小さな願い




それは所用で遠出をするから荷物持ちとして付き合えと呼び出して、とある寺院まで往復した帰り道のことだった。
林を抜け小さな丘を越えれば見知った長安の街が見えるという場所で、ふと八戒が足を止めた。
街道脇に古びた街灯がぽつんと立つだけの寂しい場所だ。
数刻前まで空を茜色に染めていた太陽は山陰に沈み、涼やかな夜が始まろうとしている。

八戒は歩き続けたせいか少し上気した頬で空を見上げ、ぐるりと天を見渡した。
一体何をさがしているのか。
心地いい風が吹いてきて、三蔵は思わず息をついた。
ここで一休みするのも悪くないかと考えながら、つられるように空を見上げる。
そして頭上に広がる星々の意外な程の多さに目をみはった。
声もなく天を仰ぎながら、星空を見上げるなんて幼い頃以来だということに気が付いた。
まだ子供だった時分、こんな風に穏やかな微笑みを浮かべる人と並んで満天の星に魅入った記憶がよみがえる。
胸が締め付けられるような優しい思い出。
誰より大切だったその人を失って絶望と怒りだけを胸に住まわせて過ごした日々にも、夜空を見上げたことがなかったわけではない。
だがそれは方角を知るためであり、こんな風にただ、星を眺めるために見上げたことなどなかった。
いつでも地に目を落とし、自分が作り出した屍とそこから流れる血だまりを目に映して生きてきた。漂う怨嗟の呻きを聞き流しながら。
だけど今は―
「あ、ほら、見て下さい…」
尾を引いて流れる星が一つ東の空に消えていく。
「見ましたか?三蔵」
いつになく高揚した声で天を指差して微笑むこの男がいるから。
「ああ」
「きれいでしたね」
子供のように笑うこの男も、自分に似た痛みと重荷を背負っていると知っているから。
足元ばかりを見ているわけにはいかない。

今でもこの身体の中には、怒りと後悔が燻りつづけている。無慈悲な運命を恨む気持ちもある。
だがその思いのすべてが行き着くところは、結局自身の弱さを許せないという感情なのだ。
この思いに決着をつけるためにも、遠くないいつか、見知らぬ土地で夜空を見上げることになるだろう。
いつ終わるとも知れない過酷な旅で。
ふと、その場所にもこの男がいたならば、と考えた。
柔らかな眼差しで笑う男と、共に同じ星を見上げることができたなら。

「流れ星に何をお願いしましたか?」
「願いごとなんかするか」
この世で頼れるのは自分だけ。誰かが何かを与えてくれるなんて、あの人と星を見上げたガキだった頃さえ考えたことがない。
「夢がないなあ」
「おまえは何を願ったんだ」
「あんなに一瞬じゃ何も考えられませんよ。でも願うとしたら…あなたの煙草の数が減りますように、とか?」
新しい煙草に火をつけようとして思わず動きを止めた三蔵に、八戒はにっこりと笑いかけて続ける。
「悟空の背が伸びますように、とか、悟浄に新しい彼女ができますように、とか。あの人、先週またフラれたんですよ。あとは、そうだなあ…悟空が九九をクリアできますように、悟浄がそろそろゴミの日を覚えてくれますように、今月こそは赤字になりませんように…」
「お前はどうなんだ?」
指を折りながらつらつらと続ける八戒を遮って、三蔵は薄い闇の中で光る碧を覗き込んだ。
「お前自身の願いはないのか?」
「僕にはもう、何も願うことなんてありませんよ」
その言葉に偽りの響きは感じられない。八戒は穏やかな調子で続けた。
「でも、もし一つだけというなら…迷わないように、と」
「迷う?」
「進むべき道を見失わないように」
真っ直ぐな瞳で三蔵を見つめ、微笑んだ。
「あなたのように」

薄暗い灯りの下でもわかる、その瞳に浮かんだ思慕とも憧憬ともとれる熱に、三蔵は言葉を失った。
胸の奥に横たわる怒りや迷いごと八戒の温かな腕で抱きしめられたような、不思議な気持ちになる。
他の誰から寄せられても煩わしいだけの思いをこの男から向けられていると感じるだけで、こんなに満たされた心地になるなんて。
自分は随分と単純なものだと胸の内で笑いながら、三蔵は照れくささを隠すように少し乱暴に八戒の腕を取って引き寄せた。
「俺は迷ってばかりだが?たとえば今夜、おまえを引き止めるべきか、このまま帰すべきか」
戯れた風に耳元に囁けば、八戒は跳ね上がりそうに驚いて腕の中でかたまった。
「八戒」
肩を抱き寄せて名を呼ぶと、八戒はそっと目を伏せた。
「そんなこと…迷わないでください。僕はいつでも…」
吐息のような呟きがとぎれると、八戒は口にした言葉の意味に気づいたようにバッと身を離した。
「ご、ご、悟空が心配しますからっ、は、早く帰りましょう!」
肩を震わせて歩き出した横顔が、ひどく赤く見えて笑ってしまう。

「早く帰ってどうするんだ?」
「どうもしません!」
動揺を隠すように、八戒の足はどんどん速くなる。
その背を追いながら、三蔵はもう一度空を見上げた。
闇が濃くなり、星は一段と輝きを増している。

怒りでも信念でもない、こんなやわらかな思いの積み重ねでも、人は強くなれるのだろうか。
ならばただ一つ、願うとしたら――
八戒に追いついて強くその掌を握りながら、三蔵は胸の内で呟いた。

“いつでもこの笑顔が、傍らにあるように。”


end




あまりの恥ずかしさに5回程書くのを諦めたのですが、なんとか完成。
最近自分の中の38がどんどんバカップル化していていたたまれないのですが、
時々無性に書きたくなるんです。なんでだろう。

おつきあい下さってありがとうございました。


(2013.9.21)




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