小さな楽園
2.
隣の部屋からは物音一つ聞こえなかった。
不貞寝でもしているのか、それとも自分たちの気づかぬ間に宿の外に出て行ったのだろうか。
残してきた相部屋の相手が気になるのか、八戒は隣室との壁をじっと見つめていた。
三蔵は部屋に備え付けの湯沸かし器で湯を沸かしながら、私物を入れている荷物の中から小さな缶を取り出した。
中の紙包みを開き、急須に茶葉を入れる。
次いで沸いた湯で湯のみを温め、適温になるのを待ってから、ゆっくりと急須に湯を注いだ。
湯の温度や茶葉の開き具合にまで気を配って淹れた。
狭い部屋の中に、ゆっくりと茶の香りが広がってゆく。
その間八戒は一言も口をきかなかった。
いつになく真剣な三蔵の姿を興味深げに見つめている。
三蔵は普段の様子からは想像できないほど丁寧に最後の一滴まで注ぎ込むと、八戒に湯のみを手渡した。
ためらうように手の中の温もりを見つめてから、八戒はゆっくりと口元に運んだ。
一口含むと、ふ、と瞼を閉じて、小さく息をはく。
「美味しい―」
三蔵も茶を口にした。
まあまあの出来だった。
昔は大切な人のために美味く淹れようと、真剣に気を配ったものだ。
その人のために茶を淹れる機会は、もう永遠にこない。
ゆっくりと時間をかけて茶を飲み干した八戒は、ずいぶんと柔らかな表情になっている。
三蔵は空になった湯のみに二煎目を注いだ。
今度はためらいなく手を伸ばす八戒の横顔を眺めながら、三蔵は問い掛けた。
「庭で何を見ていた?」
突然の問いかけに八戒は僅かに目を瞠り三蔵を見返したが、視線を落とすと掌の中の湯飲みの縁をそっと指先で撫でた。
「葉が――」
「?」
「とてもきれいに色づいていました」
赤児の掌のような葉は、真っ赤に色づいていた。
「まるで引き寄せられるように…次から次へと地面に落ちるんです」
落葉を見てまでもあの男を想うのかと考えて、三蔵は苦いものを噛み締めた。
「当たり前じゃねぇか」
「そうですね」
八戒は、あはは、と小さく笑った。それは見ようによっては辛そうに見える。
「季節が巡ると自然に葉が落ちるように、気がついたらあの人に惹かれていて。…でもあの人を引き寄せるのは、僕じゃない」
最後は消えるように呟いた。
そう。
思いを寄せる相手に、同じ思いを持って自分を見てもらうことはひどく難しい。
こんなにも困難なこととは、三蔵も知らなかった。
「最近悟浄の様子がおかしいんですよ」
その名を口にした途端、いつもは不自然なほど凪いでいる八戒の瞳に独特の熱っぽさが加わった。
「いつもと同じように見えるが?」
相変わらず昼間はジープの上で暇を持て余してはくだらない話をし、悟空をからかい、騒がしいことこの上ない。そうかと思うと、居眠りばかりしている。
妖怪どもに出会えば役に立つこともあるが、街に着くと知らぬ間に消えていて、気分の悪くなるような安っぽい香水の匂いを漂わせながら、明け方に宿に戻ってくる。
ヘラヘラと浮ついた態度は普段と変わることはないし、あんな男の様子に興味などない。
「四人でいる時はね―。でもよく見ていれば、わかるはずですよ」
関心のない三蔵を責めるように、八戒は視線に棘を含ませる。
「いつものように喋りませんし、笑いません」
三蔵は鬱陶しそうに小さく眉間に皺を寄せた。
こうして時折八戒から、不満という形を借りた悟浄への思慕を聞かされることがある。
その時間は不快ではあるのたが、実はそれだけではなかった。
むしろ普段は計算しているのではないかと思われるほどそつの無い八戒の感情表現が、本人が戸惑う程に揺れ動き、次々と溢れ出す様に強く惹かれていた。
それを目にできるのは、まるで三部屋取れた夜にだけ三蔵に許された特権のようだった。
「何があったかご存知ですか?」
怒りにも似た激しさを覗かせて、八戒は三蔵を見つめていた。
睨み付けたと言ってもいいかもしれない。
「さぁな。女にふられでもしたんだろうよ」
三蔵が悟浄に素っ気ないのはいつものことだし、例え二人の間に何かあったとしても、三蔵がそれを口にすることなどないということは八戒もわかっているだろう。
だがプライドの高いこの男がこんな態度に出るほどに追い込まれた心情なのかと思うと、三蔵は他に返す言葉が見つからなかった。
どうこう口出しできる問題じゃないのだ。
お互いに。
「きっとお前には、関係ないことなんだろう」
「…わかっていますよ」
三蔵の言葉に八戒は唇を噛んだ。
「僕には、あの人を幸せにすることはできない―」
三蔵が八戒を幸せにすることができないように。
そして悟浄も―。
「ねぇ、三蔵」
突然八戒は、ひどく透明な声で問い掛けた。
「自分以外の誰かを想いつづける人の、その想い毎愛したいと願うのは、偽善なんでしょうか?」
自分に向けられた瞳の中に、溢れ出る激情を押し殺そうとするような揺ぎを見つけて三蔵は胸をつかれた。
偽善だとか綺麗事だとか言うのは容易いことだ。
だが一言で片付けられない想いがあることを、三蔵は嫌というほど知っている。
そして相反し矛盾する想いを抱きながら過ごす中にも、喜びがあるということも。
「そう思うなら、止めればいいだろう」
八戒は一瞬困ったように力ない笑みを見せた。
「それをあなたが言うんですか?」
三蔵も自然と浮かんでくる苦い笑いを押さえられない。
所詮自分たちには、この奇妙な関係を壊すことなどできないのだ。
「それにしても、この話は最悪だな」
これ以上矛先がこちらに向くのは上手くない。
三蔵はベッドに置いてある本を指差した。
食い下がってくるかと思ったが、八戒は案外あっさりと引いて話題に乗ってきた。
「そうですね」
放り出されたままの文庫本を引き寄せると、八戒はぱらぱらとページを捲った。
「単純で捻りがない、古典的なパターンの繰り返しだ」
三蔵の言葉にうなずきながらも、八戒は小さく笑った。
「でも、そういう所にこそ価値がある場合もあるんですよ」
三蔵には理解しがたい感想だった。
先の読めるミステリーなど意味がないだろうに。
それから暫くの間、最近読んだ本の話などして過ごしていたが、そのうちに八戒の言葉は少なくなっていった。
「なんだか―、眠くなってきました…」
八戒は意識をはっきりさせるように二三度頭を振った。
「そこを使うといい」
三蔵は八戒が座っているベッドを指差した。
「でも…」
溜まっていた疲れが出たのだろう。
急に襲ってきた眠気に負けたのか、結局八戒は遠慮しながらも身を横たえた。
ぼんやりと天井を見上げていた瞳がゆっくりと閉ざされる。
そのまま眠ってしまうかに見えたが、八戒は小さく息を吐くと再び瞳を開けた。
「さんぞう」
少し呂律が回らなくなった口調で呼びかける。
三蔵はゆっくりとベッドに近づくと、横たわる八戒を見つめた。
三年前、固辞する八戒に強制的に義眼の手術を施した。
麻酔から目覚めた後、今と同じ様にベッドから自分を見上げた八戒の姿が重なった。
少し痩せて疲労してはいるが、八戒の目の光はあの時より随分と力強い。
少なくとも死を望む気持ちと生きることへの義務感に揺れて、半ばあの世とこの世を行ったり来たりしていた危うい心持のあの頃よりは。
そしてそんな八戒を強引なほどの鮮やかさでこちらに引き戻したのは、三蔵ではなかった。
「たまには悟浄に優しくしてあげて下さいね」
「断る」
三蔵の応えに、八戒はとけるような笑顔を見せた。
「お世話かけます」
呟くと、八戒は糸が切れたようにことりと眠りにおちた。