桂花
目を覚ますと、金の花に埋もれていた。
一瞬、周囲から立ち上るむせかえるような甘い香りに、息をのむ。
森の中で昼食を済ませ出発までの短い休息の間に、偶然見つけた金木犀の藪に入りこんでちょっと横になったのだった。
あんまり懐かしい匂いだったから。
ああ、こんなところで眠ってしまった。またあの人に笑われてしまう。
そんな風に考えて、思わず小さく笑った。
旅に出る前、何度か巡ってきたこの季節に、寺の裏にひっそりと植えられた金木犀の木の下で時折うたた寝をした。
僕なんかが度々訪ねるのはあの人の外聞が悪いだろうと考えて、常に濃い緑の葉を茂らせているその木の下で落ち合いたいと、僕が言い出したのだった。
そこから裏門を抜けて街へ出るのが、あの頃の僕らの逢引コースだった。
一年に数日だけ強い香りを放ち魅了する花の下であの人を待っていると、僕はなぜかいつも眠くなった。
たんに夏の暑さから解放されて、気が緩んで疲れが出たからなのかもしれない。
三蔵法師としての職務のためにたいていあの人は遅れてきたから、僕は人気がないのをいいことに、木に背を預けて目を閉じるとあっという間に眠ってしまった。
三蔵は行儀悪く眠り込んでいる僕を見つけると、いつも、仕方がねえ奴だな、なんて笑いながら、そっと手を伸ばして僕の髪にふれた。
僕が目をあけると、照れくさそうに横を向きながら、髪に絡みつく小さな花を払ってくれた。
“さんぞう”
名を呼べば、紫の瞳に切なくなるようは優しい色を浮かべて、口づけをくれた。
あれから旅に出ることになって、僕は赤い髪の友人と、三蔵たちに同行することになった。
この旅に出てから、僕らは一度も口づけをしていない。それどころか手を繋ぐことも、見つめ合うこともなくなった。
全くただの旅仲間として、日々を過ごしている。
三蔵の負った使命の重さや旅の過酷さを考えれば当然のことだと思う。
悟浄に言わせれば“信じられねえ愚行”らしい。生殺しか、焦らしプレイかと揶揄されながら旅は続き、この花が咲く季節になった。
恐らく死が身近で明日の命の保証もない切羽詰まる状況で、三蔵は僕という余計な荷を負いたくないのだろう。
僕だってあの人のために命を使うと決めてはいるけれど、ふとした瞬間にもっと共にいたいという欲に振り回されて、迷いが生じるかもしれない。
互いが互いの足を引っ張らないように、恋情は捨てるのが賢い選択だ。
ならばなぜ、三蔵は僕を旅に連れてきたのだろう。
三仏神の命だから、仕方なく?
だとしたら僕はあの人の邪魔にならないように自分の役割を忠実に果たし、余計な感情は封じ込めなければならない。
だがそんな理屈で割り切れるわけもなく、僕は今でもあの人に恋をしている。
上手く隠しているつもりだけれど、悟浄にはお見通しらしい。
別に構わない。あの人にさえ知られなければ。
あの人の迷惑に、歩みを止めさせる者にさえならなければ。
突然、すぐ近くで、乾いた足音が聞こえた。
出発の時間はとうに過ぎているから、多分悟空あたりが探しにきたのだろう。
難しい顔をして助手席で新聞を読んでいた三蔵は、なかなか戻らない運転手にイライラしているはずだ。
立ち上がって声を上げようとした瞬間、目の前の可憐な花々が揺れて、三蔵が現れた。
驚いて座ったまま動けない僕の髪や肩に、三蔵が左右に払った枝から黄金色の小花がパラパラと降り注ぐ。
まるで時間が逆戻りしたように、僕らは金木犀の香りの中で見つめ合った。
すみません、もう出発ですね。
そう笑って立ち上がり、この場から離れなければと思うのに、わずかも動けない。
こんなにまともに、この人の目を見たのは久しぶりなことに気がついた。
「お前の匂いがした」
三蔵はそう言って、小さな花々に目をやってから、ゆっくりと僕に視線を戻した。
ああそうだ。あれはこの季節のことだった。
逢瀬の度にあなたの煙草の匂いが移るから、悟浄に揶揄われるのだと告げると、三蔵は、お前と過ごすと金木犀の匂いが染みついて消えねえと笑っていた。
あちこちに花を載せたままうたた寝するからだと、愛しそうに。
今、三蔵は途方にくれたような顔をしていた。
ああ、この人もこの香りに、僅かでも心が揺れているのだろうか。
そんな顔をされると、少し期待してしまう。
もしかして。
あなたも、今でも…なんて。
この旅に出た時から、多くは望まないと心に決めている。
でもできることなら来年も、二人でこの花を見たいと強く思った。
愛の言葉も口づけもいらないから。
ただ仲間として、同じ時間を生きていけるなら。
僕はこの思いを決して伝えることはないだろう。
悟空が探しにくるまで、僕らは言葉もなく黄金の花を眺めていた。
end
できていた二人。
これからできる二人。
(2017.10.26)