beloved
pro.
どうしてこんなことになってんだっけ?
半分以上まわってない頭で思いだそうとしてみたが、何も浮かんでこなかった。
どうしようもなく重く疲労の残る身体をソファに預けたまま、深く息を吐きだす。
つっぷした俺の横で立ちすくむ八戒がこっちを見下ろしているのがわかっていたけど、俺は顔をあげなかった。
いや、正確に言えば、上げられなかった。
奴はきっと、さっきまでとは別人のように清廉な顔をしているに違い無い。
そんな顔も悪くはないけど、今はちょっと…勘弁して。
「悟浄」
擦れた囁きと一緒に、肩にそっと八戒の掌が触れる。
その温かさが、ひどく胸をうった。
いつもは冷たすぎるくらいの掌が、信じられないほど温かく甘いことが。
1.
八戒と同居するようになってから、二度目の秋を迎えようとしていた。
あれほど煩く鳴いていた蝉の声も気付けば聞こえなくなり、澄んだ空の下、湿度の低い風が吹き抜ける。
そんな九月のある晴れた日、太陽がその姿を見せ、そろそろ一日が始まろうかという時分。
八戒に言わせれば爛れた生活の象徴であるらしい、酒と煙草と安っぽい香水の臭いを漂わせながら、俺は玄関のドアを開けた。
「おはようございます」
「うおっ!」
心臓が飛び出るほど、驚いた。
目の前に八戒が立ちふさがっている。
「おかえりなさい、悟浄」
もの凄いセンスのエプロンなのはいつものことだが、いつにも増してさわやかな笑顔なのが恐ろしい。
どうやら朝食の支度の最中のようだ。
だが右手に包丁を握りしめ左手にステンレスのボールを抱えて微笑む姿は、台所なら絵になるが玄関先ではちょっとコワイ。
「な、何してんの?」
「何って…朝ごはんの用意をしているんですけど」
八戒がやけに可愛らしく小首を傾げると、きらりと刃先が光った。
「茄子を使いたいので、裏に行こうと思っていたところなんです」
裏とは、この家の裏庭に八戒が作った家庭菜園のことだ。
いつの間にか掘り起こされ小さな畑となったその場所には、結構立派な野菜が生っている。
こいつの丹精がこめられてるんだから、そりゃ野菜も一生懸命生るだろう。
この夏はきゅうりにトマトにピーマンにと食卓を賑わしたもんだ。安全でしかも家計も大助かりというわけだ。
八戒はあきらかに二日酔いの顔でどんよりと突っ立っている俺を見て、小さく眉間を寄せた。
「随分とお疲れですね」
「あ〜、…ちょっと飲みすぎちまって」
「お風呂沸いてますけど」
八戒は俺の横を通り過ぎて外へ出ると、くるりと向いた。
「傷は濡らさない方がいいですよ」
にっこり微笑むと、俺の鼻先でわざとらしくバタンとドアを閉めやがった。
夕べは行き着けの酒場でちょっとした揉めゴトがあった。
独りでぶらりとやってきた見ない顔の客とひょんなことから勝負することになって。
最初は適当に勝たせてやって頃合を見て本気を出したら、負けがこんだ途端ゴネだした。
少し脅してやったらいきなり刃物なんか取り出しやがって、これがまた引き際が悪くてねえちゃんの一人を人質にとったりして見苦しいことこの上ないから、カッとなってちょっと暴れすぎた。
相手には相当なダメージを与えたはずだが途中からこっちも妙な感じに足にキていた。
あれは勝負の最中に飲んでた酒の中に、何か盛られたとしか思えねえ。
殴られて倒れたところにナイフが落ちてきて右腕を掠った。
大した怪我じゃなかったが、隙をつかれて逃げられたのは不覚だった。
いつもなら揉め事をおこせば渋い顔を見せるマスターが昨夜ばかりは寛容で、傷の手当をしてくれた上に一杯おごってくれた。
どうやら人質にとられたねえちゃんは、マスターの女だったらしい。
俺はどうにも収まりがつかなくて、おとなしく家に帰る気になれなかった。
聡い同居人は血の匂いにも敏感だ。余計な心配をかけたくなかったのが本音だった。
俺は結局朝まで酒場の片隅に居座った。
店を閉めながら家にくるかと誘ってくれるマスターに礼を言って、夜明けの薄闇の中、やっと家へと足を向けた。
礼のつもりか、りんごを数個持たされた。早生だけどたくさんもらったから、美人のオニイサンと食べてよ、と。
そのオニイサンが問題なのだ。
マスターの巻いてくれた包帯を濡らさないようにシャワーを浴びると、随分気分がよくなった。
しっかりシャツを着た後で濡れた髪を拭きながら居間に戻ると、八戒はさっき俺がその辺に放り出しておいたりんごを剥いていた。
「それ、酒場のマスターからもらってさ。もうりんごなんか出回ってるんだな」
「もう秋ですからねぇ」
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出しながら、八戒の横顔を盗み見る。
いつも通りの穏やかなほほ笑みにホッとしながら、後ろめたい気持ちがあったせいで余計な一言がつい口をついた。
「もうすぐだな」
「何がですか?」
「誕生日」
「誰のですか?」
「お前だよ」
「…そうでしたっけ?」
「そうそう」
「八戒は手にした包丁を器用に動かしながらりんごを剥いていく。
途切れることなく続く皮の色は薄くて、夕べ腕から流れたモノとは違う。
何故か今はその色に少しほっとした。別に紅いりんごが嫌いなわけじゃないけれど。
「何かほしいモノないの?」
「別にありませんよ。この年になって、誕生日プレゼントもないでしょう」
「そんな枯れたこと言ってないで、考えとけよ。なんなら坊主にたかってもいいしな。お前この間の報酬、ちゃんともらってないんだろ?」
「あれは、いいんですよ」
「ただ働きなんかしてると、どんどん付け上がるぜ、あいつ」
飲み終わったペットボトルをグシャリと潰してゴミ箱に入れると、きれいに皿に盛られたりんごに手を伸ばした。
「あ、悟浄」
「なに?」
「ちょっと右腕、見せてください」
さり気ない口調で呼びかけられて、俺はりんごに腕を伸ばしたまま動きを止めた。
「え?」
「怪我してるでしょう?」
やっぱ誤魔化せなかった。
「大したことねーって。ちょっと転んだだけ」
「そんなことで、あなたが怪我するわけないでしょう」
「…えーっと、実はちょっと浮気がバレて刃傷沙汰に…」
「ああ、それならあるかもしれませんねえ」
八戒は納得したように頷いた。
ひどくねえ?俺を何だと思ってんだ。
「でも八百屋のおかみさんのお話によれば、今あなた、フリーですよね」
恐るべし八戒の情報網。この分じゃ、夕べの騒動がバレるのも時間の問題だ。
「治療させてください」
「こんなの舐めときゃ治るって」
八戒は俺の傍に寄ると、無言で俺の腕を取った。
「痛っ!」
信じられない。鷲掴みして捻りやがった!
「ほら、痛い」
当たり前だ!
ついでに背中も足も、あっちもこっちも痛えんだ。
あんなチンピラ、普段なら何ともないのに。
「強情はらずに見せてくださいよ」
俺は取り戻した腕を擦りながら首を横に振った。涙目になってるのは気のせいだ。
俺のせいでこいつが身を削るみたいにしてあの力を使うのは、どうにもイヤだった。
最近身につけたというその力を使うことは、慣れないせいかひどく体力を消耗するらしい。
「僕なら大丈夫ですから」
「い・や」
「わからずや!」
八戒の口調が激しくなって、瞳の色が深くなった。
八戒は怒ると怖い。
瞳が研ぎ澄ましたように鋭くなる。それでいて貼り付けたような綺麗な笑顔で理路整然と諭された日には大抵の奴は後ずさるだろう。
普段穏やかな人間がまるで仮面をつけたみたいに冴えた表情をするのがめずらしくて、今まで何度か怒らせてみたことがある。
おきまりの空き缶を灰皿にするとか、今日みたいに無断で朝帰りとか。
自分でもガキみたいだと呆れながら、そのキレイな顔を眺めている。
だけど今みたいに、こっちが意図しないことで怒るときの八戒は、すごくいい顔をする。
ふだん慎重に隠している想いが思わずあふれ出してしまったような、激しい表情。
こいつはこの細い体の中に、一体どんな想いを閉じ込めているんだろう。
人であることを捨てる程に愛した女への尽きない愛情。犯してしまった罪への後悔。それでも生きていこうとする強い意志。
そんな男が俺のせいで、笑ったり怒ったりするっていうのは…なんかものすごく怖い。
怖いけど、痺れるように気持ちがいい。
きっと八戒のこんな姿を、坊主や猿は知らない。
もっとこの表情が見たくなってる自分に内心苦笑しながらも、だからその言葉を口にしたのは確信的だ。
「お前には関係ねえだろ」
瞬間、碧の瞳の奥に暗い炎が燃え上がる。
そのあふれ出るような感情の強さに、俺は見とれた。
多分。
自惚れていいなら多分、八戒が本気で怒る理由は、俺が何かを諦めているからだろう。
何かが何なのか、自分でもよくわからない。そもそも何かを望んだことなんか、なかったから。
生きて行けるだけの金と美味い煙草があって、たまに女や酒があれば十分だった。
気まぐれで恋愛めいた関係になったこともあったけど、だいたいいつも相手に見限られて終わるパターンになっていた。
でも夕べは自棄になってたわけじゃねーからな!多分ゲームで劣勢になった男が、酒の中に薬でも入れただけだから!
そう言いったら八戒は、「余計に悪いです」と呟いて、ますます顔を白くした。
俺が誰かに不用意に身体を傷つけさせた時、こいつはひどく腹を立てる。そしてなぜかその怒りは、俺に向けられる。
まるで自分が価値のある存在のように扱われることにいつまでたっても慣れない俺は、どうしていいのかわからなくてつい反発しちまうんだけど。
「その包帯、誰に巻いてもらったんですか?」
八戒は、見えないはずのシャツの下の包帯をきれいな指で指した。
「助けてあげた美人のおねえちゃん」
本当はひげ面のクマみてえなおっさんだけどな。
「僕ならすぐに塞いであげるのに」
「愛情という薬がたっぶり籠められているから大丈夫♪」
その瞬間八戒の掌に小さな光が集まって、気功をくらった俺はソファの上に吹っ飛んだ。
(2011.9.15)
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