いつか、あなたを
「閉じ込められましたね」
分厚く冷たい扉を前に、僕は立ち尽くした。
冷えた空気がさらに下がったような気がして、思わず肩をすくめる。
暗がりの中で、僕の言葉に応えるように小さな舌打ちが聞こえた。
「僕が無理を言ったから…すみません」
「お前のせいじゃない」
寺の敷地の奥に建つ蔵の中に、以前から興味を持っていた書物があることを三蔵との話で知って、見てみたいと頼んだのは数刻前のことだ。
蝋燭を頼りに二人で本を探し当て、読みふけっているうちに蔵の扉が外から閉ざされてしまった。
通りがかった坊主が、中に誰もいないと早合点して扉を閉めたのだろう。
僕たちがいる場所は幾重に置かれた書棚の奥で、小さな灯りはちょっと覗き込んだくらいでは目に入らなかったようだ。
蝋燭はついさっき尽きてしまった。
三蔵の掌にはライターがあるけれど、それは煙草専用だと断られた。
最もこの場所は禁煙らしく、三蔵は度々外に出ては吸っていた。煙草のにおいが書物に移ることを案じているらしい。
それほど貴重な書物がここには集められているそうだ。
どうしよう。
大声を出しても、この堅牢な造りでは外まで届かないだろう。
三蔵はここに来ることを誰にも告げていないようだった。いつかはこの人の不在に気がついて探しにくるだろうけれど、敷地の端にあるこの場所までたどり着くにはまだ随分時間がかかるだろう。
暗闇に目が慣れると、数歩の距離にぼんやりと白い姿を捉えることができた。表情まではわからない。
特段苛立っている気配はないけれど、いつまでもこんな場所にこの人を置いておくわけにはいかない。
天井の高い場所から僅かに光がさしていた。空気孔があるようだ。
ゆっくりと四方の闇に目を向けてから、もう一度頭上を見上げた。
この高さでは、よじ登ることはできそうにない。
いざとなったら、カフスを外そうか。
気づくと耳元に手をやっていた。
固く冷たい三つの制御装置。このおかげで、僕はこの人と同じなりで生きていけるのだ。
出来る限り外したくはないけれど、仕方がない。
この人のためなら、どんな姿にでもなろう。
「悟空を呼べばいい」
何の危機感も感じられないいつも通りの面倒そうな声で、三蔵が呟いた。
「どういうことですか?」
呼ぶといっても、この辺りに彼がいるとは限らない。
「なんだか知らねえが、たまにアイツの声が聞こえるし、呼べばやってくる」
「本当ですか?それは…すごいですね」
なんてことだ。
二人の間に、そんな繋がりがあったなんて。
ここが暗闇でよかった。僕は今、ひどく惨めな顔をしているだろう。
何か喋らなければと思うのに、気のきいた言葉が見つからない。胸の中に穴が空いたみたいに力が入らなかった。
僕は自分の欲深さを改めて思い知った。こんな身になっても願っているのだ。
この人の声を聞くことが出来たならと。窮地に置かれた時に、名前を呼んでほしいと。
神に選ばれた特別な二人のようになど、なれるはずがないのに。
三蔵が舌打ちしながら煙草を探る音がした。流石に限界なのだろう。
「煙草はダメですよ」
情けないほどに声が震えた。
僕の言葉などお構い無しで、三蔵はライターをつけた。
闇に慣れた目には小さな灯りも眩しくて、思わず目をつぶる。
照らされたのは一瞬のことですぐに暗闇に戻ったけれど、鮮やかな光りの残像は目の奥で火花のように煌めいていた。
この光はまるでこの人そのものだ。眩しすぎて、僕には直視できない。
目を閉じたままじっとしていると、辺りに煙草の匂いが満ち始めた。
突然、温かい指が頬に触れた。
「そんな顔するな」
驚いて目を開け、すぐ目の前で淡く光る金の髪に息をのむ。
こんな闇の中で、何がわかるんだろう?
僕の疑問に答えるように三蔵は続けた。
「夜目はきくほうだ」
頬を撫でた指が髪に移り、頭ごと抱き寄せられた。
「八戒」
耳元で囁かれて呼吸が止まる。
動けない僕の唇に、淡い熱が触れた。躊躇うように離れた後、すぐに激しく口づけされる。
驚きに固まる僕の背を強く抱き締めながら、三蔵はさらに深く口内を奪った。
何が起こっているのか理解できない僕は、茫然と受け入れていた。
やがてゆっくりと三蔵が身を離し、乱れた息が闇の中に響く中、僕らはただ立ち尽くした。
今の口づけは何だったのだろう。
欲深い僕がみた都合のいい夢だろうか。けれど体はひどく熱を帯び、心臓は壊れる程に激しく鼓動を刻んでいる。
「これは、罰…ですか?」
「…お前がそう思うなら、そうなんだろう」
三蔵は苦笑混じりの声で返すと髪を撫でた。
こんな都合のいい罰はないだろう。
こんなにやさしく触れられたら。まるで想いがあるように口づけられたら。
いや。
こんなに気高くきれいな人が、僕を相手にするはずがない。
この場限りの戯れと思わなければ、欲深い僕はまた過ちを犯す。
この人を自分だけのものにするために、どんなことでもするだろう。
やはり、これは罰だ。
生き続ける限り手に届かない人を思い続ける。こんな僕にふさわしい罰だ。
だから僕はこの罰を安心して受け続けられる。
僕の想いを知っているように、三蔵はその言葉をくれた。
「俺の声が聞きてえなら、お前は俺の傍にいろ」
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「それはどう考えても、告られてるでしょ」
僕の昔話を聞いた悟浄は、しかめっ面で煙を吐き出した。
ジープを休憩させるために予定外の河辺に寄ったのは数分前のことだ。
嬉しそうに水浴びを始めた悟空は、岸で煙草を吸っていた三蔵に水を浴びせかけて盛大にハリセンを食らっていた。
初夏の風は爽やかに通りすぎながら、日差しに輝く金の髪を揺らしている。
三蔵の言葉の通り、僕は西への旅についてきた。
ついでに悟浄も付き合ってくれている。
「見て下さい、あの二人の息の合った動き」
三蔵の見事なハリセンさばきと、それをきれいに受ける悟空の技術にはいつも感心してしまう。
「やっぱりあの二人の絆は違いますね」
「ありゃ、ただの慣れだろ。俺だって相当なもんだ」
嬉しくねえけど、とぼやきながら悟浄は呆れたように肩を竦めると、ふと真剣な瞳を見せた。
「愛はダメで、罰ならいいの?」
「愛は誰でも与えることができるけれど、罰はあの人にしか下せませんから」
「三蔵さま、かわいそ」
めずらしく本気の声で呟いた。
口づけをしたのは、あの闇の中、一度きりだった。
あの時もあの後も、三蔵に求められたら、僕はきっと迷いなく全てを差し出しただろう。
時折何かの想いを乗せた声で、三蔵が僕の名前を口にすることがある。
そんな時は、あの蔵での出来事を思い出して胸が苦しくなる。
あの時間があるからこそ、僕はこうして生きている。
互いが離れた場所で三蔵の声が聞こえたことは、一度もない。
いや。
今まで何度も経験した危機の際に呼ばれたことがあったのかもしれないけれど、凡庸な僕にはわからなかった。
戦闘中に身を呈して庇ったり、怪我を治したりしたことは幾度もある。
けれどそれは、全て僕が望んでしたことだ。
ただ一人血を分けた姉が助けを求める声も、死を願う魂の声も、僕は聞き取ることができなかった。
こんな僕に聞こえるはずがないのだ。そんな資格、あるわけがない。
それでもいつも待っている。
いつか、三蔵の声が聞こえる時を。
そうしたら僕は、飛ぶように駆けてゆこう。
立ちふさがる者を壊しても。どれだけこの手を汚しても。
いつか、あなたを助けにゆく。
end
58の8より38の8の方が愚かな人のような気がするのですが、そんなところが好きです。
(2015.6.16)