小さな楽園
1.
唐突に隣室から聞こえた物音に、三蔵は手にしていた本から目を上げた。
「暇つぶしにどうぞ」
部屋に入る間際に思い出したように八戒が寄こしたミステリーは面白くも何ともなく、暇つぶしどころか時間の無駄じゃないかと思わせる代物だった。
唐突に起こった殺人事件。気障な探偵の登場…さしずめ犯人は、殺された男の友人Aというところか。
先の読める陳腐な内容に欠伸が出てきた頃、それは起こった。
何かが倒れるような重い音に次いで、くぐもって聞こえる言い争うような声。
ガシャンと何かが割れる耳につく音。
三蔵は瞼を閉じて小さくため息をつくと、横たわっていたベッドからゆっくりと身を起こした。
すぐに乱暴にドアを閉める音と足早に遠ざかる足音が聞こえてくる。
それは八戒のものに違いない。
小さく舌打ちをすると、三蔵は手にした本をベッドに放り投げて立ち上がった。
「三部屋だそうですよ」
宿の受付で八戒が鍵を手に振り向いた時から、こうなることは半ば予想がついていた。
それは、そう頻繁にあることではない。
だが三部屋取れた場合、当然のことながら三蔵は一人部屋を選ぶ。
必然的に残る三人が二部屋に分かれることになるのだが、何故かいつも悟空が一人部屋に収まることになっていた。
体力勝負の二人とは違うのだし、一日中ハンドルを握っているのだから、八戒もたまには一人部屋でゆっくり過ごせばよいものを、と三蔵は思う。
だが八戒は、必ず悟浄と相部屋を選ぶ。
それが一番問題が起きない組み合わせですから、というのが八戒の弁だった。
たとえばこれが二部屋しか取れなかった場合でも、同様の理由で部屋割りがなされる。
ごくたまに、どういうはずみか八戒と相部屋になることもあるのだが、だからと言って自分たちの間に何が起こるわけでもないし、何が変わるわけでもない。
鍵を手渡しながら微笑む八戒の頬は白く、目元には薄く隈がかげを落としていた。
ここ数日は食が進まない様子だった。
そして三蔵の掌に鍵を載せたときに触れた指先の冷たさ、袖口から覗いた手首の細さ。
三蔵は八戒がひどく疲れていることに気づいていた。
この旅に出て以来、八戒は内心三蔵が感心するほどよく働いている。
毎日淡々とジープを走らせ、細々と一向の世話をやき、しつこく付きまとう妖怪どもを吹き飛ばし、怪我人がでれば自分の体力を削って治癒を施す。その合間には、毒をはくことも怠らない。
なんと勤勉なことか。
だがどんなに八戒が疲れ果てていようが、わざわざ部屋を代わってやる気もないし、同情や憐れみの思いなど感じはしない。
それは八戒が自ら望んでそう振舞っている結果なのだから。
まるで自分を極限まで追い詰めることが目的かのように。
だが無理な力をかけ続けた枝は撓みきれずに折れるように、ある時突然八戒は限界に達する。
なぜかそれは、決まって三部屋取れた日なのだった。
三蔵はゆっくりと窓辺に寄った。
二階にある部屋から見下ろすと、庭の片隅に一本だけぽつんと立つ木の下に八戒の姿が見えた。
宿から漏れる淡い灯の中に立ちつくす後姿は、昼間見るものより随分頼りなく見える。
三蔵は懐から煙草を取り出しながら、妙に感心する心持でそれを眺めた。
あの男は後姿の方が、しおらしく可愛げがある。
どこか儚い風情で、思わずこちらが腕を伸ばしてしまうような―
三蔵は思わず浮かんだ考えに眉を顰めた。
夜中に言い争い部屋を飛び出しては、一人暗闇に立ち尽くす…。
まるで痴話げんかだな、と三蔵は思う。
厄介ごとにかかわりあうのは真っ平ごめんだった。
実際八戒と悟浄がどういう関係なのかなど、三蔵にとってはどうでもいいことのはずだ。
親友だろうが馴れ合いだろうが、同情だろうが同病だろうが、悟浄が見境なく遊ぼうが、八戒が叶わぬ思いに身を細らせようが。
だがこの旅の目的を果たすのに差し障りがあるのは困る。
八戒のことが気になるのはそのせいだ、と三蔵は自分に言い聞かせた。
だがそれは、言い訳を必要とするほどに八戒に対する気持ちを持て余しているのだということに思い至って、三蔵は思わず舌打ちした。
あろうことか、この自分が、だ。
実際二人が出来上がったバカップルであったなら、きっぱりと諦めもついただろうし、胸に居座り続けるわけのわからない苦いものをこれほど持て余すこともないのだ。
矛盾する気持ちを打ち消すように、三蔵は着けたばかりの煙草を乱暴に灰皿に押し付けた。
「面倒くせぇな」
わざと大きなため息を一つ吐くと、三蔵は踵を返しドアに向かった。
夜の空気は思った以上に冷たく、三蔵は一歩屋外に踏み出して小さく震えた。
このあたりの季節は秋の終わりで、狭い庭には所々に小さな落ち葉の吹き溜まりができている。
八戒は庭の片隅に立つ、半ば葉を落とした楓の木の下に佇んでいた。
それは然程大きな木ではなかったが、緩やかで冷たい夜の風に晒されて次々と葉を落とし続ける様は、なかなか風情があった。
耳をすますと、かさかさと葉の触れ合う小さな乾いた音が聞こえてくる。
足元に落葉の小さな山ができる中、八戒は頭上からはらはらと舞い降りる、暗い紅の欠片を見つめていた。
「何、たそがれてんだ」
八戒はゆっくりと振り向いた。
もしや泣いているのかと思ったが、三蔵に向けられた瞳は冷たく乾いていた。
「すでに夜半ですけど。…何かご用ですか?」
抑揚のない応えと普段見せない硬い表情。
昼間は滅多に見せることのない無愛想は、言外に構うなということらしい。
「喉が渇いた」
「は?」
三蔵の言葉に、八戒は眉を顰めた。
「茶が飲みたい」
八戒は、壮絶に不機嫌な顔を見せた。
だがこういう表情をしても、こいつはキレイだ。
むしろこういう生の感情剥き出しの顔の方が、いつもの張り付いた笑顔よりいい。
かなりいい。
この状況を判っているのかとでもいうように、八戒はかぶりをふった。
「ご自分で淹れたらどうですか?」
向けられた視線の激しさにも三蔵は動じなかった。
一瞬考え込むように視線を巡らすと小さく頷く。
「そうだな…そうするか」
三蔵の言葉に、八戒は珍しいものでもみつけたように目を瞠った。
そんな八戒の顔を、三蔵は面白くなさそうに睨み返す。
自分が茶を煎れるのが、そんなに珍しいことだろうか?
まぁ、三部屋取れることと同様に、滅多にあることでないのは確かだが。
「坊主の煎れる茶は美味いもんだ」
思いがけない三蔵の言葉に毒気を抜かれたのか、八戒は幾分表情を和らげた。
「お前もつきあえ」
三蔵は八戒の返事も聞かずにさっさと宿に向かって歩き出した。
八戒はためらっている様子だったが、三蔵が促すように戸口で振り返ると、小さく肩を竦めて大人しく後についてきた。
(2008.12.04)
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