな奴じゃなかったのに…」と口にしていたこともあった。
怪しげな占いなんかをして生きている僕の身を気遣ってくれているのだろうけど、どうあがいても以前の僕に戻れない僕は、どうしたらいいのかわからなくてひどく寂しい気持ちになってしまう。
でもあの人は――
悟浄は最初から違っていた。
記憶を無くしたと知って驚いていたようだったけれど、以前の僕と比べて困惑したり嘆いたりする素振りを見せたことはなかった。
なんだか面白がっているともとれるような大らかさで、何も覚えていない僕の存在を受け入れてくれた。
初めてこのマンションに足を踏み入れた時も、丁寧に一から十まで説明してくれて、僕の記憶が戻ることを期待する素振りを一切見せなかった。
以来悟浄は、僕が何を見ても何をしても、“何か思い出すか?”と聞いたことはない。
何も思い出せないことへのプレッシャーを感じさせないための配慮だったんだろう。
そんな悟浄の態度は、このままの僕を丸ごと受け入れてくれているように感じられてとても嬉しかった。
自分が何者かわからずに不安に押しつぶされそうだった僕には、悟浄の存在が支えになった。
だから彼に惹かれていったのは自然なことだと思っている。
彼は決して、“男”である僕を、相手にすることはないけれど。