最愛








“お庭を散策される時に御召し下さい”
と、メッセージの添えられたフード付きのマントは
贅沢なファーが使われ、とても暖かく、寒がりの僕には有り難い。
「これもペアルックって言えるんでしょうか」
嫌がるだろうなと思いながらも口にしないと、何だか恥ずかしくていられない。
「気色悪ぃこというんじゃねえ」
返る言葉は案の定で、でも、それすらも少しくすぐったい。
鄙びた温泉宿は、しかし、大変格式のある一軒宿で、一般の客など受け付けない。
三蔵法師の肩書きがあればこそ逗留が可能だった。

昨日、僕の出張と三蔵の説法が重なったのは偶然だ。
出張先から三蔵が赴く寺院まで、実際の距離は思いのほか近かった。
日帰りをしようと思えば、ギリギリ出来ないこともない場所。
久しぶりに家に4人集まって食卓を囲んだ夜
日程は決まったものの、宿泊するかどうかを決めかねていた僕に
寺院と宿の名を書いた紙片だけが、あの二人の目を盗んで差し出された。
ただ、それだけだ。
何の打ち合わせをするでもなく、その紙片もすぐに引き裂いて
跡形も無く下水に流す。
“遅くに帰るとさみぃだろ?泊まってこいよ”
優しいあの人がそう言い出すのはわかっていたから。
“でも・・”と一応逡巡を見せながら
あの人の強い勧めで仕方無くという丁を装って
安くて簡素な宿に部屋を取った。あの人の目の前で電話をかけて。
“あの辺りは水がいいですから、美味しいお酒、お土産に買って来ますね”
ウソじゃない。そのお酒を一緒に飲むのも本当に楽しみだし。
“おお、それいいな!んじゃ鍋でも用意すっか〜”
ニッと笑う男前に僕も微笑んで相づちを返す。

後悔なんて無い。
そんなものは無いのだ。最初から。僕にも。三蔵にも。
裏切りだとも思わない。思ったことはない。
だって大切にするものの順番は決まっているのだから。
それが変わることも、揺らぐこともないのだから。
ただ、失くせないだけ。ただ、消せないだけ。
僕と、三蔵の間にある、この形すらない何かを。
名付けることも出来ない何かを。
僕も、三蔵も、捨てることすら許せないのだ。最初から。

塾の講師としての仕事を順調に片付けて、小さな宿に入る。
いくらスーツにネクタイでも、これでは到底最高僧のお付きには見えないだろう。
鏡に映った姿にため息をつきながら、小ぶりのボストンバッグを手にした。
もしかすると戻れないかも知れません、と鍵を預けても
先払いの客のその後など構わないのが木賃宿のいいところだ。
地図はすでに頭に入っている。
降ったり止んだりしていた雪もすっかり上がり、辺りが白く光っている。
立派だが派手ではない古びた門構えの、宿というより邸宅に近い玄関をくぐると
仄かに香が薫きしめられているのが感じられた。
僕を出迎えてくれた、控え目だがきっぱりとした初老の女性が
離れまでゆっくりと案内してくれた。
あちらこちらに、ひっそりと、花が、まるで佇むように生けられている。
たぶん客は一組か二組か、そんなものなのだろう。
“お連れ様がお見えです”と一声かけただけで、すっと下がってしまった。
豪商や権力者が人に言えない相手を連れ込むためだけに存在する宿。
その、あまりにも、詮索は致しません、という徹底した態度に
僕は笑いを堪えきれなかった。
すでに作務衣に着替えて寛いでいた三蔵は、そんな僕を怪訝そうに見上げ
「早かったじゃねえか」と、つられたように笑った。
卓の上には、もう徳利と杯が並んでいる。
まったく生臭なんですから、と皮肉を言いつつ着替えの小間に入る。
何を着ていても、美しい人は美しいからいやになる。
同じ作務衣姿ながら、僕はまるで庭先を箒で掃いている小僧さんみたいだ。
ぶつくさこぼす僕に、まあ一杯やれ、と杯を勧めながら
“てめえは掃除好きだから似合いじゃねえか”などと上機嫌だ。
「あの仲居さん、僕たちのこと、なんだと思っているんでしょうね?」
「三蔵法師と従者だろ。そういうふれこみだからな」
クスクスと笑いながらも、僕達の体勢は、すでに最高僧とお付きの従者のものじゃない。
“食事もお風呂もまだなんですから” “夜はこれから長いんですよ”
悪戯な指や唇に翻弄されて、喘ぎながらも言い募る僕に
抗議の色が薄いのはわかっているから、無遠慮な仕打ちはなかなか止まない。
仕方がない。仕方ないに決まっている。
だって抑える必要がないのだ。今は。
それでも、先ほど仲居に勧められた庭を見に行きたい、と言う願いには
明日の朝ならつき合ってやるよ、と返事をくれた。
煽るだけ煽っておいて、そろそろ食事時だろうと身を離した人を
思いっきり睨みつけるのとほぼ同時に微かな足音に気付き
慌てて身繕いを済ませて、卓の向かい側に移る。
宿にふさわしく最上級の食材を用いた料理は
どれも上品な味わいで、見た目も美しく、最前から飲んでいる酒にも良く合った。
食後に出された焙じ茶は、たぶん丁寧に焙じられたばかりなのだろう。
贅沢な香りを楽しみながら、最高僧の恩恵もたまにはいいですねえ、と呟くと
“悪くはねえが、この間あの家で食ったカレーの方が美味かったな”
などとシレッと告げるのだ。この三蔵という人は。

風呂上がり用にと、ご丁寧に冷たい水の入ったポットを置いて仲居が下がると
後に残るのは享楽の時間のみだ。
湯治場としての来歴も効能もあったもんじゃない。
揺れる湯が立てる音や、自分の喉からこぼれ落ちる嬌声。
いつもと違う手順や、肌の感触。自分の内にある形の違和感。
それすらも、だからこそ、快楽に変換されていく。
僕の中に居た知らない僕を呼び覚ましたのは、もちろんあの人だ。
持てる手練手管を総動員して、無理なく、ゆっくりと時間をかけて
自分好みの淫らがましい体に作り変えた。
その作業は悟浄という人の愛情を、根こそぎ注ぎ込んだ結果でもあり
この体は僕が手に入れた幸せの象徴だ。
今夜も僕の体には、昨夜の情事の痕跡が、そこかしこに散っている。
三蔵の手が、唇が、その上をそっとなぞることはあっても
新たな跡など残さない。そんな愚を犯したことは今まで一度も無い。
声は上げても、最中に互いの名を呼ぶ事も決して無い。
うっかりと、などということはあってはならないから。
年に数えるほどしか訪れない完璧な機会だけが僕達を繋ぐ。
周到な準備と大胆な実行。そのために駆使されるあらゆる手段。
その全てを暗黙のうちに。さざ波の一つも立てる事なく。
僕と三蔵に、こんなに似合う任務は他にない。
必要なウソさえ時として苦手なあの二人なら、罪悪感に打ちのめされるのだろうか?
三蔵の白い肌に、爪跡だの咬み瑕だの鬱血だのを盛大に残しながら
何度でも果てを迎える。僕の治癒能力に感謝しながら。
露天風呂のひんやりした外気は、火照った体をいい具合に冷ますのでキリがない。
それでも、朦朧とした僕が最後に見たのは
月の光だったのか、それとも月光を受けて輝く金色の髪だったのか。
僕達の秘密が始まった最初の時、一度だけ僕は言葉を口にしかけた。
でも、それは言葉になる直前に、三蔵の指で塞がれ、ついで唇で封印された。
だから、僕達に言葉はない。言葉にしてはいけないものなのだ。必要も無い。
ただ、このまま、あてどなく、続いていくのだろう。後悔もなく。
いつも気を失う最後の瞬間に、封印された言葉が、呪文のようにそっと
僕の耳に注ぎ込まれる。それが僕のささやかな願望が産み出した幻だとしても。

気がつくと、僕は布団のなかにいて、目の前に三蔵の顔がある。
障子越しの月明りは柔らかで、苛烈な瞳を閉じたその顔はまるで彫像のようだ。
抱き込むように回された手は、あの人より華奢だけれども暖かさに変わりはない。
たぶん、情事の為の間、なのであろう寝室で、一度もことをなしていないのは
何となくもったいないような気がしたけれど
こんなふうに、朝まで一緒に眠れることの方が奇跡的なのだと気付いて
もう少し寝顔を見ていたいと思いながらも
僕達の穏やかな眠りを楽しむためにゆっくりと目を閉じた。

鳥が鳴く頃には自然と目が覚めた。
三蔵もすでに起き出して、一服しているようだ。
着替える前に、三蔵の傷を片端から消していく。
よくもこれだけつけたもんだな、と呆れながら笑いあう。
天気は良いようなので、朝食の前に、庭の散策に出ることにした。
雪を踏みしめながら向かった庭は、そう広くはないものの
手入れも良く、落ち着いた佇まいだ。
温泉が流れ込んでいるのか、池は凍りもせず静かに揺らぎ
周りを取り囲む、常緑樹の緑と枯れ枝の茶。
雪の白に、ひときわ鮮やかな椿の紅。
それは本当に、心奪われる、美しい色だった。
僕がいつも真近にしている、あの紅も、それはそれで特別な色だけれども。
自然が産み出した花の色というのは、どうしてこうも強く、艶やかなのだろう。
しかもその美しい花は、見事に咲いた、そのままの姿で
ポトリ、と、地に落ちている。
一つ、二つ、三つ、四つ。
足下に咲く花を、じっと見つめて動かない僕の手を取った三蔵が
風邪引かねえうちに戻るぞ、といささか強引に歩き始めた。
絡み合う手と手は、どちらも同じように凍り付いて、冷たく溶け合っていた。

またしても上品で美味しい朝食をのんびりと堪能し
“ああ、上げ膳据え膳って幸せですねえ”と和んでいる僕を尻目に
まったくジジむせえヤツだな、と悪態をつきながら
すでに三蔵は出立の準備をしている。
きっと今日も、この人には沢山の責務が待っているに違いない。
昨日と同じ仲居に丁重に見送られ、僕達は宿を後にした。
駅の近くまでは一緒に行くのだが、僧侶の常で健脚な三蔵は足が速い。
名残惜しさなぞ、微塵も感じさせないから、僕も前に進めるのだ。
“じゃあな”
いつものように、そのひと言だけで、振り返る気配も見せず
三蔵は先を急いでいく。
“お気をつけて”
僕もまた、見送るふりもせず、脇道にそれる。
さて、お土産の地酒を探さなくちゃ。
ああ見えて三蔵だってちゃっかりと、悟空のための弁当を宿に包ませているのだ。
“土産がねえとうるせぇんだよ”そっぽを向いて照れ隠ししながら
“アイツだってそうだろうが”と憎まれ口も忘れない。
三蔵を出迎える金の瞳が輝く様を想像すると、胸がほんのり暖かくなった。
夏の日射しのような、大輪の向日葵のような、あの笑顔の持ち主は
永遠に近い命、という酷く重い宿命を背負っている。
僕達と、とりわけ三蔵と過ごす、この日々など
遠い未来に振り返ったら、泡沫にも等しいものに違いない。
だからと言って、いつか訪れる影に怯えるなんて馬鹿馬鹿しいから。
悟空の笑顔を一つでも多く見られるように、出来る努力をするだけだ。
見事に種は違うけど、僕達4人の悪足掻きは、まだまだ続く筈だから。
とりあえず今は、僕の傍らで一緒に足掻いてくれるあの人と
鍋をつついて笑うために、美味しいお酒を買っていく。ただそれだけだ。

しばらくの間、固い座席の列車に揺られながら報告書を作成し
塾に着くなり提出を済ませると、授業を一つこなしてから家路に着く。
悟浄はもう出かけただろうか?
お酒の味見は明日かな、と思いながらも、つい早足になる。
日暮れはあっという間に訪れたが、家からは灯がもれていた。
悟浄が、いる。
それだけで、僕の全身から無駄な力が抜けていく。
ドアを開けたとたん、暖かい空気に包まれた。
あの人には必要ないほどの温度設定は、帰宅する僕に合わせたに違いない。
“ただいま帰りました”と顔を上げた僕の頬を思わず緩ませたのは
食卓の上にデンと存在を主張する土鍋だった。
“おかえり”
エプロンで手を拭いながら台所から出て来た悟浄は
迷わず僕を抱きしめた。
しかし、ふ、と体を離すと少し眉を寄せ
「オマエ、なんか煙草くさいけど、禁煙車に乗ったんじゃねえの?」と尋ねて来た。
「ええ、いっぱいで座れなかったんで、仕方無く喫煙車両の方に。
やっぱりクリーニングに出さないとダメですね・・」
思案顔で答えるけれど、もちろん喫煙車を選んで乗ったに決まっている。
“ハイライトとマルボロには免疫があるんですけど、他はちょっと、ねえ・・”
顔をしかめていたら
“オマエがつけていい匂いはオレのハイライトだけ!坊主のマルボロもダメ!”
と決めつけて、呆れる僕を浴室に追いやろうとする。
「それより悟浄、仕事はどうしたんです?」
反撃を試みると、すっとぼけて“あ?今夜は休業。鍋が優先だろ”と
悪びれもせず笑っている。
旅が終わり、ここに戻ってから、悟浄は賭け事で生計を立てるのをやめ
知り合いの酒場でバーテンダーの職についた。
といっても、相変わらず自由気ままで、いつ首になるかとヒヤヒヤするのだが
“オレ目当ての夜の蝶が集まんなくなるから、首になんか出来ねえって”
自慢話はまんざらウソではなく、他人の傷に敏感で、距離の取り方が上手い人だから
ある意味天職ともいえるだろう。
“仕方ない人ですねえ・・” 
いささか大げさにため息をついて、お酒を手渡すと
荷物を部屋に放り込んで浴室に直行した。

熱いシャワーを浴びながら、自分の体を丹念に点検する。
もう、何もかもが、足下の排水溝に流れて消えていく。
うっすらと残るのは、悟浄の施したまじないの様な印だけ。
こんなに長く側にいて、こんなに互いを見つめているのに
あの人は、時々どこか不安げに眼差しを揺らす。
未だに懲りない“夜の蝶”との戯れさえ、たぶん無意識に僕を試しているのだ。
疑わせたりしない。そんな思いは貴方にさせない。決してさせない。
シャワーを止めるのと同時に、僕の胸の奥から
紅い椿が、ポトリ、と足下に落ちて、小さな渦に吸い込まれて消えていった。
どこか遠くの山の中で、雪に包まれて、この花たちは眠りにつく。
そして、僕はと言えば、鼻歌まじりに食卓で僕を待っている
唯一無二の紅い色に包まれて、安らかな眠りにつくのだろう。

たとえそこに光はなくとも
僕は静かにそっと、あらゆるものに絡み付いたまま
いつか朽ち果てる夢を見ている。





 end







“人から後ろ指さされるような淫靡な関係の3と8が隠れ宿へこっそり旅行して、
罪の意識に苛まれながらしっかり露天風呂でアレコレしちゃう話が読みたい”
という私のワガママな呟きを拾ってくださったWIRED様が、素晴らしいお話にしてくださいました。
強がっているようで胸の奥底では罪の意識に苛まれながら、それでも掴んでしまったものは何一つ手離すことはできなくて。
そんな欲深で哀しくて矛盾だらけの八戒が、どうしようもなく愛おしい。
WIRED様、ありがとうございます。
幸せです。

(2010.2.7)


←treasure