葡萄
家に帰ると八戒がいなかった。
どうやら出かけているようで、声をかけながら狭い家の中を巡ってみたが姿がない。
太陽が西に沈み夕闇がただよい始めた中、何となく外に出てみる。
昼間はまだ暑いが日が落ちる時間が少しずつ早まって、季節が移りつつあることを感じる。
こんなこと、以前はまったく意識しなかったのに。
“ほら、秋の虫が鳴いていますよ”
やたら季節の移ろいやその時々の食い物にこだわる同居人のやわらかい声を思い浮かべて、思わず笑ってしまう。
“誰かさんのせいかもな”
呟きながら煙草を吸っていると、家の裏手からかすかな音が聞こえた。
ぶらぶら歩いていくと、八戒が薄闇の中にしゃがみこみ、地面に置いた小さな蝋燭の火をじっと見つめている。
何かの儀式か?呪いか?
声をかけようとしたその時、八戒の手の先で鮮やかな光が浮かびあがった。
パチパチという音とともに、闇に光の華が咲いている。
“線香花火ですよ”
驚く俺を見上げると、八戒は微笑んだ。
淡い光に浮かんだ瞳は、濡れているように潤んで見えた。
“三蔵からいただいたんです”
“坊主が線香花火って、シャレのつもりかよ”
“悟空と遊んだ残りだそうですよ。線香花火は地味ですから、残ってしまうんでしょうね”
“この間の花火で病みつきになったんじゃねえの”
はしゃぎまくっていた悟空を思い出す。
“そうかもしれませんね”
楽しそうに笑いながら、八戒は一本よこした。
揺らめく蝋燭の炎にそっと近づけると、すぐにきれいな華が咲く。
“一箱一万円もする高級品だそうです”
“げ、これが?”
“風流ですよね”
“って、お前、すぐ値段の話すんのな”
“はは。すみません、つい”
辺りはすっかり暗くなった。
しばらく二人言葉もなく、次々に火を点しては松の葉のような火花に見入り、最後に寂しく落ちる火の玉に小さなため息をつく。
“なんかジジイになった気分…”
“たまにはいいじゃないですか。もう夏も終わりますし”
この夏は西瓜割りまでして、かなり夏を味わった気分だ。
“線香花火は人の一生に例えられるそうですよ」
最後の一本を俺に手渡すと、八戒は呟いた。
“ふーん”
で、こいつを眺めながら、ねえちゃんの一生を思っていたわけだ。
季節の移ろいを意識するほど、時の流れの速さを感じるのかもしれない。
時が経てば、いつか辛い記憶も薄れていく。
それでもこいつは抗うように、もういない女を繰り返し思い出すんだろう。
しんみりと最後の華を見つめていると思いきや、八戒は突然顔を上げた。
“葡萄が食べたくなりました”
“は?”
“葡萄の茎に似ていますよね、これ”
と言って、火花を指さす。
茎って、食べ終わった残りの、あれのことか?
“お供えのおさがりの巨峰をいただいてきたんです。一粒500円ですよ!”
“さすが、抜かりねえな”
“それって褒め言葉ですよね?”
八戒は手早く燃え殻を集めると、蝋燭を吹き消した。
闇の中、俺の小さな煙草の火だけが揺れている。
“さっき、泣いてた?”
なんて聞けるわけもなく。
俺は八戒の冷えた手を取り、冗談めかして甲に口づけペロリと舐めた。
“くすぐったいです、悟浄”
笑いながら腕を引こうとする八戒を引っぱって歩きだすと、大人しくついてくる。
過去には勝てねえかもしれないけど、俺は今、こんなふうに手をつないで笑わせることができる。
悲しい記憶をなぞりたきゃ、好きなだけなぞればいい。
戻れなくなったら、いつでも俺が手繰り寄せてやるから。
だからずっと傍にいてよ。
握る手に力をこめると、八戒は笑いながら微かに握り返した。
end
(2016.9.2〜2017.3.15 拍手ss)