夕立
遠くで低く雷鳴が響いている。
空を覆い始めた黒い雲。湿った緑と土の匂い。
近づく雨の気配。
気だるく伸ばした腕で煙草を探った指先を、絡めとられて引き寄せられた。
熱が燻ったままの碧が下りてきて、まだ湿度を残す吐息で奪う様に口づけられる。
共に過ごした時間の中で俺が教えたやり方を忠実に守る八戒のキスを受けながら、
こんな時はホント、かわいいんだよなあ、なんて考えた。
「どうした?まだ足りねえ?」
「ええ…全然足りません」
どこに隠していたのかと思うほどの情念を浮かべた瞳で、八戒が俺を見て笑う。
見惚れる程きれいで獰猛な瞳で。
「悟浄…すきですよ」
他のどの女が口にしても安っぽく陳腐に聞こえるそれをこいつが口にするだけで、
俺の中に切なさが満ちてきて身動きできなくなるのはなぜなんだろ。
もう疲れたしとか、どんだけ元気なのよなんていう抗議のセリフは、一瞬で消え去ってしまう。
それは全ての哀しみを忘れさせてくれる魔法の言葉。
長い間欲しかった、ただ一つの真実。
こんな時いつも思う。
同じように、俺は八戒の哀しみの全てを忘れさせてやれてるんだろうか。
「どーすんの?」
「どうするって…この状態で聞くんですか?」
八戒はきれいな眉を寄せて、困った顔をしてみせた。
やっぱまた俺が下?
まあ、そうだよな。
滅多に見せてくれねえこんな切羽詰まった顔で、“ごじょう…”なんて呼ばれたら、
なんでもやりたくなっちまう。
単純で悪かったな。
いや、よかったな、八戒。
ああ、そんなに急がなくても大丈夫だから。俺は消えたりしねえから。
もう少しゆっくり…お前を感じさせて。
生きてるうちは、全部お前にやるからさ。
もちろん死んでからだって、好きにしていいよ。
だから。
もっと求めて。
俺が必要だと言ってくれ。
八戒はいつの間にか雨も雷も怖がらなくなった。
それでも雨の気配には敏感で。
共に熱を分け合った幾つかの夜を思い出すからだろうか。
今では専ら欲をかき立てるスイッチみたいなものになったようだ。
いつの間にか雷はすぐ頭上で鳴っている。
叩き付けるような雨が天と地を揺らす。
身体が震える程の大きな音――いや、これは俺の鼓動か。
追い詰めて追い詰められて、俺たちは果てなく溺れてゆく。
この雨が止まなければいいと願いながら。
*
僕はベッドにうつぶせたままの日焼けした背中を眺めていた。
数日前に悟空と三人で川で泳いだ時の日焼けのあと。
仕事で忙しい三蔵に追い出され時々ふらっと遊びにくる悟空を、
この季節に水に入らねえ手はないよなと言いながら、
悟浄は町外れの川に連れ出した。
一日川で遊び輝く太陽の下で過ごした僕らは、たいそう健康的に日焼けをした。
その晩はシャワーを浴びるのも辛いほどに。
そんな日焼けのあとも、悟浄は真っ赤になった後で黒くなり、
僕は真っ赤になった後で、何も残らす消えてしまう。
肌トラブルはごめんだから、いいのだけれど。
まるで何もなかったように夏の印が消えてしまうのは、少し寂しいと思う。
もう夕飯の用意をしなければなんて考えながらも、
さっきから僕は健やかな呼吸を繰り返す背中から目が離せない。
雷雨の気配をいいことに、思う存分求めあったばかりだというのに。
早くシャワーを浴びてこの熱を静めて、あふれ出る欲望も洗い流さなければ。
こんな時いつも、この身の内に潜む底の見えない執着に嫌気がさす。
優しい時間は永遠じゃないと骨身にしみているから、つい欲深になってしまうのだろうか。
際限なく求めて、いつかこの人を食らいつくしてしまうんじゃないかという恐怖と、許される期待を身の内に潜ませながら。
僕は毎日食事を作り洗濯をして掃除をして、
悟浄の日常になろうと腐心している。
あなたがまだ眠っていた朝のうちに庭の畑で採った茄子とトマトがあるんですよ。
揚げたての茄子の天ぷらとよく冷えたトマトと素麺で夕飯にしましょう。
そっと背を撫でると、シーツの上に赤い波を描きながら寝返りを打って、
悟浄は無邪気な寝顔を見せてくれた。
「八戒…」
無意識のその呟きが、どれほど僕を幸せにするか知っているんだろうか。
その身体も寂しい心も、あなたは僕のものだと信じさせてくれるから。
また明日も夕立がくればいいと願ってしまう。
end
85の日にブログに上げた5視点に、8視点をくっつけて。
85も58も大好きです。
お幸せに。
(2013.8.16)