そばにいて
「おい」
宿の廊下の暗がりから、唸るような声が聞こえた。
漂うハイライトの匂いで声の主は見当がついたけれど、僕は気づかないふりをして通り過ぎようとした。
「え?」
いきなり手首を掴まれて、仕方なく振り返る。
安宿だけあって廊下の電灯は極端に絞られていた。
薄闇が肌寒さを助長する中、手首に感じる掌だけがひどく熱く感じられる。
闇の中から現れた人は、不機嫌な表情を浮かべていた。
掴んだままの僕の腕に目を落とすと、小さく舌打ちする。
「これ、なーに?あいつに何されてんの?」
「悟浄」
「どんなプレイしようとお前らの勝手だけどさあ」
手首に落としていた険しい視線のまま、僕の瞳を覗きこむ。
そこに怒りの色を見つけて、思わず目を逸らしてしまった。
色事に長けていて情が深く相手の嫌がる行為はしないであろうこの人は、僕の体に日々増えていく傷を、見て見ぬ振りができないのだろう。
だって仕方ないだろう。
悟浄は優しすぎるから、きっと僕の望みには応えてくれない。
無理を通せば付き合ってくれるかもしれないけれど、それはきっとこの人を傷つけてしまう。
僕を自虐の泥に突き落とし罰を与えることなんて、この人にできないだろうし、させたくない。
でもあの人は。
あのきれいで厳しいあの人は、僕に触れても全然汚れないのだ。
それはもう、絶望的な程に。
形のいい眉をひそめ舌打ちをしながら、僕の愚かな望みに付き合ってくれる。
こんな自分を最低だと思う。あの人の傍に寄る資格もないと知っている。
だがあの人の前では意地も矜持も捨てて、ただの愚かな罪人としての自分を受け入れられるのだ。
それは笑ってしまうほどに、あの人と僕が違うから。
神に選ばれ、誰からも尊ばれるべき存在。
そんな人が醜い体も心も曝け出す僕に生きることを許してくれるのだから、僕は地を這ってでも生きなければならない。
そう思えるから。
それが、どんなに辛く残酷な許しでもーーー
悟浄の思いは痛いほど伝わってきた。
でも。
「僕が望んだことなんです」
貴方じゃダメなんですと口に出す前に、悟浄は傷ついた目をして腕を放した。
「まあ、いいけど。お前がそうしたいなら」
「心配してくれてありがとうございます」
紅い瞳はふっと笑うと、背を向けてひらひらと手をふりながら薄闇に消えていった。
わけもなく零れるため息を飲み込みながらドアを開けると、部屋には紫煙がたちこめていた。
ベッドに腰掛けくつろいだ姿で新聞を読む人が、ゆっくりと視線を上げる。
この匂いにひどく馴染んでしまったと考えて、胸の内に苦い思いが湧き上がった。
「三蔵」
そのくせ、思っていた以上に湿度のある声が出て嫌になる。
この人に対する感情は、愛とか恋とかそんなきれいなものじゃない。むしろ正反対のもの。
稀有な存在に対する羨望や嫉妬。
僕に生きることを選ばせたことに対する、恨みに近い感情もないとは言えない。
それなのに僕は、媚びるようにこの人に抱かれる。
僕にはない、全てを持つ人。
まるで正反対の人だから。
罰をくれるのに相応しいのは、この人しかいない。
物欲しそうな顔をしていただろうか。
三蔵は小さく舌打ちをすると、乱暴に新聞をたたんだ。
それが合図のように、僕は三蔵の傍に寄った。
悟浄が掴んだ所を同じように強く握られて、苦い思いが湧き上がると同時に身体の芯が熱を覚える。
そのまま強く腕を引かれて、僕はきれいな人の胸に倒れこんだ。
何度も肌を重ねているが、僕らの間に睦み合うような空気が流れたことは一度もない。もちろん口づけも。
互いにただの欲望のはけ口なのだから当然だ。
行為の最中、三蔵は僕を拘束することを好んだ。
大抵、身に着けているベルトや法衣の腰ひもが使われる。
体の傷なんか構わなかった。
むしろ快楽よりも罰が欲しい僕に相応しい姿だと思う。
固いベッドの上で三蔵に敷き込まれながら、ふと、今まで聞けなかった言葉が口をついた。
「どうして…こんな僕に付き合ってくれるのですか?」
「お前が、俺に似ているからだ」
まるで銃弾のように、その言葉は僕の胸を撃ち抜いた。
何を言っているんだ?
天と地程の差があるこの状況で、どうしてそんな言葉が出てくる?
僕と三蔵の、一体どこが…
驚きと疑問に満ちた僕の顔を見て、三蔵はひどく優しい瞳で続けた。
「そろそろ頃合か?」
「え?」
「いい加減、自虐にも飽きたんじゃねえか」
「何を言って…」
「まだ、足りねえのか」
仕方ねえ奴だなと呟きながら、三蔵はそっと僕の頬を撫でた。
「そのうち、お前にもわかる」
なぜか三蔵は僕を縛らなかった。
僕は溺れる者のように、温かな背に腕を伸ばした。
ああ、この人が僕を戒めていたのは、こうやって縋ってしまうのがわかっていたからなんだ。
僕にとってそれは、許しを請う行為と同じだということも。
僕は決して許されてはいけないのに。
三蔵は何も言わず、僕が望む形の罰を与えてくれた。
前を向くことから逃げる僕を見捨てず、静かに、僕が後悔と自虐の沼から這い出る時を待っている。
それはこの人が、同じ痛みを知っているからだと初めて気がついた。
僕はこの人のために、仲間のために、前を向いて歩き出さなければならない。
その時まで、もう少し傍にいてくれるだろうか。
回した腕に力を込めると、三蔵は初めて口づけをくれた。
end
(2018.3.8〜2018.4.4 拍手ss)