over the rain
1.
濃くいれた緑茶を机に置いた時だった。
「お前がほしい」
まるで菓子もほしいと言うように何気なく告げられて、僕は動きを止めた。
思わず目をやった先の整った横顔は、少し不機嫌そうに書類に目を落としたままだ。
いたって普段通りの三蔵の様子に、すぐには言葉が見つからない。
何故?とか冗談か?と浮かんだ後に、この身の生き死にを決めた人なのだからこの人にはその権利があると思い至った。
三蔵が望むなら、僕は諾と返すべきだろう。
「断る理由が思い浮かびません」
正直に告げると、三蔵は静かにペンを置いて僕を見た。
「意味わかってんのか?」
「ええ、多分」
苦笑しながら立ち上がると、三蔵は気まずさを感じさせない自然な動きで僕の腕を取りソファに誘った。
意外に温かく穏やかな指先が、シャツにかかりボタンを外していく。
されるがままなのもどうかと思い三蔵の法衣に手を伸ばすと、「大人しくしてろ」と押し留められた。
僕だけを脱がすのが好みなんだろうかと馬鹿なことを考えて、この場所だからなのだと気がついた。
いつ誰が入ってくるかもわからないこんな部屋で、三蔵様が露な姿を曝せるわけがない。
一体何を考えているのだろう。
そもそも大罪人の妖怪を相手にするなんて、気まぐれだとしても“三蔵”の名が地に落ちるだろうに。
もしかしたらこの人は、それを望んでいるのかもしれない。
まるで神が造ったように完成された美しい容姿とは裏腹に、時折見せる型破りな振る舞いからは、破壊願望のような危うさを感じることがある。
絶妙なタイミングで現れ、強烈な光で僕をこの世に繋ぎ止めた人。
おかげで僕はすっかり死に損ってしまった。
この人は苦手だ。
もしかしたら憎んでいるのかもしれない、と思うこともある。
今でも雨が降る度に、あのまま楽な道を選べていたらという思いにとらわれてしまう弱い僕には、この人は眩しすぎる。
それなのに僕は悟空の家庭教師まで引き受けて、定期的にこの部屋に足を運ぶ。
なんでわざわざと問われれば、苦手と思う同じくらいの熱量で惹かれているからなんだろう。
“三蔵”という重い荷を負っているのだ。
品行方正なだけで得られる立場ではないだろう。
多くの血を浴び、深い傷も抱えているはずだ。
それでも正気も良心も失わず、前を向いていられる強い人。
僕に触れても、この人は決して穢れることはないだろう。
そう思うと、残っていた逡巡がほどけたように力が抜けた。
同時に、僕を自由にする権利があるもう一人の人が頭をよぎる。
多分あの人は、僕なんかが触れたら決定的に汚してしまうんだろう。
色男を自認する紅い髪の友人とそんな機会があるはずもないけれど。
「やめた」
何か態度に出たのだろうか。
鋭い人だ。
「え?」
見上げると、欲の欠片も感じさせない静かな瞳が見返していた。
「もうやめた。帰れ」
こんな中途半端な状態で?
上も下も乱された衣服のなかで、熱を持ち始めた体が震える。
「三蔵」
「つまらねえ。煙草の方がましだ」
三蔵はそっけなく身を起こすと、執務机の上の煙草を手に取った。
身支度をする僕の様子を、三蔵は机に腰かけて煙草を手にぼんやりと眺めていた。
「好きでもない者とこんなことをするのは、どうかと思いますよ」
意趣返しのつもりで口にすると、途端に強い視線が向けられた。
「俺は好みじゃねえ奴に触れたりしない」
「え?」
思いがけない言葉に耳を疑った。
立ち尽くす僕を見て、三蔵は不敵に笑った。
「構わねえさ」
「え?」
「お前の気持ちなんか関係ねえ」
「何を…勝手なことを」
三蔵は立ち上がり、僕との間をつめた。
向けられた紫の瞳がきれいだな、と思った瞬間、淡い熱が唇に触れる。
伸びてきた手が頭に添えられて僕は操られるように唇を開いていた。
口内に熱い塊が入り込みタバコの苦味に満たされる。
驚きに怯む舌を捉えられ、下唇を軽く噛まれても、僕は馬鹿みたいに突っ立ったままだった。
ゆっくりと身を離した三蔵の瞳には、見たことがない熱が宿っている。
考えたこともなかった。この人が、僕を…。
「あの…」
続く言葉を探しているうちに背を押され、気づいたらドアの外に押し出されていた。
「返事はいらねえ」
背中でゆっくりドアが閉まる。僕は一人、茫然と廊下に立っていた。