りんご
その湖は変わらずにそこにあった。
ひたひたと岸辺に寄せる小さな波に目を落としながら、八戒は湖面を囲む冬枯れの林から響く鳥の声に耳をすませた。
人気のない湖の周りはびっしりと霜が降り、靴の底を通り越して冷気がはい上がる。
以前ここに寄ったときは、暑い季節だった。あまりの暑さに耐えかねて、ここで4人で水浴びをしたっけ。
ざく、と霜を踏む随分とくたびれてしまった自分の靴を見下ろして旅の長さに少し思いを馳せてから、八戒は握ったままだった掌を開いた。
頼りない冬の朝の日差しを受けて鈍く輝く銀色の鍵と、そこにつけられた林檎を模った赤いキーホルダー。
小さな鈴のついたそれは同居を始めた頃、悟浄が鍵と一緒に八戒に手渡したものだった。
“りんご、好きなんだろ?”
“え?”
“いや、あの時さ…”
――綺麗な赤ですね――
思わぬ形で許されて寺を出され、最初に思い描いたのはあの人の赤だった。
一目姿を見ることができれば、それでいい。気付いた時には、悟浄の住む街に足を向けていた。
それなのに、市場で林檎を手にする悟浄を目にした瞬間、思わず声をかけていた。
林檎の色に負けないくらいにきれいな赤を纏ったあの人が、あんまり鮮やかだったから。
それが過ちの始まりだった。八戒はまた、性懲りもなく恋をした。
“好きなのは、りんごじゃなくて、あなたなんですよ”
鍵を受け取りながらその言葉を飲み込んだあの日から、多くの時間が流れてしまった。
あの家で過ごした穏やかな日々。到底戻れるとは思わなかった西への旅。
今、生きてこの場所にいることが、八戒にはまだ信じられなかった。
4人ともひどく傷ついているけれど、笑いながらジープに乗り長安に向かって走る日がくるなんて。
西へ向かっていた時の困難さに比べて、帰路はあっけないほど順調だった。
このままでは、あの人と過ごしたあの家へ戻ってしまう。
八戒は掌の上の林檎をそっと持ち上げた。
りん、と小さな音がする。
あれは旅の長さに少し飽いていた頃だったろうか。
無事に使命を果たしたら、それぞれ何をしたいかという話になったことがあった。
三蔵は寺に戻った後、ゆっくり温泉につかりに行くのだと宣言した。
悟空は三蔵と一緒に温泉に行って、美味いものを食べるのだと語った。
“悟浄もあの家に戻るんだろ?”
悟空の無邪気な問いに、悟浄は煙草の煙を吐きながらニッと笑った。
“あんな家、別に未練もねえし。帰り道にいい女見つけたら、降ろしてもらおっかなぁ”
“じゃああの家で、俺が八戒と暮らしていい?”
名乗りを上げた悟空に三蔵は眉を吊り上げ、悟浄はいいんじゃねえのと笑った。
“あ、でも俺、鍵無くしちまったかも”
その言葉を聞きながら、八戒は小さく笑った。
当然だ。自分たちに約束などないのだから。
旅の間何度か体を重ねたこともあったけれど、それはただ一時の寂しさを紛らわすためのもので、互いに深い意味など求めなかった。
何度もそう言い聞かせてきたはずのに。自分はどこまで欲深い。
八戒は歩を進めて、暗く静かな水面を見つめた。
ここなら相応しい。
この醜い想いを沈めるのにちょうどいい。
手を放すと、それはあっけなく姿を消した。
八戒は音もなく広がり消えてゆく小さな輪を眺めながら、指先から消えた鍵の感触を埋めるように強く手を握りしめた。
さよなら。
これでもう、あの人は自由だ。
「さて、僕はどうしましょう…」
あの人たちを送り届けたら、また旅に出るのもいいかもしれない。
自分には帰る場所などないのだから。
「ここ、行くときも通ったよな?」
突然背中で声がして、振り向くと悟浄が立っていた。
「一年くらい前なのに、すげえ昔な気がすんな」
霜を踏みながら近づいてくる紅い髪が、冷たい風に揺れている。
その掌の中には、今手放したはずの鍵が、鈍く輝いていた。
よく見ると鍵についているのは、緑色の林檎だった。
悟浄の鍵だ。
「どうして…?」
目の前の赤い瞳に、震える声で問いかける。
「ジャケットのポケットの奥に入ってた。ほら、ここんとこ」
そう言って悟浄は上着を開いて、左胸の内側のポケットを指差した。
「無くしたらヤベェって思って、ずっとしまっておいたんだぜ」
悟浄は照れくさそうに八戒の掌に鍵を落とした。
「俺、無くしちまうと困るからさ…」
りん、と小さく鈴が鳴る。
「あの家に帰るまで、お前が持っててよ」
掌の鍵は温かかった。
その温もりに縋るように、八戒は掌を強く握りしめた。
「仕方ありませんね」
震える声に気づかぬふりで、悟浄は握ったままの冷たい八戒の手をその温かい掌で包み込む。
「さっきからサルが朝メシまだかってウルセェの。坊主は寝起きで超機嫌悪イし。八戒さんをお待ちかねだぜ」
「貴方たち、進歩しませんね」
「ったり前だろ。どう変われるっつーの?」
「それもそうですね」
これからも、変わらない日々を願ってもいいのだろうか。
この人とあの家で、同じ時を過ごしてもいいのだろうか。
赤い瞳が、優しく八戒を見つめている。
ああ。
なんでこの人は。この赤は。
何年たってもこんなに心を奪うんだろう。
胸が、苦しい…
気がつくと、長い髪を引き寄せて唇を重ねていた。
待っていたように深くなる口づけに、少ししゃくだと思いながらも、夢中でその背中にしがみつく。
応えるように抱きしめられて、その腕の強さと温かさに胸の奥が熱くなる。
鍵を水底に沈めたくらいで、この人を手放せるはずなどなかった。
「美人サンもつかまえたことだし、そろそろスピードアップと行こうぜ」
小さなキスを頬に落として、悟浄は見惚れるようなウインクを見せた。
「僕のモットーは安全運転なんですけど」
「そうだっけ?」
「そうですよ」
知らなかったぜとつぶやく悟浄に微笑みを返すと、八戒は掌の鍵を大切に上着のポケットにしまった。
「じゃあ、行きますか」
「行きましょ」
あの家へ、帰りましょう。
歩き出した二人の背中で、静かに水面が揺れていた。
水底で微かに、鈴が鳴った。
end
帰り道もこんな感じの二人です。
(2012.2.14)
*『wired or chained』のWIREDさまが悟浄視点のお話を寄せて下さいました。なんという幸せ!
男前な悟浄をぜひご堪能下さい。→ ■