アンダンテ





1.




「お願いします!」
目の前で紅い髪がサラサラと流れ落ちている。
深々と頭を下げて握手を求めるように右手を差し出している同居人を前にして、八戒は記憶を辿るように小さく眉間に皺を寄せた。
このポーズは確か以前、テレビで見た、お見合い番組の…
「ごめんなさい」
思い当たった瞬間口から出た声は、自分でも驚くほど素っ気無かった。
だって他にどう答えればいいのだろう?
つい30秒前まで同居人と思っていた男が、オハヨウと挨拶するなり長い腕を伸ばして肩を抱き寄せ、「愛してる。俺とつきあって」ときたもんだ。
それから悟浄は、驚いて言葉もでない八戒に向かって深々と頭を下げたのだ。

「もしかして、酔っています?」
こんな朝早く、といってももう9時だが、悟浄が起きてくること自体が珍しい。
もしかして朝まで飲んでいて帰ってきたばかりなのだろうか?

酔っ払った悟浄に抱きしめられたりキスされたりは間々あることなので特に驚きはしないけれど、こんな言葉が悟浄の口から出るなんてどうかしている。

悟浄はきれいに90度に曲げていた上半身を起こし、妙に爽やかな顔で笑った。
「いんや、酔ってねえよ」
「驚かさないで下さい。冗談にしてはタチが悪いですよ」
「冗談でもねえ。マジだって」
「何であなたが、男の僕を好きになるんですか?」
俺が好きなのは美人のおねえさん、などと公言しているくせに。
「じゃあ何で、お前は三蔵のことが好きなの?」
「!」

部屋に沈黙が下りた。
八戒は、なぜこの人が知っているのだろうと考えて、カンの鋭い悟浄にとって自分の恋心を見通すことなんて大したことじゃないのだろうと思い至った。
無性に腹がたつ。
「三蔵だからですよ」
つい挑戦的な声になってしまう。
あんなきれいな人、好きにならないはずがないでしょう。
「俺だって、お前だから好きなんだよ。男とか女とか関係ねえし」
悟浄は真っ直ぐな瞳を向けてきた。
数秒間見つめ合った後、八戒は落着かない気持ちで目を逸らした。
常とは違う悟浄の雰囲気に、調子が狂ってしまう。
いつもは全てを面白がるような余裕な態度を見せながら、大切な事になるほどフッと逸れていく寂しい瞳をしていているくせに。
こんな悟浄を見るのは、初めてだった。

八戒は居心地の悪さを隠すように悟浄に背を向けて、用意してあったおかずを重箱に詰め始めた。
今日は悟空の家庭教師のため、寺に行くことになっている。
寺に行く日は大抵、悟空と三蔵のために手作りの弁当を持参することにしていた。
さりげなく三蔵の好物を取り合わせることは忘れない。
今日はマヨネーズで下味をつけた唐揚げとデザートには豆大福だ。
テーブルの上に広げた五段の重箱に、色どりよく詰めていく八戒の手つきを眺めながら、悟浄が小さく口笛を吹いた。
「美味そうじゃん。一つ頂戴」
その言葉と同時に伸びてきて指を、菜箸の先できつく捕まえた。
「痛って〜っ!」
「ダメです!あなたの分は他にありますからっ」
「一つぐらい、いいじゃん」
挟まれた指先を取り戻しながら、悟浄が不満そうに口を尖らせた。
ケチ、と呟いて指先に目をやる悟浄の姿に吹き出しながら、八戒は違和感の原因に気がついた。
「あ…煙草」
八戒は悟浄の顔をまじまじと見つめた。
「なに?」
「煙草、吸わないんですか?」
手にしていない時がない程、途切れなく吸っている人が、今朝はまだ一本も口にしていないことに気がついた。
煙草に火をつけるために伏せる瞳。流れる煙を追って宙をさ迷う視線。
それが今日は、全て自分に注がれている。
だからこんなに近くに感じるのだろうか。

「だって八戒さんに告白すんのに、煙草片手じゃ失礼だろ」
長い指が、きれいに仕上がった弁当を指し示した。
「それにあいつのために作ったもんに、匂いがつくと困るだろうし」
一瞬紅い瞳に苦いものが混ざったように見えて、八戒は目を瞠った。
もしかして、本気、なのか?
冗談ではないのだろうか?

「まあ、でも、食い物で釣れるのはサルだけだと思うぜ」
すぐにからかうような表情になった悟浄は、二ッと笑った。
「あ、俺の分もよろしくネ。一緒にあいつらの面、拝みに行くから」
「悟浄…」
ニコチン切れそうと呟きながら、悟浄は背を向けて部屋に戻って行く。
ふと立ち止まると、振り返って笑った。

「俺、あきらめねーからな。覚悟しろよ、八戒」













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