いつもの店
「おいしいですね、これ」
目の前でとろりと溶けるように笑った碧の瞳に目を奪われながら、俺はフォークに突き刺した菓子を口に入れた。
舌の上であっという間にふわふわと溶けていく甘く不思議な食感に、まるで目の前の男のようだとガラにもないことを考えて、慌てて舌をやくようなコーヒーに口をつける。
深い香りに少し落ち着きながら、やっぱりこいつといると調子が狂うと胸の内で溜め息をついた。
古書店街をうろついたついでに、ちょっと足をのばしてやってきた老舗のフルーツパーラー。
一階は高級果物が並ぶ店舗が入った古いビルの中の螺旋階段を上った先にある店は、買い物途中の女性客や散歩のついでに立ち寄ったらしい年配の夫婦連れで賑わっている。
今どきのカフェなどとは違い席と席の間が広くとってあり、淡い色のテーブルクロスやウエイトレスの白いエプロンなど、全てのものがいつも清潔で居心地がいいところが気に入っている。
意外に年配の男性客が多いのも、このどこか懐かしい雰囲気を好んでのことだろう。
幼い頃親父に連れられて、時折ここに立ち寄ったことを思い出す。
厚みのある丸い素朴な形のホットケーキに、たっぷりのバターとシロップ。
慣れないナイフを使ってフォークを口に入れると、まるで幸せそのものを食っているような気分になったもんだ。
好きな人と好きな菓子を食った時間は、今も特別な思い出として記憶に残っている。
高校生の頃は、週末になるとこいつと古書店をまわり、喉が渇くとここで静かな時間を過ごした。
手に入れた本を嬉しそうにめくりながら、いつになく饒舌に語る姿を眺めるのが、密かな楽しみだった。
あの頃もこいつは、このスフレが好きだった。
ゆっくりと口に入れ、その後照れたように微笑んで“美味しいです”と呟いた。
知り合ってどれほど経っても、八戒はどこか頑ななところがあった。
スキップの話が持ち上がるほどの学力や豊富な知識、落ち着いた振る舞いに加えて、時折見せる遠い目や皮肉混じりの言葉が、変に老成しているように感じさせた。
そんな奴が、悟浄みたいに軽薄な奴とつるんでいるのが理解できなかった。しかも恋愛関係とは。
後に花喃を交えた三角関係にまで縺れ込んだのは、意外に優柔不断だったのか、優しさかズルさか。
恋愛なんざ興味がねえ俺には、よくわからない。
あの頃、八戒が無邪気な笑顔を見せたのは悟浄と花喃に対してだけだった。
俺はそのことが、少し羨ましかった。
だから余計に、あの二人が知らなかったろう、この店で共に過ごす時間は特別だった。
今となっては俺だけの記憶になってしまったが。
何か思い出すかもしれないと淡い期待をしながら今日もこの店に連れてきたが、この様子じゃまたハズレらしい。
ため息をウエイトレスが注いでいった水で飲み込んだ。
未だに以前のこいつを諦めきれない俺に、多分悟浄は気づいているんだろう。
時々非難がましい視線を向けてくるが、構うものか。
いつかきっと、“あいつ”は戻ってくる。
あの事故で受けた衝撃がどれだけのものか知らないわけじゃない。
だがそんなものに負けるほど、柔な奴じゃねえはずだ。
このふわふわした男の中で眠っているあいつを、俺は待っている。
八戒はゆっくりと紅茶のカップを置いた。
「帰りに下のお店に寄りたいのですが」
「何か買い物があるのか?」
「林檎を。あの人が好きなんです」
屈託ない様子でにこりと笑う。
今の八戒は、以前の反動のように誰彼構わず愛想がいい。
商売柄必要なんだろうが、その無防備さは見ていてハラハラする程だ。
俺に平気で男と同衾する姿を晒すなんて、以前のこいつからは想像できない。
「下のはかなり高級品だぞ、あいつには勿体ねえ」
「ちょっと風邪気味みたいなので、特別です。林檎は医者いらず、なんて言うじゃないですか」
ふふと笑い首を傾げた仕草が、どことなく親父に似ている。
「俺も親父に買うか」
あの人には、いつまでも元気でいてほしい。
本当の親のように、俺を無条件に愛してくれる人だ。
「三蔵さんは、先生が大好きなんですね」
「…べつに」
照れ隠しの俺の言葉に、八戒は更に嬉しそうに目を細めた。
「うらやましいです。素敵なお父さんですからね 」
八戒は納得したように頷きながら立ち上がると俺を見た。
「ファザコンになるわけです」
「誰がファザコンだ!」
笑いながら伝票を手にしてレジに向かう八戒を追いながら、次は親父を連れてこようと胸の内で呟いた。
end
(2017.1.25)