沈丁花





窓を開けると、どこからか甘い花の匂いがした。
暗闇に小さく猫の鳴き声が響いている。

「こんばんは。」
当然のように窓の外で笑う男の顔を見て、三蔵はため息をついた。
「来ちゃいました。」
「またか。」
「お邪魔ですか。」
「別に。」
ひらりと窓枠を乗り越えると、八戒は僅かに隙間を残して窓を閉じた。
猫の声は細く続いている。
それがこの男が閨で聞かせるものを思わせて、思わず苦笑いが浮かんだ。
繁殖期があるだけ、獣の方がマシかもしれない。
八戒は勝手知ったる様子で、酒を収めた棚に寄っていった。
坊主は酒を飲まぬものというわりに、ここには高価な酒も貢がれる。この部屋にも和洋問わず幾つか酒ビンが並んでいる。
いつ目をつけたのか、八戒は時折夜更けにやってきては酒を飲んでいく。酒だけで済まないことも間間あるが。
八戒はバーボンを取り出すと、なめらかな手つきで二つのグラスに注いだ。
波々と注がれたグラスに三蔵が手を伸ばす間に、八戒は一息で半分程飲んで小さく息をついている。
それから三蔵が煙草を吸いながら一杯を舐める間に、二杯目を飲み干してしまった。
「アル中になるぞ。」
「大丈夫ですよ、これくらい。」
溶けるように笑う瞳の奥に自棄や諦めを隠していないかと見つめてみるが、ただ身体を巡るアルコールを楽しんでいるだけのように見える。
「飲みすぎだ。」
「あなたは吸いすぎです。あの人も相当ですけど、あなたもいい勝負ですよ。」
会話の合間にもまるで水のようにグラスを飲み干す。
注ぐのが面倒になったのか直接ビンに口をつけようするので、並んでソファに座る脚を軽く蹴飛ばしやめさせた。
「悟浄は何も言わねえのか。」
「ええ、特には。どうせあの人も酒の匂いをさせて戻ってくるんですから、少しぐらい残っていても気が付きませんよ。」
少しじゃねえだろうと思うが、確かにこの男は化け物みたいに酒に強い。
だが、あの異様に観察眼の鋭い男が気が付かないはずはないだろう。何も言わないということは、つまり関わる気がないということだ。
当てが外れた。八戒が自分からあいつの所に住まうと言い出した時は、もしやと思ったのだが。
あいつもそこまで馬鹿じゃなかったということだ。


初めて夜中に八戒が現れた時、三蔵は追い返そうとした。
目的はすぐにわかった。なにしろこの男は直截に口にしたのだ。
「眠れないんです。sexしませんか。」
八戒は耳を疑う言葉を事もなげに口にして、にこりと笑った。
「あいつに頼めばいいだろう。」
「知らないんですか、あの人、男はダメなんですよ。」
試したのか、そもそもそんな気がないのか。
八戒は窓から顔を覗かせて、無邪気に続けた。
「ねえ、しませんか?僕じゃダメですか?」
似つかわしくないセリフを吐くきれいな笑顔に思わず舌打ちすると、八戒は情けない顔で肩を落としてみせた。
「仕方ありません、他をあたります。」
僕を眠らせてくれる人を探しますと呟いて背を向けた。
「待て。」
仕方なかった。あの時呼びかけなければ、こいつは物騒な通りをうろついて、そこらの男に身を任せかねなかった。
結局俺がつなぎ止めるしかないのだ。身元引受人を願い出たのは、自分自身なのだから。


やがて八戒はソファからズルズルと滑り落ち、三蔵の足下に座り込んだ。
最近はその場所が気に入っているようで、酔ってくると三蔵の膝に触れた肩が重くなり、徐々にもたれかかってくる。
髪に指を差し入れてやると、甘えるように膝に頬をすり寄せた。
まるで猫だなと考えて、さっきまで聞こえていた鳴き声が止んでいることに気が付いた。
ふと、繋がりながら艶かしい背中を捻って肩越しに口づけをねだる姿を思い出して、じわりと劣情が湧き上る。
潤んで焦点の合わない瞳で名を呼ばれる時に覚える、愛しさと後ろめたさが入り交じった感情まで思い出して、三蔵は乱暴にグラスをあおった。
眠れないからと口にしていたのは最初の数回で、今ではただ酒を飲みにやってきているとしか思えない。
気まぐれに体をつなぐあの時間にも大した意味などないのだろう。
それでもこの男に求められているのだと思えば、戸惑いも怒りも酒と一緒に腹の深いところへ落ちていき、いつの間にか消えている。
ただ八戒がこんな夜中にやってくる理由が他にあればいいと願っている自分に、時折無性に腹が立つ。
自分の中に潜むこの想いに名をつけるとしたらと考えて、いい加減自分も酔いが回ったと三蔵は苦く笑った。


初めて八戒を抱き寄せた時、腰のあたりに硬いものが当たって思わず動きを止めた。
訝しむ三蔵に、八戒は上着のポケットから懐中時計を取り出し笑ってみせた。
それはただ一つ残されたという姉の形見だった。
この寺に拘留されていた時にも持っていたものだ。悟能という名の犯罪者の所持品は、この時計しかなかった。
肌身離さず、ということか。
こんなものを身に着けて男に身を任せようとする奴の気持ちがわからなかった。
ただ無神経なのか自虐趣味なのか。それとも嫌がらせか。
掌から奪い取ってベッドの下に落としても、八戒は何も言わなかった。
ただ時計が床の上を転がっていくさまに、じっと目をやっていた。
それから何度かその時計を目にしたが、そんなもの置いてこいとは言えなかった。
その度に三蔵は、どうでもいいことだと自分に言い聞かせた。
たかがモノだ。自分だって亡くした者が愛用していたモノを後生大事に持っているじゃねえか。

だがなぜか今夜は、いつものような分別ある顔ができなかった。
あの女の影も悟浄の思惑も、何もかもが厭わしい。
「いつまでも、動かねえ時計を持ってても仕方ねえだろう。」
思わず口にすると、八戒は頭を上げてゆっくりと振り向いた。
傷ついた顔を見せると思ったが、その表情は変わらない。
じっと三蔵を見返してからテーブルの上のボトルに手を伸ばすと直接口をつけて飲んだ。
零れたウイスキーが、首筋を伝い落ちる。
「明日、買ってやる。」
俺は何を言っているんだ。
「新しい時計を買ってやる。」
まるで囲っている愛人にでもいうセリフじゃねえか。
「じゃあ、お願いします。」
八戒はまるで役割を察したとでもいうように妖艶な笑みを浮かべて、手の甲で唇を拭った。
猫がよじ登るようにゆっくりと三蔵の膝、腹、胸と身を寄せてくる様を眺めていると、いきなりバーボンの味と一緒に柔らかな舌が入ってきた。口内を確かめるように動き回る舌を捕らえると、すぐに口づけは深くなる。
そんなつもりじゃねえ、という言葉を形にできぬまま、三蔵は行為に溺れていった。



翌日連れていった時計店で八戒が選んだのは、意外なものだった。
腕時計やそれこそ懐中時計もふんだんに揃っている高級時計店の片隅に、申し訳程度に置かれていた品々。
「こんなものが欲しいのか?」
「最近朝が弱くなってしまいまして。」
日の出とともに行を行う習慣が沁みついている三蔵は、どんなに飲み過ぎても朝は自然と目が覚める。
八戒もどんなに酔って帰っても、朝には目を覚まし家事にとりかかるのだと思っていたのだが。
「てめえは酒を控えた方がいい。」
「気を付けます。」
嬉しそうに次々と商品を手にする姿を眺めながら、三蔵はこいつの考えることはさっぱりわからないと内心ため息をついた。
そして自分が、あの懐中時計のように身に着けるものを与えようとしていたことに気が付いた。
何か対抗心のようなものがあったのか、ただの嫉妬か。
馬鹿馬鹿しい。
「デジタルもいいですね。ああ、でもこれもいいですねえ。」
昔ながらのベル式を手に取り悩む姿に思わず笑いが込み上げた。
「随分嬉しそうだな。」
「好きな人からの贈り物ですから。」
「好きな人?」
それは俺のことか?
目を瞠る三蔵に八戒は微笑みかけた。
「ええ、そうです。知らなかったんですか?」
「…ああ」
そうだったのか。
だから沈丁花の匂いをさせながら、猫のように忍んできていたのか。
「好きなんですよ。」
ゆっくりと、子供に言い聞かせるように囁いた。
「あなたが、好きなんです。」
あなたは?とは口にしなかった。
答えは期待していないという顔だった。
優しいとも切ないともとれる瞳が三蔵を見て笑っていた。








威勢のいい目覚ましのベルが鳴り響き、夢から覚めた。
「さあ、朝ですよ。皆さん、起きてください!今日は早めに出発する予定ですよ!」
晴れやかな声と共に次々と布団が引き剥がされていく。
「うわ、やめろ、八戒!」
「ハラ減った〜」
「…うるせえ」
毎朝のように繰り返される抗議には取り合わず、八戒は勢いよくカーテンを開けて大きく窓を開いた。
宿の庭に咲く沈丁花の匂いが入り込む。
三蔵はゆっくりと起き上がると、寝起きのぼんやりした頭でさっきまで見ていた夢を思い出そうとした。
視線の先には、懐かしい匂いの中で八戒が窓辺に立っている。
その身が溶け込んでしまうような闇ではなく、眩しい光と木々の緑を背に笑っている。
三蔵を見返しながら、八戒はきれいな指で目覚まし時計を止めた。
「毎朝煩くて敵わねえな。」
結局あの時、八戒は一番音の大きなものを欲しがった。
「おかげ様でとても役に立っていますよ。」
携帯には少々不向きな大きさだが、八戒は後生大事にこの旅に持ってきた。

あの時計店でのことを思い出すたびに、今でも三蔵は頭をかかえたくなる。
あの時。
思いを告げただけで満足している目の前の男を睨みつけた。
返事など端から期待していないという頑なさと自己完結っぷりに腹が立った。
こいつのせいで、自分はどれだけ心かき乱されてきたことか。
だいたいてめえは、そんなしおらしいタマじゃねえだろう。
その手を血に染める程の激情と執着心を持ってるなら、同じくらいのもんを俺に向けてみろ。
「っ!三蔵?」
目の前の細い体を強く引き寄せ抱きしめた。
腕の中で驚き固まる八戒の、息を奪う程に口づけた。
他の客や店員の好奇の目も気にならない。
「てめえだけだと思うなよ。」
耳もとに囁き解放すると、八戒は真っ赤になって俯いた。
「こ、こんなことして…あなた、自分の立場がわかっているんですか?」
小言を聞き流しながら早く選べと急かすと、八戒は震えながらも白い時計を手に取った。
会計を済ませ店を出るときに言い置いた“口外無用”の一言が効いたのか、その後妙な噂を耳にすることはなかったが、今思い出しても頬が熱くなる。

あの日から、浴びるように飲むことも酔いにかこつけてsexすることもなくなった。
二人の間に口実は必要ない。

目の前で時を刻む針を眺めながら、三蔵は考えた。
確かな約束も未来を思い描くこともできない日々だが、今、同じ時間を生きていることを得難いことだと思う。
できることなら、いつまでも共にありたいとも。

八戒は大切なものを扱う手つきで時計を鞄に仕舞い微笑んだ。
「さあ、出発しましょう。」
優しい声に促されて、今日も旅は続く。




end



結局いつものバカップル(笑)
不器用な二人が好きです。


(2014.4.2)




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