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「たっだいま〜」
夜が更けて宿全体が寝静まった頃、音もなくドアが開いて待ち人が現れた。
鮮やかな紅い髪をかきあげながら悟浄が僕を見て笑う。
「おかえりなさい。酒場はどうでした?」
何度目にしてもこの笑顔に胸がときめくなんて、口が裂けても言えないなーなどと考えながら、僕は読みかけの本をベッドに置いた。
「んー?大したことなかったわ。小さな街だから仕方ねえな」
悟浄は上着を脱ぐと、自分のベッドの上に放り投げた。
甘い香りが、ふわりと狭い部屋に漂っていく。
ベッドに座った僕の傍に寄ってきた悟浄は、甘えるように肩に体重を預けてきた。
髪がさらさらと胸のあたりに流れてきて、強い香りが立ちのぼる。
よく見ると、赤い絹糸のような髪の所々にオレンジ色の小花が散っていた。

「本当に酒場に行ってたんですか?」
上目遣いで疑うようなセリフを口にすれば、悟浄は嬉しそうにニッと笑った。
「おねーさんと茂みでいいことしてたとか」
「もしかして、妬いてくれてる?」
「ま・さ・か」
サービスですよ、サービス。
いい気にさせておくのも癪だから、目の前の髪を指に絡ませ引き寄せた。
「いででっ、ひっぱんな!」
そのまま頭を抱き寄せて、腕の中に抱え込む。
冷たく滑らかな髪に頬を寄せて、深く息を吸い込んだ。
めまいがするような甘い香りに、懐しさと愛しさと僅かな哀しみが湧き上る。
「さっき宿の前で煙草吸った時、枝が絡まって…その時落ちたのかもな」
悟浄の声を聴きながら、僕は目を閉じた。



それは数年前のある秋の日のことだった。
遅い昼食を終えてしばらくした頃、同居人の姿が見えないことに気がついた。
今夜はデートだと浮かれ気味に呟いていたことを思い出し、少し早めに出かけたのだろうと見当をつけた。
なんとなく気が抜けた心地で窓の外を眺めていると、微かな金木犀の香りに気がついた。
胸が痛むようなその香りは数日前から漂い始め、開け放した窓から入り込みふとした瞬間に僕を過去に連れていく。
僕は誘われるように、ふらふらと家を出た。
華やかさはないけれどしっとりと季節を告げる草花が茂る林の小道を、ゆっくりと進んだ。
甘い香りはどんどん強くなった。
僕と花喃が暮らしていた小さな家の庭の片隅にも、金木犀があった。
一面に散った可憐な小花を箒で集める彼女の後姿。振り向いた時に見せた優しい笑顔。
抱き寄せたときに感じた甘い香り、指先に触れた柔らかな頬の感触。
痛みを伴う記憶は途切れることなく湧き上り、僕の胸を絞めつける。
きっとこの先この花が咲き匂う度に、僕は失ったものの重さに胸を抉られるのだろう。
こんな思いを、あと何年繰り返すんだろう―

見事に咲いた金木犀に辿り着いて、僕は足を止めた。
僕らの庭にあったものとは比べ物にならない程大きく、驚くほどたくさんの花をつけている。
これだけ咲いていれば、離れていても匂いが届くはずだ。
小さなため息をついて地に目をやった僕は、絨毯のように敷き詰められたオレンジ色の小花の上に寝転びまどろむ悟浄を見つけた。
穏やかな秋の日差しの下のその寝顔があんまりあどけなく無防備で、僕は傍らにしゃがみこんでしばらく見惚れてしまった。
柔らかな風に赤い髪が揺れて、小さな花が降り注ぐ。
はらはらと頬に降った花に、悟浄が一つくしゃみをした。
思わず笑ってしまったら、強く腕を引かれて抱き寄せられた。
間近に微笑む赤い瞳に、胸が大きく音をたてる。
「八戒、いい匂い…」
「いい匂いなのは、あなたですよ」
触れただけのキスは一瞬だったけれど、僕はあの時恋に落ち、僕の中で金木犀が全く違う意味を持った。

  
                    

                                    *



「で、どうしてこうなった?」
「どうしてって…あなたが誘ったんでしょ?」
可愛く小首を傾げながらベッドに押し倒した俺の脚の上にまたがる八戒を見上げつつ、俺も首を傾げた。
「誰が誘ったって?」
「だってほら」
俺の髪から小さな花を摘み上げてきれいに笑う。

八戒の中でもこの花が、あの日と繋がってる。
それはなんて幸せなことなんだろう。

金木犀の香りに物思いに沈む横顔もきれいで悪くなかったけど、俺のコトでいっぱいにしてやるくらいの意気込みだったのよ、あの日。
記憶の中のねえちゃんに勝とうなんて思っちゃいない。
でもいつでも負けないくらい、その胸の中に食い込みたいと願っている。
八戒の中には、あとどのくらい、哀しい記憶があるんだろう。
それを全部俺で上書きできたらと思うのは、傲慢な願いなんだろうか。

「まず一緒にシャワーしねえ?」
ウインクしながらお誘いすれば、八戒は愛しくてたまらないみたいな顔で笑ってキスをくれた。

この花が咲く度に笑ってくれるように、今、この時も愛しあおう。





end




(2013.10.26〜2014.5.15 拍手ss)




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