モノポリスト
2.
長い間、家は寝るためだけの場所だった。俺の生活のメインは賭場か酒場か女の家か。
気まぐれで女を住まわせたりしたこともあったけど、面倒くさくなってすぐに追い出したり。
ダチと暮らしてた頃だって、飲んで騒ぐか寝ているか。寛いで家でゆっくり過ごした記憶なんてろくにない。
そもそもまともなウチがどんなものかなんて知らないから、そんなもんだろうと思っていた。
だけど、これは。この数ヶ月は、ナンなんだ?
家の中はいつでも心地よく整えられて、食事も風呂も用意されてて。おまけに優しい笑顔で出迎える薄幸美人が俺を待っている。そんな家に帰る、この状態は。
まるで自分じゃないような、この浮き立つような気分は。
“おかえりなさい”
きれいな碧を柔らかく細めてその言葉を口にする八戒の顔が見たくて、俺は家に帰るんだとある日気がついた。
そしたら急に怖くなって――。
八戒が咎めないのをいいことにわざと女の所に通ったりして、軽く自己嫌悪。
胸の奥に激情を秘めながら穏やかな笑顔を浮かべる恋人との暮らしには、いつまでたっても慣れなくて。
慣れちゃいけない気がして。
だってこんなこと、いつまでも続くはずがない。
こんな、柔らかい毎日が。
「タダイマ…」
遅くなった言い訳を心の中で練習しながらそろそろと玄関のドアを開ける。
怒った顔も見惚れるほどきれいな碧の男の、大げさなため息と嫌味の数発を予想していたのに、部屋の中に八戒の姿はなかった。
テーブルの上には最高僧御用達、長安一の最高級和菓子店の箱が置いてある。
やっぱりやって来やがったかと小さく舌打ちして、さぞかし八戒は機嫌を損ねていることだろうと考えた。
俺が酔いつぶれて朝帰りしようが女の所に泊まろうが平気な顔してみせるくせに、八戒はあいつらが来る日にはやけにウルサイ。
前にうっかり忘れてすっぽかしたら、えらく怒られたことがあった。
前日から家の中を磨き上げて大量に買出しして、朝から腕によりをかけて料理を作って。
あの二人が八戒にとって特別だということはわかってはいるが、俺としては少々オモシロくない。
年下なのをいいことにやけに八戒にまとわりつく悟空といい、俺様な態度であれこれ世話をやかせる三蔵といい、八戒を何だと思っているのか。あいつらに向ける八戒の心底嬉しそうな笑顔を見ていると、妙に胸がざわついてイライラする。何よりもあんなやつらに嫉妬してる自分が情けなくて腹立たしい。
そういう訳で、今日は確信犯だったわけだけど…。
もしかして怒って三蔵たちと寺に行ってしまったかと思ったが、部屋の灯りは点いたままだし玄関には鍵がかかっていなかった。
ちょっと散歩にでも行ってるのかもしれないと考えて、念のため八戒の部屋を覗いてみた。
いつ見てもびっくりするほど物が少なく整理された部屋は、主がいないと寒々しいくらいだ。
必要以上に物を増やさないのは、まるでココに居つくつもりはないんですよと訴えているようで。
想いを伝え合い身体を重ねても、八戒は俺と一定の距離を置こうとしているように見える。
時々喰らうように激しい瞳で俺を見てるくせに、俺の爛れた交友関係に小言も言わず好きにさせておくのもそのせいだ。多分それがアイツにとってのささやかな戒めってやつなんだろう。
少し落ち着かない気分で自分の部屋のドアを開けた俺は、ノブを握り締めて立ちすくんだ。
薄闇の中、ベッドに横たわる黒い影。
見覚えがある薄い背中のラインにホッとすると同時に、どこか具合が悪いのかもしれないと考えて胃の辺りが冷える感覚に息をのむ。
そっと近づいてベッドサイドの灯りのスイッチを探ると、淡い小さなオレンジ色の光に浮かび上がった八戒は、穏やかな顔で眠っていた。
昨日俺が脱ぎ捨てたシャツに顔を寄せ、まるで大事なもののように抱きしめている。
無防備なその寝顔からは、普段の落ち着いた理知的な表情や誰も敵う者のない毒舌は想像もできない。
この細い身体が背負っている、壮絶な過去と重い未来も。
うたた寝するのはいいけれど、何もかけなきゃ風邪をひく季節だ。
俺はベッドの上にきちんとたたんであった毛布を広げて、八戒の背中にかけてやった。
八戒は小さく身動きして手の中のシャツをしっかり手繰り寄せると、ほうっと息を吐いてその唇に小さく笑みを浮かべる。
思わずこっちまで微笑んでしまうようなその幸せそうな顔に誘われて、俺は八戒の乱れた髪に手を伸ばした。
そっと触れると素直な髪はふわりと揺れて優しく指先に絡みつく。
放し難くて何度か梳き下ろしていた俺は、突然胸に込み上げた想いに指を引いた。
それは苦しいくらいの愛しさと、いつも影のように付き纏っている小さな恐怖。
わかっているはずなのに、諦めているはずなのに。
これはいつ掌から零れてもおかしくない、身に過ぎたシアワセなんだと。
それに気づいたのはもう何年も前のことだった。
知らない間に胸の奥に、球根のように失うことへの恐怖が埋まっていた。
深く根を張っていて、もう掘り出すことは不可能で。芽が出ることも花を咲かせることもなく、ただ諦めだけが育っていた。
大切なものは欲しくなかった。失くしても惜しくないものしかいらなかった。
八戒とこんな関係になっても、これは他の女たちと同じことだと自分自身に言い訳して。八戒にのめり込んで怖くなるとわざと女を抱いたりして。
深入りしないように、本気にならないように。失った時のダメージが少ないように。
だけどそれは八戒ほど大切なものはないんだと確かめてるようなもんで、手遅れな自分を思い知らされるだけだった。
誰にも、何にも、執着なんてしたくなかったのに。大事なものなんて、手にしたくなかったのに。
「八戒…」
思わず呟いた俺の声に応じるように、八戒はうっすらと瞳を開けた。
小さく寝返りをして俺を捉えると、まだ夢を見ているようなあやふやな瞳で淡く微笑む。
「ごじょう―」
少し舌足らずな声は掠れていて、あどけない子供のようだ。
胸の中の柔らかい場所を締め付けるような痛みに、俺は強く掌を握り締めた。
愛しいとか切ないとか苦しいとか。言葉にできない想いがぐるぐる渦を巻いて出口を求めている。
「…シャツだけでいいの?」
「え?」
自分の握り締めているものに気がついた八戒は、驚いて身を起こした。
寝起きでいつものポーカーフェイスも間に合わない。うっすらと頬を染めて頼りなげにこっちを見上げる。
「中身はいらないの?」
薄い肩を引き寄せて耳元で囁くと、八戒は小さく震えてさらに指先に力をこめる。
きれいな指が握りしめたままのシャツにまで嫉妬して、俺は八戒の体温で温まっているそれを奪い取って床に投げ捨てた。
碧の瞳が驚きに見開かれる。
「ごじょ?どうし…っ!」
強く抱き寄せて唇を合わせた。奪うように深く舌を絡ませる。
驚きに固まる八戒をベッドに押し戻して抱きしめると、すぐに暖かな腕が背中にのびてきて。縋るようにしがみついて強く抱きしめてくれるから、もっと欲しくなって、貪るようなキスに溺れてしまう。
「ん…っ…ぁ」
息苦しさから喘いだ八戒が晒した首筋に舌をはわせると、敏感な身体はすぐに快楽を拾い始める。些細な刺激でも漣のように身体中に広がって行く様子が愛しくて、追い詰め過ぎない様に気をつけるのが辛いほどだ。
もっと直に熱を感じたくて性急に服を取り去って、細い身体を開いてゆっくりと深く沈んでゆく。
余裕のない息遣いも抑えきれない甘い声も、全て俺のためのもの。そう思うだけで、もう俺は――。
「中身の方がイイでしょ?」
快感と痛みでその指の関節が白くなるほどにきつく俺の腕にしがみつきながら、八戒は俺を見上げて鮮やかに笑った
「当然でしょう。もっとあなたを、ください」
今も八戒が胸の中に大切に抱きしめているねーちゃんに敵わないのは仕方がない。
年下の子供を見る優しい瞳や信頼と尊敬の入り混じったまなざしも、仕方ねぇからあいつらに分けてやる。
でも、熾火のように執着を宿すこの瞳は。触れるだけで俺を狂わせるこの熱は。
俺の名前を呼ぶ時見せる、とけるような微笑みは。
誰にも、ほんの僅かでもやりたくねぇ。
こんな顔を誰かに見せたら、こんな声で誰かの名前を呼んだら。
俺はきっとこいつを殺してしまう。
互いに登りつめて吐き出した後の真っ白な頭に浮かんだのは、ゾッとするような確かな想い。
そんなことを考えた自分に驚いて腕の中を見下ろすと、八戒が涙の滲む瞳で柔らかく微笑んだ。
「おかえりなさい、悟浄」
もう取り返しがつかない程、囚われてる。
こういうの、なんて言うんだっけ。
あぁ、そうか。
これが、独占欲。
生きてるってこういうことか。
end
(2009.12.23)
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