呼ぶ声

             





「声が聞こえるんだそうですよ」
「あン?」
唐突に話を切り出すのは癖なの?と尋ねられたのはつい最近だ。
悟浄は銜えた煙草に火をつけようとして首を傾けた姿勢のまま、こちらを見上げている。
またこいつは何をいいだすのか?という顔だった。
見事に食べ散らかされたテーブルの上の皿を片づけながら、またやってしまった…と僕は少し反省して、それから小さく笑った。


なんとなく気まぐれで始まったような同居生活は、数ヶ月目に入っていた。
生活を始めた当初のぎこちなさは幾分薄れてはいたが、それと入れ替わるように悟浄から感じられるようになった小さな苛立ちに、僕は他人と暮らすことの難しさを感じていた。
きっとこの生活は、悟浄にばかり負担をかけている。
そろそろ潮時だ、と自分に言い聞かせて、出ていくきっかけを探していた時だった。
突然現れた悟浄の友人だという男とのひと騒動が、僕等の関係を大きく変えてしまった。
二人の間にあった遠慮という名の目に見えない壁が取り去られたというか。
相手に対する距離間をつかんだというか。
今でも何もかも分かり合ったとはいえないけれど、それでも以前より距離が近くなったと感じているのは、僕だけではないと思う。
個人的には半殺しの目に合わせても足りないくらいなのだが、あんな男でも役にたったということだろう。
だが手ひどい仕打ちを受けたというのに、当の本人はどこ吹く風だった。
まるで何もなかったかのようなその素振りがいかにも悟浄らしくて、僕は出ていくきっかけを失ったままここまできてしまっている。

とりあえず以前よりは、会話も増えて意思疎通もよくなった。
互いの違いを認めあい、尊重する。
まるで「きゅうりとなす」だ。
ほら、よく色紙なんかに描いてあるでしょう。
『ボクはボク、キミはキミ。されど仲良し』
悟浄の仕事のない日には、二人で食事をしたりカードをしたり。連れ立って町へ買い物に出かけることもある。
互いに遠慮して相手の出方をうかがうような所があった以前に比べて、色々なことが円滑に進むようになってきている。
それは、ちょっと困ってしまう程に。

だが以前とは違う意味で、僕の心はひどく揺れていた。
一見軽薄で誰とでもうち解けるように見えるこの男が抱える、心の闇に気付いてしまったから。
その闇の底の無さにも。
いつでもまっすぐ相手の懐に飛び込める悟空でも。基本的には無関心のくせに、必要とあらば遠慮なく、抉り取る程に鋭く心の内にまで入り込める三蔵でも。
彼の心の奥底には届かない気がする。





悟浄が座るソファの後ろの窓越しに、うす暗い闇が迫っている。
その夕闇の中を三蔵と悟空が帰っていったのは、つい先程のことだった。
時折予告もなく立ち寄る三蔵の目的は重犯罪人である僕の監視なのだと分かっているけれど、その形式張った目的を忘れさせるほどに、いつでも賑やかに四人で過ごす時間は過ぎていった。
悟浄はいつでも大袈裟なほど賑やかに悟空と戯れる。
僕に気まずい思いをさせないようにというその優しさに触れる度に、僕は笑みを浮かべながらも胸のどこかが小さく痛むのを感じでいた。

空腹を満たした満足感と酔いの所為か、肩を並べて歩く二人の後ろ姿は、いつもより穏やかな気配を漂わせていた。さすがに寄り添って歩くという程ではなかったが。
普段はある一定のテリトリーを頑なに守る三蔵が、今日はより近くに悟空が居ることを許しているように見えた。
まぁ僕が知らないだけで、あれが二人きりの時のいつもの距離なのかもしれない。


「三蔵と悟空は、互いの声が聞こえるんだそうです」
「何だそりゃ?」
悟浄は二三度瞬きすると、胡散臭いと言わんばかりに片眉を上げた。
僕は以前悟空から聞いたことを話して聞かせた。
出会う前から悟空の声が三蔵に届いていたこと。三蔵の身に危険が迫ると、悟空はその気配を感じとるということを。
「ふーん」
興味なさそうに悟浄は煙草の煙を吐きだした。
それはこの話題が僕にとってあまり好ましいものではないと彼が思っている所為なのだろう。
さりげなく話しているつもりなのに、この人は妙に敏感だ。
僕はそれを口にすることに今更意味などないことを嫌になるほどわかっていたけれど、その言葉を止めることはできなかった。
「深い所で魂が繋がっているということなんですかね」
そんな関係は希だということも、神に選ばれた者故に許された特別なものなのだということも、わかっている。
どんなに深く愛しあっていても、その人の身に迫る危険を察することも、救うこともできないのが現実だ。
たとえそこに、血の繋がりがあったとしても…何もできなかった。







「あいつら、なーんかいい雰囲気だったじゃねぇの」
ふと、悟浄の腕が僕の腰にまわされた。膝の上に引き寄せられ、後ろから緩やかに抱きしめられる。
まるで僕の記憶が回遊魚のように彷徨い出すのを引き止めるように。
こうやって時折悟浄は僕を捕獲する。
彼に捕獲されるのは、悪くない心地だ。僕はゆっくと力を抜いて、嗅ぎ慣れた煙草の香りに包まれ目を閉じた。

あの事件以来一番変わったのが、コレだ。
まるで恋人同士がするようなこんな仕草も、最近では互いに慣れてしまった。
肌の感触や熱があんまり馴染みすぎて、僕は都合良く間違えてしまいそうだ。

「割って入るのはやっぱり無理でしょうかねぇ?」
緩やかに身体を這い始めていた悟浄の掌の動きが一瞬止まった。
振り返って目に入った悟浄の口もとが引きつっていて、僕は吹き出した。
「冗談です。そんな趣味の悪いことしませんよ」
ただ…
「羨ましい?」
「…いえ」
「名前、呼んでほしいの?」
ゆっくりとソファに押し倒される。紅い瞳が僕を見据えて、ニヤリと笑った。
「いくらでも呼んでやるぜ」
「そういう事じゃないんですけど…」
僕の不平は、不意打ちで落とされた口づけに遮られた。


悟浄の捕獲の腕は確かだ。
繊細で優しくて強引で残酷。
それはきまって僕が振り向いた過去に、ある時は不用意に、またある時はすすんで足を取られそうになっている時に行われる。
過去へ誘う闇は至る所に口を空けていて、僕の思考は度々そこに引き寄せられた。
実はそれが僕にとって辛く苦しいものだけではないことに、悟浄は気づいていたのだろう。
さまよい続けていつまでも戻らない僕を見兼ねて、悟浄は強行手段にでた。
それはとても有効で、僕はあっけなく闇の誘惑から距離をおいた。
だからこれは、この関係は、違うのだ。
決して間違えてはいけない。






目の前にさらさらと落ちてくる紅い糸を眺めながら、僕は考える。
あの日。
友達だという男のために、嗤って自らの命を差し出そうとした、バカな男を取り戻しに行ったあの日。
僕の顔を見た瞬間に見せた悟浄の笑顔を、僕はこれから先ずっと忘れない。
安堵したというより、死に損なったとでも言いたげな切ない笑顔を。
あんなに簡単に命を投げ出すなんて、あんなに諦めた風に笑うなんて、思ってもいなかった。
そして鈍感な僕は、やっと気がついたのだ。
今更ながらこの男が僕を拾ってくれたのは、本当に素晴らしい偶然だったのだということに。
今この瞬間この男が生きて僕の目の前にいてくれるということが、どんなに得難いことなのかということに。
あの時はっきり自覚してしまった。
僕はこの男が好きなのだと。


何気なさを装いながら僕を救ってくれる指先が、ゆっくりと這いまわり身体中に熱を灯す。
決して乱暴に触れられているわけではないのに、こうしているとあちらこちらが痛いのはなぜだろう。
腕も肩も背中も腰も、そして胸の中も。
もうこれ以上触れられたらそこから血をふき出してしまいそうなほどに、悟浄に触れられたトコロが、悟浄の優しさが、痛くて痛くてたまらない。

「ずるいですよ、悟浄」
だってこの男は持っていない。持つつもりもない。
最期のその時にさえ、きっと悟浄には呼ぶ名前などないのだ。
誰も呼ばない、呼べないその凍り付いた心を思うと、僕の胸は軋んだ音をたてる。
「そう?」
多分悟浄はわかっているのだろう。
全てわかっているくせに、いつも気付かない振りで笑うのだ。
器用に片頬をつり上げて少し悪そうに笑うその顔から、僕は目が離せなくなってしまう。
「そんなに見つめられっと、穴があきそう」
揶揄の混ざった口調とは裏腹に、ひどく優しく瞼に口づけて、悟浄は僕の視線を遮った。
まるで僕の想いを受け取るつもりなどないとでもいうように。

慣れた仕草で後ろを探られ、思わず漏れた嬌声に唇を噛んだ。
もどかしい程ゆっくりと入ってくる熱に待ち切れないように絡み付く身体。
羞恥と、快感と、消すことのできない胸の痛みにどうにかなってしまいそうだ。
喉元にこみあげる熱い塊を堪えるため、僕はさらに強く唇を噛み締める。  

その瞬間、強く温かい腕が僕の背を引き寄せた。
白くなった唇に、宥めるように口づけられる。
一瞬解けた唇から滑り込んだ舌が、僕の思考を奪うように動き回る。
普段の彼からは想像できないような繊細な仕草で髪をかき回されて、一気に僕の理性が溶けていく。
消すことのできないはずの、僕の中の冷たい闇までもが、溶けていく。
この瞬間だけは。

僕はいつも救われてばかりで、僕が悟浄のためにできることなど何もないのかもしれない。
それでも僕は、この男から離れない。離れられない。
この痛みを止められるのも、悟浄だけだとわかっているから。
本当にずるいのは、僕だ。




突き上げられ揺さぶられながら、僕は目の前の紅い髪を引き寄せた。
指先に絡めて口づけすれば、悟浄は柔らかく目を細めて僕の耳元に唇を寄せ、約束のものをくれた。
「八戒…八戒っ…はっかい」
「悟浄、もっと…っ」
もっと僕の名前を呼んで。

三蔵と悟空の特別な関係を羨むわけでもなく。
助けを求める彼女の声を受け取ることのできなかった自分を、今更責めるわけでもなく。
ただ、この男が今ここに存在することを確かめる術は、僕を呼ぶ、この声だけなのだと。
まるでそれだけが縁であるように感じられて、僕は悟浄の肩に腕をまわし力いっぱいその背を抱きしめた。

「ずるいですよ」
友達だと言うつまらない男のためにあっけなく自分の命さえ投げ出すこの男に。
過去に囚われた同居人が生きていけるように、何のためらいもなくその熱を与えてくれるこの男に。
どうしたら呼んでもらえるのだろう。
優しすぎるこの男に。

声が聞こえる。
そんな関係を手に入れるなんて、この身には過ぎた願いだと分かっている。
再び誰かと心通わせることなど、ありえないとも。
それでも願わずにいられないのだ。

悟浄の存在が、僕の生死を決めたように。
その紅い髪と瞳が、暴力的な程の激しさで僕をこの世に繋ぎとめたように。

ほくはこの男を繋ぎ止めるモノになりたい。






end



八戒は悟浄に片思いなのではないかと思います。
たとえ両思いだとしても、傍から見たらすっかり出来上がったバカップルだとしても、やることやっていても、八戒はいつでも悟浄に片思い。
八戒には悟浄に、とことん執着してもらいたい、というのが葉村の希望です。
悟浄への執着=生きることへの執着。

(2008.09.19)



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