セロハン

             





5.





マンションのドアを開けたら部屋の中は真っ暗だった。
小さな溜め息を飲み込みながら手探りで灯を点けようとして、悟浄が三和土に入れたままにしていた自転車に躓いた。
したたかに脛をぶつけてうぅ、と呻きながら電気のスイッチを探り当てる。
よろよろと靴を脱いで壁にぶつかりながらリビングに向かい、床にコートを脱ぎ捨てると、ばったりとソファに身を投げた。
真っ暗な部屋の中でうつぶせたまま、力の入らない身体を受け止めてくれるソファの柔らかい感触に深い息をつく。
しみついてしまった煙草の匂いが、僕をひどく安心させてくれた。

悟浄はどこに行ったんだろう。
今夜は仕事がキャンセルになったと言っていたけれど、やっぱり声がかかったんだろうか。なんせあの人は人気があるから。
今ごろはどこかのホテルで金持ちのご婦人か仕事明けのホステスのお相手でもしているのかもしれない。
灯りを点けてシャワーを浴びて何か食べなければと思うのに、身体が重くて動けなかった。
このまま眠ってしまいたいところだけれど、頭の中にはさっきまで一緒にいた人の印象が強く残っていて、変に気が立っている。ざわつく胸を静めるように、僕はまた一つ溜め息をついた。


光明先生から写真を見せられた時、どことなく悟浄に似ているように感じたけれど、実際に会ってみると全く違う雰囲気の人だった。
年齢が上ということもあるのかもしれない。
世慣れた遊び人風の外見とは裏腹に、迷いのない意思と強い正義感、したたかな計算と実行力とを併せ持った特別な人なのだと、傍に寄っただけで分かった。
遠くない将来、人の上に立つことが約束されている人。
本当は占いや特殊能力なんて端から当てにしてはいないのだろう。
ただ目的のためにはどんな可能性にも目を向けるだけの柔軟さも備えていて、僕なんかに声がかかったに違いない。
多少なりともあの人の役に立てたのならいいのだけれど。

刑事である彼の恋人(もちろん男性だ)は、暴力団関係のある事件で恨みをかっていて、脅迫まがいの電話や嫌がらせを受けているらしい。
最近では殺害予告めいた脅迫文が送られてきたそうだ。
それが現実に起こるのか、ただの脅しなのか。脅しでないなら、それはどんな形で行われるのか。
それを知りたいというのが彼の希望だった。
かなりの敏腕刑事である恋人は、理不尽な脅しなど歯牙にもかけていないらしい。
危険にさらされる恋人の身を案じて、彼は知人のつてを頼って光明先生と連絡を取ったという。


あの人に触れただけで、どれだけ恋人を愛しているのか分かった。
抱かれている間、あの人が恋人へ抱く暖かな愛情を感じて胸が震えた。
なんだか自分に向けられているような気分になってしまって、いつものように先をみることに上手く集中できなかった。
客でなかったら、きっと惹かれていただろう。あの強い想いの前では、僕なんかにはほんの少しの望みもないだろうけど。
僕はホテルを出てから果てしなく落ち込んでいた。
こんな気持ちは久しぶりだ。
記憶を無くして目覚めた朝、何もかもわからなくて不安でたまらなかったあの時。
自分が存在する意味や理由がわからなくて、いたたまれなかった気持ちを思い出した。
あぁ、ダメだ。余計なことを考えるな。考えても仕方のないことなんだから。
役立たずなこの頭は、あの日より前のことはすっかり消し去ってしまったのだから。



5年前のある夜、突然この部屋で倒れた僕は3日間眠り続け、目を覚ました時には記憶を無くしていた。
病室のベッドの上で目を覚ました僕の目に最初に飛び込んできたのは、白い天井を背に僕を覗き込んでいる男の人の鮮やかな紅い髪だった。
心底安心したという顔で僕を見て笑うその瞳も同じ色で、宝石みたいにとてもきれいだった。
その紅に見惚れていると、「大丈夫か?気分悪くねぇ?」と優しい低い声で囁かれ髪を撫でられた。
僕はすっかりドギマギしながら、「え…と、どなたでしたっけ?」と尋ねると、その人は強張った顔で動きを止めた。
「俺のこと、わかんねえの?」
奇妙な程静かに尋ねるその悲しそうな瞳を見ていたら“ごじょう”という言葉が自然に口から滑り出た。
その人が嬉しそうに笑ったから、悟浄というのが、この紅い人の名前なのだとわかった。
けれど、彼がどんな人なのか、気遣わしそうにその後ろで僕らを見つめる金髪の二人連れが誰なのか。
それより何より、自分が何という名でどんな人間なのかさえ、わからなくなっていた。

悟浄という人は昔からの友人で、僕らは一緒に住んでいるのだと語った。
僕の名前は猪八戒といって、三日前に突然倒れて昏睡状態に陥っていたのだという。
医師が呼ばれてあれこれ質問をされた後で、心因性の一時的な記憶喪失だろうと告げられた。
僕は倒れる数日前に、たった一人の肉親である姉を事故で亡くしたらしい。
ひどくショックを受けていたから、きっとそのせいだろうと悟浄は語った。
記憶喪失といっても不思議と生活していくために必要なことは覚えていて、複雑な計算問題の解き方や電車の路線や乗り継ぎ方法、それから以前から好きだったという料理の手順なんかもちゃんと説明することができた。
生きていくために必要な記憶は残っているのに、自分に関する記憶がすっぽりと抜け落ちている。
言いようのない不安に襲われて目を伏せる僕の背中を、悟浄の大きな掌が抱きしめた。
「そのうち思い出すから、心配すんな。俺がついてるからさ」
彼から感じる煙草の匂いと掌の温かさは、不思議と僕を落ち着かせてくれた。

「見た目はこんなんですけど、悟浄はとっても優しい子なんですよ」
「そいつは素行は最悪だが、世話好きだから安心しろ」
それまで無言で僕らの様子を眺めていた金髪の二人組が、同時に口を開いた。
親子だという対照的な雰囲気の二人は、光明先生と三蔵さんだった。
「お前らて褒めてんの?けなしてんの?」と文句を言う悟浄を押しのけて、二人は僕を取り囲むとゆっくりと説明をしてくれた。
孤児だった僕は光明先生が経営する養護施設で育ったらしい。
里親に引き取られたが上手く関係が築けないまま中学生になり、ある私立中学校の寮に入っていた。
悟浄とはそこで知り合い、同じ学校に通っていた三蔵さんとも気が合って、僕らはよく3人で過ごしていたということだ。
高等部に上がるときに、僕の姉という人が転入してきた。
高校を卒業した後は、僕は悟浄とルームシェアをして暮らしているそうだ。
そして数日前、姉はエスカレーター事故に巻き込まれて亡くなったという。
色々なことを聞かされて混乱し戸惑ってはいたが、なぜかこの人たちがいれば大丈夫という奇妙な安心感があった。
きっと記憶を失くす前から信頼していた人たちだからなんだろう。
数日後退院した僕は、それまで悟浄と暮らしていたというマンションに連れて行かれた。
最初は戸惑いと不安で気がふさぎがちだったが、親身に面倒を見てくれる悟浄や、恐らく記憶を無くす前と同じように接してくれている三蔵さんや光明先生のおかげで、僕は次第に記憶のない自分を受け入れることができるようになっていった。
あの日から5年がたって記憶の戻る兆しは一向にないけれど、今ではこれが“僕”なのだと思えるようになっている。







(葉村/2011.1.27)

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