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その日、ふらりと悟空が戻ってきた。
日に焼けた顔で、“ただいま”と笑う姿は出て行ったときと変わらない。
八戒はおかえりなさいと返しながら、広い背中を抱き締めた。
少し照れくさそうな笑顔に少年だった頃の面影を見つけて、懐しさが込み上げる。
とうに自分の背丈を越えて立派に成長した友人を、八戒は胸が熱くなる思いで迎え入れた。
天竺を目指した旅から戻り成長した青年は、ある時もっと広い世界を見て人の役に立ちたいのだと言って旅に出た。
知恵も力も兼ね備えた彼は、行く先々で人を助け、助けられながら生きている。
ここに姿を見せるのは何年ぶりだろう。
「今回はどこへ行っていたんですか?」
「昔植えた花を見てきたんだ。」
「花、ですか?」
首を傾げる八戒に、悟空は嬉しそうに笑った。
「ほら、八戒が旅の途中で種を蒔いてただろ?」
「もしかして、あの道を西へ向かったんですか?」
懐かしいあの旅。4人で過ごした危険と隣り合わせの、ルールもへったくれもない、何度思い返しても胸の熱くなる時間。
そうだ。西へたどりついて牛魔王と決着をつけた後は、行きと同様に当然帰路もジープでと思っていたのに、4人ともがひどく傷ついていたために、紅孩児の申し出を受け入れて飛竜で一気に長安まで帰ってきてしまったのだった。
「わざわざ、あんな遠くまで。」
「きれいな花が咲いてたりすごく深い叢になってたり、たくさんの実がなってる樹もあったよ。そういえば南瓜もあったかな。」
風雨に傷ついて倒れたこともあったろう。幾度も咲いて、枯れて、また芽を出して。
静かに命の営みを繰り返す植物の強さを思って八戒は胸が熱くなった。あぁそうか、あれから随分と時が流れたんだな。
*
“いらっしゃい”とかけられていた言葉が、“お帰りなさい”に変わったのはいつからだったろう。
今回もずいぶん久しぶりだったのに、八戒は以前と変わらない笑顔で迎えてくれた。
少し痩せていたけれど、本当に変わらない。
まるでこの家だけ、時が止まっているみたいだ。
悟空はここへくる途中に立ち寄った店で聞いた話を思い出した。
気の良さそうな主人は、見慣れぬ旅の者に忠告するつもりだったのだろう。
「町はずれの森には近寄らない方がいい。あの森の奥には幽霊が住んでいる。そいつはえらくきれいな若い男で、何も悪さはしないけれどたまに目撃される姿は、もう何十年も同じ姿をしているそうだ。」
八戒の時が止まってしまったのは、いつからなんだろう。
あの旅から戻って数年後、八戒は裏の林にある桜の木の下に三蔵を埋めた。
この辺り一帯に猛威を奮った悪病が、三蔵の命を奪ってしまったのだ。
世にも稀な存在である玄奘三蔵様の亡骸を、こんな所に埋葬するなんてとんでもない。寺で盛大に弔い鄭重に埋葬するのだと言う坊主たちの申し出を押し切ることができたのは、三蔵直筆の遺言状があったからだ。
自分の亡骸は八戒に預けよと。
八戒は悟浄と悟空と共に三蔵を桜の木の根元に埋めて、その願いを叶えてやった。
だけどそれでは、三蔵の願いの半分しか叶えていなかったのだと悟空が聞かされたのは、それから数年後のことだった。
その年、突然悟浄が死んだ。
町中で刃物を振り回す薬物中毒の男から、見ず知らずの子供を庇って刺されたのだ。
八戒がかけつけた時には、もう息絶えていた。悟浄らしい、本当にあっけない逝き方だった。
悟浄がいなくなったら八戒は正気でいられないのではと悟空は密かに案じていたが、八戒は不思議なほど穏やかな表情で悟浄を三蔵と同じ場所に埋めた。
それでも悟空は一緒に埋葬しながら、八戒がすぐにでも後を追うつもりなんじゃないかと気が気じゃなかった。半ば無理矢理この家に押しかけて、数か月を共に暮らした。
しばらく寂しい表情をしてぼんやりしていた八戒だったが徐々に笑顔が戻り、一年がたつ頃には以前と変わらない様子になった。
その頃から、悟空はもっと広い世界を見たいという衝動にかられるようになった。
打ち明けると八戒は笑顔で送り出してくれた。
数か月旅にでては戻ってくるという生活を繰り返していたが、徐々に間隔が空いて長い旅をするようになった。
数年ぶりに訪れることも珍しくなかったが、いつ訪れても八戒は変わらない笑顔で迎えてくれた。
居間は寒々しいくらいにきれいに片付いていた。
悟空に気付いたジープがソファの上から真っ直ぐに飛んできて、嬉しそうにぐるぐると旋回する。
悟空がいない間もジープは変わらずに八戒の側にいた。
きっとジープがいたから、八戒は―。
“ありがとな。”
昔のように嘴を寄せて戯れてくるジープに、悟空はそっと囁いた。
一息つくと、二人は悟空が持参したビールと二つの銘柄の煙草を手に林へ向かった。
満開の老木は重そうに花をつけ、ひらひらと花びらを落としている。
八戒は木の根元に酒と煙草を置くと、枝を見上げた。
「今年は特にきれいです。間に合ってよかったですね、悟空。」
「ああ。」
まるで桜も喜んでいるように、風に乗って一際花びらを散らした。
この地へ戻ってくるたびにこの樹まで足を運んだが、花が咲く季節に訪れたことはなかった。
巡り合わせのせいだと自分に言い訳をしていたけれど、本当はこの季節に戻ってくることが怖かったのかもしれない。
遠い空の下にいても春がくる度に、この樹の下で四人で花見をした日々を思い出した。
特別に豪華で美味い弁当を味わう自分たちに向けられる、嬉しそうな八戒の笑顔。
ガキのような喧嘩を仕掛けてくる悟浄のやんちゃな笑顔。
いつもは見せない和らいだ表情で旨そうに煙草を吸う三蔵の、金の髪が風に揺れてキラキラ光って本当にきれいで―。
この花を前にしたら、懐かしさと切なさで胸が潰れてしまうんじゃないかと、本気で怯えていた時期もあった。
この長い時間、八戒はどんな思いで春を迎えこの花を見上げていたんだろう。
「ごめん、八戒」
「どうしたんですか?」
「俺…」
八戒は言葉にならない想いを察したように、優しく微笑んだ。
「あなたとこの花を見ることができて嬉しいですよ。」
「…うん。」
八戒は悪戯を白状する子供のような表情で声を潜めた。
「そういえばあなたが旅に出た後、僕もあの人たちと同じ場所へ行こうと思って何度もこの樹の下に寝転んで過ごしたんです。」
春は白い花びらを、夏は青葉が落とす濃い影を、秋は赤く色づく葉を、冬は天から落ちてくる白い雪を見上げながら、何日も動かなかったこともあったという。
ある冬の日、雪にどんどん埋もれて冷えていく身体の上をジープがオロオロと困ったように旋回するので、仕方なく諦めたのだという。
顔を強張らせる悟空ににっこりと笑うと、八戒は肩にとまったジープの背をそっと撫でながら呟いた。
「遠い昔のことです。もう、だいじょうぶ。」
揺れる花を見上げて優しく目を細めると、八戒は幹に腕を回しその声を聞くように耳を寄せた。
まるで言葉を交わしているように時々漏らす呟きは、小さくてよく聞こえなかったけれど。
“待っていてくださいね…もうすぐ、逢いにいきますから。”
睦言のような囁きは、悟空の耳に届いていた。
夜が更けると、悟空はおやすみと言って以前寝泊りしていた部屋に入った。
昔悟浄が使っていた部屋は、今もあの頃と変わらない。
染みついた煙草の匂いが懐かしさを連れてきて、鼻の奥がツンと痛んだ。
部屋の隅の小机の上には、ハイライトと灰皿と悟浄が愛用していたライターが並んでいる。
ちっとも埃がかぶっていないのは、きっと八戒が折に触れて吸っているからなんだろう。
悟空は窓を開けると、残り僅かな中から一本抜いて火をつけた。
ゆっくりと吸いながら窓の外を眺めると、闇の中に白く光るものが漂っている。
夜の風にのって、まるで誘う様に桜の花びらが舞っていた。
悟空は目をつぶって昼間見た桜の花を思い浮かべた。
どれだけ時が流れても、この胸の中にはあいつらが生きている。
八戒の胸の中には尚更だろう。
桜の樹を抱きしめ語りかける横顔は、愛しさに満ちていた。
「やっぱあいつらには敵わねえな。でも俺だって負けねえから。」
灰皿に強く煙草を押し付けると、悟空は部屋を出て隣のドアをノックした。
夜着姿の八戒は静かに迎え入れてくれた。
「どうしました?」
「八戒が眠れないんじゃないかと思って。」
「どうしてわかったんですか?」
「愛してるから。」
「悟浄みたいなこと言って。」
八戒はふふと笑ってから、何かに気づいたように首を傾げた。
「あ、タバコなんて吸うんですか?」
告白は流したくせに、煙草の残り香には驚いたように目を瞠る。
「俺を幾つだと思ってんの?」
悟空が拗ねた振りでふくれてみせると、八戒は優しく悟空の頬の傷を撫でて微笑んだ。
「僕みたいな者を相手にすることないんですよ。」
「八戒がいいんだよ。八戒が好きなんだ。」
ずっと伝えたかった言葉を告げると、八戒はそっと悟空の首に腕を回した。
「ありがとうございます。」
悟空の思いに応えるように暖かな口付けをくれた。それは家族にするような穏やかなものだったけれど、悟空は恋人にするように熱く唇を奪った。
ベッドに押し倒して覗き込むと、伸ばしっぱなしだった髪がさらさらと八戒の顔に降り注いだ。
きれいな指が少しためらいがちに伸びてきて、髪をすく。
何かを懐かしむような表情に、誰を見ているのか、尋ねなくてもわかった。
俺たちは今、みんなで一緒にいるのかな。
八戒もそう感じてくれていたら嬉しいと、素直に思った。
昔は胸の中に居座り続けていた苦い思いも悔しさも、何も感じなかった。
ただ愛しさと切なさでいっぱいの胸で、八戒を抱きしめられるのが嬉しかった。
少し筋肉の落ちた、でもきれいな身体をそっと撫でると、八戒は恥ずかしそうに顔を両手で覆ってしまった。
「随分上手なんですね。」
「だから、俺を幾つだと…」
甘い吐息と一緒に名前を呼ばれて、愛しさがこみ上げる。
やがて導かれるようにゆっくり深く沈むと、悟空は腕の中で震える身体を強く抱きしめた。
*
三蔵の激しさと悟浄の優しさ、それに彼自身の労わりに満ちたやり方で、悟空は八戒に触れた。
熱に浮かされながら、八戒は考えた。
こんな感覚も感情も、長い間忘れていた。
時の流れを数えることをやめて、誰かと交わることもやめて、ただ二人が眠る場所を見守るだけで時は過ぎた。
日々変わっていく空の模様、陽の長さ、空気の色。
そのうつろいの中で、あの二人とジープだけが、自分の世界の全てだった。
時折悟空が訪れて、新しい空気をこの家に運び込んでくれた。
だが彼が旅立てば、また同じ毎日が戻ってくる。いつしか外出することもなくなり、食べることも忘れていた。
最後に食べ物を口にしたのはいつだったろう。どうして今も自分が生きながらえているのか不思議だった。
空っぽの冷蔵庫を見て、悟空はなんと思ったろう。
でもこうやって求めてくれたのだから、もう何もかもわかっているのかもしれない。
きっと悟空も寂しい思いをしてきたはずだ。
成人してからの彼の外見はほとんど変わっていない。
僅かずつ年を重ねているようだけれど、人間の目から見れば異常と思われても仕方がない緩慢なスピードだ。
人の間で生きるのならば、旅を続けるしかないのだろう。
恐らくこの先も気の遠くなるほどの長い時を過ごしていかなければならないこの青年のことが、愛しくもあり悲しかった。
それでも太陽のように温もりと希望を与えてくれた少年の時のように、彼は今も強く輝きながら前を向いて歩いている。
きっとあなたなら大丈夫。
八戒は腕の中の温もりを優しく抱きしめた。
身体の奥に生まれた熱と痛みに、気付くと声を上げていた。身体中を廻る強い刺激に涙が溢れる。
極みをめざし上り詰めようとする中、かたく凍り付いていた胸の奥で何かが爆ぜた。
ああ、あれは…。
天から白い雪が花びらのように降っている。
いつか四人で見た真っ白な雪が次々に降り注ぎ、頼りない身体が雪に埋もれていく。
手も足も指先まで凍りつき顔も雪に埋もれて息ができない。
そう思った瞬間、 突然目の前に明るい光が広がった。
眩しい光に包まれて、重かった身体がふわりと舞い上がる。
降り続く雪は、いつしか桜の花びらに変わっていた。
風が強くなって、降り注ぎ或いは舞い上がる花吹雪に目が開けられない。
自分を呼ぶ声に目をこらせば、すぐ目の前に、幾度も夢に見たあの二人が…
八戒は夢中で手を伸ばした。
*
目を覚ましたら、八戒は息をしていなかった。
とても穏やかに微笑んで、口元はあどけない表情のまま呼吸を止めていた。
触ってみたらまだほの温かくて、悟空は少し涙を流した。
痩せた身体を抱きしめると、そのまま何時間もじっとしていた。
やがてジープがやってきて愛おしむように八戒の頬に頭を摺り寄せるのを見て、また泣いた。
いつまでたっても腹は減らなかった。よく考えたらこの家に入ってから、まったく空腹を感じなかった。
やがて自分と八戒の身づくろいをすると、悟空は裏の林へ入って大きな穴を掘った。
記憶通りの場所のはずなのに、三蔵も悟浄も全く姿がなかった。
とうに土に還ってしまったのだろう。
少し前のような気がするけれど、本当は気の遠くなるほど長い時が流れていた。
八戒はこんなに長い間、一人で耐えていたんだ。
いや、待っていたのかもしれない。この季節に自分が戻ってくる時を。
悟空は唇を噛み締めた。
戻ってこなければよかった。あのきれいな笑顔がこの世のどこかにあると思うだけで、遠い土地での辛いことにも耐えられた。
でも、これが八戒の願いなのだ。
自分に全てを預けあいつらの所へいく時を、八戒はずっと待っていたのだから。
悟空は念入りに室内を片づけて、ドアも窓も外から板木を打ち付けた。
そこかしこに、三人の気配を感じていた。
「いつかまた帰ってくるからな。それまで仲良くしろよ。」
三人が眠る木を抱き締めながら、悟空は語りかけた。
100年、200年、いや、500年くらいたったら、また会えるだろうか。
そしたらまた、四人で旅でもしよう。
きっと楽しいに違いない。
慣れたように、ふわりとジープが肩に止まった。
ああ、俺、八戒みたいだ。
「よろしくな、ジープ。」
「 キュー」
悟空は小さく笑うと、頭を撫でてやった。
「じゃあ、行ってくるよ。」
応えるように、一際花びらが降り注ぐ。
風に揺れる白い花々に大きく手を振ると、悟空は歩き出した。
end
最後までおつきあい下さり、ありがとうございました。
(2014.5.3)