その人はやわらかな日ざしの中に立っていた。
幼い自分に名を授けてくれた人。抱きしめて微笑み、見守ってくれた人。
初めて慕った人。今はもういない人。
これは夢だと分かっている。
伸ばされた手をそっと幼い頃のように握り締めた。もう離れないように。二度と失わないように。
「さんぞう」
耳を擽る柔らかい声。
その声は幼い頃の記憶と変わってないようでいて、どこかが違っている。
そもそも"三蔵"と呼ばれているのは、傍らに立つこの人ではなかったか?
訝しく思い見つめた先の優しい笑顔の人の瞳は、深い湖のような碧をしていた。
月の光のような金の髪は、いつの間にか柔らかな黒髪に変わっている。
驚いて息をのむと、それでも変わらずに微笑みは向けられて。
急に恥ずかしくなって握っていた手を振り払うと、その人は少し淋しそうに笑って目を伏せた。
The Shadow Of Your Smile
「何だっていうんだ―」
眠っている間に凭れていたシートから身を起こした振動で、ジープの車体が揺れた。
気を抜けないはずの野宿で、しかも仮眠に近い睡眠で、あんな夢をみるなんて…
どうかしている。よりによってあの男の夢を。
思わず止めていた息をはき出した。
夢の中で感じていた師に対する懐かしく切ない気持ちと、手を握っていた相手があの男だったことを知った時の動揺が、まだ共に胸の中に残っている。
三蔵は複雑な思いに顔をしかめながら、そっと隣の座席を見た。
数刻前には運転席で目を瞑り、俯き加減の横顔を見せていた男の姿はなかった。
そして後部座席では悟空が何とも間の抜けた寝顔を晒しているだけで、案の定その隣の席も空だ。
眠れなくて森の中を散歩でもしているのか、それともその辺の茂みの中でいちゃついているのか。
こんな夜更けにご苦労なことだ。
三蔵は胸のあたりに感じる鈍い痛みを無視するように、懐に手をのばした。
こんな痛みの訳なぞ、知りたいとも思わない。
煙草を探るつもりの手が思わず温かいものに触れて、三蔵は改めて自分の身体に目をやった。
寝入る時足元に置かれていたはずの毛布が、法衣の上から肩を覆うようにかけられている。
「夜半になれば冷えますから」
今夜は暑いくらいだから必要ないと言った三蔵に、少し困ったような笑みを見せながら、毛布を手渡した白い手を思い出す。
確かに空気は冷えてきていて、その温もりが心地よかった。
こんなお節介なことをするのは、あの男しかいない。
口元に穏やかな笑みを浮かべながら、時に思わぬ毒を吐くあの男。
夢の中で見せた笑顔が自分だけに向けられていたことを思い出して、三蔵は奥歯を噛みしめた。
そのことが嬉しいのか哀しいのか…わからない。
夢の中で触れた感触が残っているような気がして、繋いでいたはずの左手を見た。
ひどく骨張って傷だらけの自分の手。
あの人の手に触れることを許されていた頃のような、小さく頼りない子供の手ではない。
銃を握り締め多くの命を奪ってきた手は、ひどく穢れているように感じられた。
外見だけは大きくなっても、あの人を失ったあの時と少しも変わっていない無力な自分。
誰一人救えない。癒せない。欲しいモノを求めることもできない―
夢の中で覚えた感傷的な気分が残っている所為か、らしくないことを考えている自分に気づいて、三蔵は口元を歪めた。
先程から続く妙な感覚を振り払おうと、きつく目を閉じて眠ろうとしてみる。
だが瞑った瞼の内には、夢から覚める前に見た寂しげな笑顔が浮かび上がった。
八戒が、あの人に似ていると気づいたのはいつの頃だったろう。
捕らえ罰すべき罪人として出会った猪悟能という男。
己の罪によって生じた悲惨な運命を受け入れ、茨の道を選んだ男。
それは三蔵の下に拘留されていた頃のことだった。
生きる気力を感じさせないその男のことが子供なりに気にかかったのだろうか、悟空は何かと悟能の前に顔を出したがった。話相手には役不足だったろうに、悟能は悟空の訪問を喜んでいるようだった。
そして時折、悟空にだけは、それを見せた。
幼い子どもを慈しむような優しい笑顔。あの人が、遠い昔の自分に注いでくれた暖かいまなざし。
それを受け取る悟空は嬉しそうだった。
あの寺には悟空をそんな目で見てやる者は、誰一人いなかったから。悟空が悟能に懐くのも無理はなかった。
はっきりとどこが似ている、というわけではない。
だが時折浮かぶその微笑みが、胸の奥にしまいこんで忘れかけていた三蔵の想いを呼び覚ました。
その笑顔は、その男が八戒という名を得て随分とイイ性格になった今でも、時折悟空に向けられている。
それは決して、三蔵に向けられることはない。
当たり前だ。守られる立場のガキではないし、甘えたいわけでもない。
それなのにあんな夢をみるなんて…
「冗談じゃねぇ」
呟きが夜の闇に空しく消えた。
突然三蔵の声に応えるように悟空が寝言を言いながら大きく身じろぎをした。その拍子にその身を覆っていた毛布がずれ落ちる。
こんな時八戒なら、あの笑顔を浮かべてそっと毛布をかけてやるのだろう。
三蔵は顔をしかめながらも、毛布をかけ直してやった。
ふとその隣の空いた席に目を止めて考える。
あの笑顔は…慈しむようなあの笑顔は、紅い髪のあいつにも向けられるのだろうか?
三年前、行くあてがないのなら寺に残ってもよいのだという申し出をあっさりと断って、八戒は悟浄の元へと去って行った。
その後二人の間で何があったのか、三蔵にはわからない。
ただ八戒は悟浄の傍を選び、その場所で生きる気力を取り戻していったということは事実だ。
そして認めたくはないが、そのことが三蔵に彼ら二人、特に八戒との間に微妙な距離を取らせている。
八戒と悟浄がデキているのか、実のところ三蔵には分からなかった。
もし恋人同士なのだとしたら、二人はその関係をあからさまにしないように気を配っているということになる。
それは三蔵にというより、未成年である悟空に配慮してのことなのだろう。
だが雰囲気で、嫌でも伝わるものがある。
何気なく交わされる目配せや、呼びかける声音。
たまに二人部屋のとれた時、揃って部屋に消える後ろ姿、翌朝の柔らかな表情…
そんなことにいちいち気がつく自分に、そして胸に感じる僅かな痛みに嫌気がさす。
そんな三蔵の苛立ちが言葉にしなくても伝わるのだろうか。
八戒もまた、三蔵との間に他の二人とは違う慎重な距離を保っているように感じられた。
三蔵に向けられる笑顔は、いつもどこか遠慮がちで。
悟空に対する甘やかす様な笑顔とも、悟浄に対する気負いのない笑顔とも違う、曖昧な微笑み。
他の二人とは見ていて鬱陶しいほどベタベタと馴れ合うくせに、必要以上にはこちらに近寄ろうとしない態度。
それが人に踏み込まれることを嫌う自分への気遣いなのだとわかってはいても、何故か三蔵の心をざわつかせる。
”ばかばかしいことだ。だからどうだというのか?”
三蔵は唇をゆがめて嗤うと、ゆっくりとジープから降り立った。
手近な木の根元に腰を下ろし懐を探ると、目当てのものを取り出した。
それは昼間、最後の一箱だといって八戒が手渡して寄越したマルボロ。
その時自分に向けられた瞳の中に、最近では滅多に見られなくなった不安定な光を見つけたことを思いだして、三蔵は小さく舌打ちをした。
あんな夢を見たのは、きっとそのせいに違いない。
それは彼がまだ悟能という名だった頃頻繁に見かけた表情だった。
まるで死者を見つめるような暗い光。
多分八戒本人も気づいてないであろうその瞳に浮かんだ表情が、三蔵を落ち着かない気持ちにさせるのだ。
三蔵は手にした箱の表面をそっとなでてから、残り僅かな中から一本抜き出した。
この三年で一見過去を乗り越えたように穏やかな笑顔を見せるようになった八戒が、しかし未だ心の中に暗い後悔と絶望を引きずっているのだとしても誰も責められる事ではない。
八戒の全てを奪ったあの事件から、たった三年しかたっていないのだ。
煙草に火をつけ深く吸いこみながら見上げると、暗い空には筆ではいたような細い三日月が浮かんでいる。
闇に侵食されじわじわと身を細らせるその姿は、どこか八戒と重なった。
その時突然頭の中を掠めた記憶に、三蔵は眉根を寄せた。
まだ三年、だと?
思い至った事実に目を瞠る。
そういえば今日は……
(2009.03.19)
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