冬の日





朝から頭が痛いと思っていたらどうやら風邪をひいたらしい。
冷たい冬の雨に降られながら辿りついた街の小さな宿の一室で一つ咳をした三蔵の不調を、八戒は見逃さなかった。
これくらい構うものか、明日の朝には予定通り出発だと言う三蔵をベッドに追いやり体温計を咥えさせ、“無理はいけませんよ、三蔵”とまるで母親のような口調で諭してくる。
“38度も熱がありますよ。喉は痛くないですか。水分をしっかり取りましょうね。お粥なら食べられそうですか。あ、煙草はダメですよ。今日くらい我慢してくださいね。”

甲斐甲斐しく世話をする八戒がどこか嬉しそうだから、こんな熱ぐらいで大げさなと口にしながらも三蔵は渋々といった体でベッドに潜り込んだ。
すぐに緩やかな眠気に襲われてしばらく夢の中を漂った後に目を覚ますと、いくらか気分がよくなっている。

見計らったように小さなノックと一緒に顔を覗かせたきれいな笑顔を寝起きのあやふやな心地のまま眺めていると、八戒はふわりと笑みを深め“卵酒ですよ”と大きな湯呑みを差し出した。
その笑顔が、一瞬あの人と重なって時が巻き戻る。
ガキの頃はやり風邪で寝込んだ自分に、あの人が手ずからこしらえてくれた。
甘く温かい卵酒とあの人の優しさにどれだけ癒されたか。
この胸に僅かに残る優しい記憶を、ふとした瞬間に八戒はたやすく目覚めさせる。
全く敵わねえなと胸の中で苦笑いしながら、ベッドの傍らに湯呑みを置いて額の濡れタオルを取り替えようと伸ばした八戒の腕を捕まえ引きよせた。

「三蔵?」
引かれるままにベッドに腰を下ろした八戒をさらに強く引きよせながら、三蔵は身を起こした。
一瞬感じた目まいをやり過ごすと、八戒の半身をベッドに押さえ込み碧の瞳を見下ろす。
「なんですか?」
「卵酒だ」
「は?」
「お前が卵酒なんか持ってくるからだ」
「お嫌いでしたか? 」
「いや、好きだ」
「ならいいじゃありませんか」

腕の中でもがく体を抱き締めると、八戒は諦めたように笑ってそっと三蔵の背を抱き返した。
八戒の匂いに包まれて、残っていた倦怠感が穏やかに消えてゆく。
なんて単純なんだと自分に呆れながら考えた。
こんなふうに抱き締めたのは、いつ以来だろう。
西に向かう程過酷になる日々の中では、僅かの間触れ合うことさえ儘ならない。

「八戒」
腕の中の男の他にはついぞ向けたことのない柔らかい声で、三蔵は名前を呼んだ。
こんな声をアイツらが聞いたら、気持ち悪いとか鳥肌が立つとかほざくのだろう。
我がものとは思えない甘い響きに内心苦笑しつつ、白いシーツの上に押さえこんだ八戒をもう一度見つめた。
八戒は頬を染め困ったように視線を彷徨わせる。
三蔵はこんな時に度々湧き上る、甘い胸苦しさと罪悪感に襲われた。

「八戒」
もう一度名を呼ぶと、八戒はゆっくりと目を上げた。
向けられた潤んだ碧になじるような色を見つけて、焦るような心地になる。
「ずるいです。こんなふうに―」
八戒はそっと三蔵の頬に指を触れた。
「こんなふうに名を呼ばれ抱きしめられたら、僕は勘違いしてしまいますよ」

ああ、そうだ。
こんなふうに、まるで魂を明け渡すように思いをこめて名を呼んで、大切に抱きしめ求めていたら。
勘違いしてしまう。

互いに口にしたことはないけれど、初めからわかっていた。
すべてを投げうって八戒だけを求めることなど、自分にはできないということを。
与えられ自らも望んだ使命を果たすためなら、この温もりを切り捨てる日がくるかもしれないことも。
だから確かな言葉など口にしたことはないし、求められたこともない。
八戒が胸の中にいつまでもあの女を住まわせていようが、アイツの誘いにのって戯れようが構わないと思っていた。
こんなあやふやな関係にどれだけの意味があるかなど、深く考えることすら放棄していた。
だが、真実の想いに目を背けそれでも腕を伸ばさずにはいられない矛盾だらけの胸の内を三蔵は誰より知っている。
失い傷つくことを恐れている自分の弱さも。
そうと気づいているのだろうに八戒はいつでも穏やかな微笑みでこの身勝手を受け入れるから、時々胸が苦しくなる。


触れ合えなかった時間を埋めるように、きつく抱き締め求めあう。
矛盾する胸の内に怯えるようにさらに深くを求めれば、八戒は焦点の定まらない瞳で溺れるように三蔵の首に腕を絡ませた。

すき。
すきです、三蔵。

恍惚の中、八戒は以前なら決して唇に載せなかった言葉を甘い吐息に混ぜて口にする。
それはただの譫言なのか。
それとも胸の奥に仕舞っている想いが堪えきれず零れ出たのか。
自分の応えを、八戒は待っているのだろうか。
それとも全ては独りよがりな願望で、ただ求められ受け入れられる場所を願う程に自分の心が弱っているだけなのだろうか。


愛は人を強くするという。
強くなれ、と師は言った。
それは誰かを愛せということだったのか。

どうか教えてほしいと願いながら、三蔵は愛しい人に口づけた。






end




三蔵さまとはいえ、たまには甘えたくなることもあるのでは。
早く告白しちゃえよ、おまえら〜。と思いつつ。


(2013.3.7)




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