待っている





安宿の小さな部屋には余裕のない息づかいが響いている。
どちらのものともつかない濡れた音に意識を向ければ、とたんに快楽に飲み込まれそうだ。
思わず眉をひそめた俺を高い位置から見下ろす瞳は、熱に浮かされ潤んでいる。
目があうと、ふ、と微笑んだ。
余裕ともとれるが、ただの照れ隠しだろう。
肌で感じる様子から、かなり追いつめられているとわかる。
“いやらしいな”
思わずもれた言葉に、繋がった場所があからさまに反応を示した。
怒ったように目元をきつくしながらも、ああ、と余裕のない声で胸に手をつく。
力が入らないのかそのまま倒れこんできた体を抱きしめて、熱い吐息を塞ぐように口づけた。

本能に従って直接的な悦びを貪るこんな時間でさえ、胸の中から消えない冷たい思いがある。
あと、どのくらい。
どれほどの時間が、許されているのだろう。

この温もりを愛おしいと思うたびに、自分の中に焦りが生じる。
焦りは迷いを生み、いざという時、過ちを犯す。

始めから、のめり込まぬと決めていた。
いつまでも死んだ女のことを胸に住まわせていようが、明日には紅い髪の男のものになろうが、構わないと思っていた。

だが、最近気づくと考えているのだ。
八戒の全てが欲しいと。
気まぐれに求めあうだけでなく、その胸の内まで明け渡してほしいと。

この柔らかな男の中に潜んでいる熱情は、どれほどのものだろう。
多くの者を殺め、浴びた血で妖怪に変化するほどの情念を向けられたら、この心残りはなくなるのだろうか。

馬鹿な願いだ。
それを知るということは、八戒が八戒でなくなるということだ。
その時はこの手でケリをつけると決めている。
それがこんな場所まで連れてきた自分の責務だし、こいつの願いだということもわかっている。

その日がこないことを願いながら、一方で俺は待っている。
相反する思いを笑いながら、温かな鼓動を刻む場所に口づけた。




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深い水の底から浮かび上がるように、意識が戻る。
この人と抱き合った時はいつもこうだなと思いながら目を開けると、 目の前にきれいな金が広がっていた。
まるで少年のような無防備な寝顔と、逃がさないというように回されたままの腕の重さに、暖かな思いが込み上げる。
なんて幸せなことだろう。
たとえ一時でもこの人に求められ、応えられる。
本来なら僕は、この貴い人の近くに寄ることさえ憚られる身なのに。

そっと胸に手を当てると、そこに馴染んだ痛みを感じてほっとする。
それは心臓のあたりにつけられた赤い印。
噛み痕といったほうがふさわしいほど、深く刻まれたキスマーク。
ある時から三蔵は、同じ場所に痕を残すようになった。
まるでこの奥に潜む情念を封印するように。それが解かれる日を恐れるように。
そして多分。
万が一の時に、狙いを外すことのないように。

これはお守りだ。
この印があれば、僕はどこまでも強くなれる。
この人と、この人の大切な人たちを守るためなら何でもしよう。
たとえどんな姿になっても。
もし戻ってこれなくなったら、迷わず引き金をひいてほしい。
こんな気の乱れた歪な場所で自我を保つことの難しさは理解しているから。

そのとき、三蔵の長い睫毛の間から、一粒の涙が零れた。
次いで夢の中で呟かれた“八戒”という言葉。

ああ、そうだ。
この人に、そんなことをさせるわけにはいかない。
僕の甘えた思いがどれほどこの人の重荷になっているか、わかっているのに。

それでも、僅かでも傷つけたくないと思いながら、この人の中で自分が棘のようにいつまでも痛めばいいと願ってしまう。
もしかしたら、姉もこんな思いだったのだろうか。

後悔に苛まれ、暗いよろこびを抱きながら、僕はその時を待っている。




end



どこまでもすれ違っている3と8が、やっぱり好きです。


(2016.6.16)




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