セロハン
11.
八戒が池袋で倒れたと聞いて桃源寺にかけつけると、あいつは座敷で白い顔をして眠っていた。
あの日の朝を思い出して顔をこわばらせる俺に、三蔵は大丈夫だと言うように頷いてみせた。
三蔵に礼を言いながら、俺は唇をかんだ。
八戒は仕事中に妙な男に絡まれたらしい。運よく三蔵に助けられたが、具合が悪かったのかロクに抵抗もできなくて、ヤバいことになりかけていたそうだ。
八戒はあんな外見だから、あんな場所で1人でぼーっと座っていると、酔ったヤツに声をかけられることもあるという。
だがヘラヘラしていても腕っぷしは記憶を失くす前と変わらない八戒は、いつもあっさり切り抜けていると聞いていたからすっかり油断していた。
具合が悪かったのにも気づいてやれなかった。
規則的な呼吸を繰り返すだけで一向に目を覚まさない八戒の姿を見ていられなくて、俺の足は自然と通いなれた場所へ向かっていた。
納骨堂は、いつ来ても少し肌寒い。
いつものように取り出してきた骨壺に目をやって、俺は頭の中で呟いた。
“あんたは冷え性じゃなかったっけ?冷え性なのは八戒だけか。
あんたはいつでも生命力にあふれていたな。冷え症なんて似合わねえ女だった。”
“失礼ね、私だって普通の女子なんですからね!”
すかさず花喃の不満げな声が聞こえて、俺は小さく笑った。
死んだ女の声が聞こえるなんて重症だと思うが、この女なら死んでも言いたいことは言うだろう。
5年たっても、記憶が薄らぐなんてことはありゃしねえ。
小さな蝋燭に火を灯して骨壺をそっと撫でてやると、とたんに罵声が聞こえて、俺は眉を顰めた。
“あの子になんかあったら、アンタを殺すわよ!”
確かあの時も、あんたそう言ったよな。
八戒があんたじゃなくて、俺を選んだ時。
不毛な三角関係が終わった時。
あんたが現れるまで、俺と八戒はそれは上手くいってたんだ。
今となってはガキのママゴトだったと笑われるかもしれねえけど、俺たちは…俺は、真剣だった。
そりゃ、一見優等生面したあいつと、すんなり気が合ったわけじゃねえ。
光明の世話で入った中学で、たまたま同じ寮に入っているってだけの間柄だった。
きれいな顔してるくせに全身棘だらけみたいに誰も寄せ付けないあいつは、大人しいくせにやけに人の目を惹く存在だった。
時々悪ぶったやつに絡まれてるのを見かけたけど、放っておいた。俺自身もそいつらと大差なかったし。
だけどいくら絡まれても痛めつけられても、何事もなかったように無表情なあいつのことが、いつのまにか気になっていた。
いつも冷たい表情しか見せないあの整った顔が、笑ったらどんなにきれいだろうなんて考えながら、遠くから眺めていた。
ある日体育館裏でサボって煙草を吸っている時に、たちの悪い上級生のグループに体育倉庫へと連れ込まれるあいつを見かけた。
高等部のやつらもいて、みるからにヤバい雰囲気だった。
何で助けたのか、よくわからない。その時はただの気まぐれだと思っていたけど、無性に腹が立っていたのは確かだった。
窓を蹴破って中へ飛び込むと、レイプされる寸前だってえのに、あいつは怖いとか哀しいとかいう感情を知らないみたいに平然としていた。
俺がぶちのめした男たちが転がる中、むき出しになった肩や胸を隠そうともしないで、
“ありがとうございます、沙悟浄さん”
なんてやけに丁寧にお辞儀をしやがった。
俺の名前を知っていたことがなんだかとても照れくさくて、
“礼はいいから笑ってみてよ”
って言ったら、あいつは首を傾げながらもぎこちない笑顔を見せてくれた。
その瞬間、俺は八戒に惚れたんだ。
あいつは人との距離の取り方がわからねえみたいで、しょっちゅういろんなやつとぶつかっていた。
冷たいと思われるほど頭が切れて、授業中に若い教師を泣かせるくらい質問攻めにしたり、歯に衣着せぬ物言いでクラスのやつらを追い詰めたりするから、誰も近寄らなかった。
あいつ自身も誰とも接点を持とうとしなかったけど、あの日から、俺にだけは気を許してくれるようになった。
はみだしていたけど俺も群れるのは嫌いだったし、苦手だった。そんな所で気が合ったんだろう。
ベタベタした仲じゃなかったけど、気が向けば寮の部屋で話をしたり、カードをして遊んだり。
時には深夜に寮を抜け出して、三蔵も交えてバカやったりした。
あいつは普段貼り付けている冷たい表情の下に、ハッとするほどあどけない表情を隠していた。
学校では決して見せない笑顔を向けられるたびに、俺の胸はバクバクと音を立て、愛しさで締め付けられるような気がした。
俺はあいつに恋をしていた。そしてあいつも、俺の気持ちに応えてくれた。
中学を卒業するころには、互いの全てを手に入れた気になっていた。
そんな俺たちを、三蔵は面白くねえって顔で眺めていたっけ。
あんたが現れたのはそんな時だったんだ、花喃。
生き別れの双子の姉がいると知った時、あいつはそれまで見せたことのない顔で笑ったよ。
親の愛情に恵まれず、自分はこの世でただ一人きりだと思って頑なに自分を守ってきたあいつにとって、あんたの存在は、そりゃかけがえのないものだった。
俺だってガキの頃から虐待されて、親の愛情なんて知らずに育った。それでも俺を残して死んじまった両親の顔は、写真を見せられて知っていたからな。
あんたが現れるまであいつは、孤独な自分を愛してくれるのは、俺しかいないと思っていたんだ。
あいつの抱える陰の性質に対して、あんたはとことん陽に見えた。
多分こいつらは、手違いで母ちゃんの腹の中で二人に分かれてしまったんだ、なんて感じた。多分二人を知るやつらは皆、そう思っていただろう。
実際どこまでも明るくて前向きでパワフルで、しかも成績優秀で美人なあんたは、すぐに校内の人気者になった。
生徒会長なんかバリバリこなして、でも俺たちとクダラナイ遊びも平気でやって、本当に面白い女だった。
あんたに引きずられるように、八戒も積極的になっていった。
びっしり纏っていた棘を上手く隠して、愛想笑いと人当たりのよさを覚えていった。
そうするともともとが魅力的なヤツだから、いろんな奴らが寄ってきて、あいつの世界は一気に広がった。
それでも八戒は俺との繋がりをいつも大切にしてくれていたから、俺は特段不満はなかった。
だけど。
本当のあんたは、とんでもなく情が深くて怖い女だってことに気付いた時、俺は後悔した。
あんたがあいつを“悟能”と呼ぶ時の目。
アレは明らかに、恋に狂った女の目だった。
“アンタがあの子と知り合うずっと前から、私たちは一つだったの。二つに分かれてしまった魂は、一つに戻るべきなのよ”
何が何でもあいつを手に入れるんだと宣言された時、俺は歯噛みした。
八戒があんたを拒めるはずがないと、わかっていたから。
“ホモ!”
“変態!”
俺とあんたは、互いに憎しみと友愛の感情が入り混じった、奇妙な関係だった。
顔を合わせば悪態をついていたが、それでも友人として、何より八戒にとっての大切な存在として、互いを認めていた。
八戒はいつも困った顔をして笑っていた。
“二人とも仲良くしてください。僕にとっては、二人とも大切な人なんですから”
きっとそれはあいつの本心で、それ以上の言葉を持たなかったんだろう。
だが俺たちは、そんなキレイゴトじゃ満足できなかった。
俺は俺のやり方で。あんたはあんたのやり方で。
あいつを追い詰め傷つけた。
短い学生生活はあっという間に過ぎて、俺たちは高三の冬を迎えていた。
卒業後は海外の大学に進学することに決めたあんたと、三流私立大学生になる予定だった俺と。
どちらを選ぶのか、あいつは随分悩んだだろう。
本音を言えば今までみたいな曖昧な関係が、ずっと続くことを望んでいたんじゃないだろうか。
だけど時間は容赦なく迫り、八戒は年が明けた頃に一つの決断をした。
それは俺の部屋で三人で炬燵を囲みながら、めずらしく勉強なんかしている時だった。
“僕はこっちの大学に入ります”
八戒は穏やかに笑いながら、そっとあんたの手を握った。
“…そっか”
あんたは目を伏せて、自分に言い聞かせるように呟いた。
“私じゃなくて、悟浄なのね…”
“花喃”
あんたの震える掌を、あいつは愛しそうに握りしめていた。
あんたはすぐにきっぱりと顔を上げて、晴れやかに笑ったな。
“大丈夫よ、悟能。私には使命があるから。あっちでバリバリ勉強して、宇宙に行くの。今に世界が驚くような仕事をしてやるんだから”
空いている方の手で八戒の頭をくしゃくしゃとかき回しながら、
“あんたも頑張りなさい。向こうとこっちで競争よ。”
そう言って、思いきりあいつを抱きしめた。
その表情はもう恋人の顔じゃなくて、弟を想う姉の顔だった。
それから俺を見据えて
“アンタ、悟能を幸せにしなかったら、殺してやるからね。絶対幸せにしなさいよ!”
わかってるんでしょうね?って言って笑いながら、あんたは炬燵の上のみかんを次々に投げつけてきた。
“痛ぇなっ、やめろって!”
みかんの雨を笑って受け止めながら、俺は本当は泣きそうだった。
あの時八戒があんたを選んでいたら、俺はあんな風に笑ってやれなかっただろう。
本当にいい女だったよ、あんた。
あいつがいなかったら、俺は絶対あんたに惚れていた。
結局それぞれ希望の進路に進むことになった俺と八戒は、卒業後すぐに寮を出て一緒に暮らし始めた。
あんたはまだ女子寮に入っていたけど、あっちの大学が始まるまでは光明が面倒見るってことに決まっていた。
あの三蔵と同じ屋根の下で暮らせンのか?三蔵がストレスでハゲるんじゃねえか?なんて笑いながら、俺たちは大学入学までの春休みを暢気に過ごしていた。
ライブに行きたいと言い出したのはあんただったな。
お気に入りのバンドのライブがあって、チケットも3枚用意してあった。
“あっちに行ったら3人で遊ぶ機会なんてなくなるんだから、つき合ってよ”
あんたは俺のバイトをキャンセルさせて、強引につきあわせた。
“あいつと二人で行けばいいじゃん”
って言ったら、思い切りドつかれた。
日本での素敵な思い出にするんだと言って、嬉しそうに笑っていた。
地下鉄から直結のホールは、会場の入口まで長いエスカレーターに乗って行った。
開演前の混雑でホールの周辺は人でいっぱいだった。
周りのやつらは、ライブ前独特の高揚した気分を楽しんでるようにみんな笑顔だった。
先に俺がエスカレーターに乗り、すぐ下の段にあいつとあんたが並んでいた。
二人は腕を組んで微笑みあい、まるで美男美女のお似合いのカップルに見えた。
ぎっしりと人が並んだエスカレーターは、ゆっくりと上昇していった。
ふと、
“寂しいな”
背中であんたの声が聞こえて、俺は息をのんだ。
“あなたがいなくなったら、寂しいな…悟能”
そんな言葉をあんたから聞いたのは初めてだった。
弱音を吐くぐらいなら死んだ方がマシと思っているようなあんたの口から、そんな言葉が出るなんて。
“花喃…”
柔らかくあんたの名を呼ぶ声が聞こえた。
八戒はどんな顔をしているんだろう。
なんだか無性に胸が痛かった。
俺は振り向く勇気もなくて、ただゆっくりとエスカレーターに運ばれていた。
三人で過ごす、最後の春休みだった。
俺たちはいろいろあったけど、思い出に残る一日になるはずだった。
それなのに、あんなことになるなんて――
気づくと蝋燭の炎が消えていて、小さな堂内はますます薄ら寒くなっていた。
「随分熱心ですねえ」
穏やかな声に振り向くと、全く気配がなかったのに、扉の横の壁にもたれて光明が立っていた。