夜明け前





1.





「今、悟空のこと考えてたでしょう?」
痛みと疲労と空腹と。
何より纏わりつくように降り注ぐ霧雨の冷たさが気を塞がせる。
言葉を吐き出すことさえもおっくうで、三蔵は成り行き上共に夜明かしをすることになってしまった男へゆっくりと顔を向けた。
確かに。ぼんやりと考えていたさ。
あのバカが今ここで、笑っていたなら、と。
悪いか。




この崖下に落ちたのは夜の気配が迫る頃だった。
妖怪どもの突然の襲撃はいつものことだが、質より量といった攻撃に四人は少々苦戦した。
三蔵の視界に入っていた悟浄がどこかに消え、深追いしすぎたのか次いで悟空も暗い森の中へ姿を消した。


足場が悪い上に途中から降り出した雨の所為で視界も悪い。
いつまでたっても終わらない攻撃に痺れを切らして、三蔵が魔戒天浄を繰り出そうと考えた時だった。
知らぬ間に崖の上に追いつめられていたことに気がついて息をのんだ。
肩越しに一瞬覗き込んだ断崖は思いの外険しく、降りしきる雨のせいで霞がかかって谷底の様子は窺えない。
小さく舌打ちして視線を戻せば、猛々しい顔をした妖怪はほんの数歩の距離まで迫っていた。
青龍刀を振りかざし飛び込んでくる男を避けながら、左手の銃で撃ちぬいた。
小さく安堵の息を吐きながら体勢を立て直そうと力をこめた時、踏みしめた靴の裏が気持ち悪いほど柔らかく受け止められ動きを止める。
背筋を這い上がるイヤな感触に顔を顰めた時だった。


突然暗く湿った空が視界に広がった。
足元の崖が崩れたのだと気付いたときには、嫌な浮遊感を全身に感じながら落ち始めていた。
このまま叩きつけられれば、死ぬかもしれない――
そう思った瞬間、目の前に伸びてきたしなやかな腕。痛いほどに手首を掴んだ、きれいな掌。
「大丈夫っ…です…かっ?」
見上げると碧の瞳が真剣な色を見せていた。危険を察した八戒が、いつの間にか近づいていたらしい。
細い腕のどこにこんな馬鹿力が隠されているのか。
八戒は両腕を差し出して、僅かにせり出した岩にしがみつく三蔵を引き上げようと整った顔を歪めた。


その時三蔵は、八戒の背後に動く影を捉えた。
「後ろっ!」
「!!」
三蔵の声よりも早く察した八戒は、片腕を離すと気功を撃った。
まともに喰らった男が、吹き飛んで倒れた音がした。続けて八戒が気功を放つ。敵は一人ではなかったようだ。
だが片腕で三蔵の体重を支え、もう片腕で攻撃を防ぎ続けることは無理がある。歯を食いしばる八戒の頬を、汗が流れ落ちた。
「手を離せっ!」
「こんな時に、冗談はやめてください!」
「バカ野郎っ、いいから離せっ!」
「あぁっ…もうっ、面倒くさい!」
八戒は突然防御を解くと、渾身の力で三蔵の身体を引きあげた。
必死で目の前の地面にしがみつき這い上がった三蔵の上半身がなんとか崖に乗り上げたと思った瞬間、八戒が三蔵の肩を抱きよせた。
「っ!!!」
驚く三蔵を強く引き寄せると、八戒は何の迷いもなく地を蹴って崖の向こうへと飛んだ。
「すみません、ちょっと我慢してくださいね」
思わぬ事態に声も出ない三蔵の耳元で、やけに落ち着いた八戒の囁きが聞こえる。
耳元でごうっと風が呻る音を聴きながら、二人は暗い谷底に吸い込まれていった。









(2009.10.26)

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