みそかごと
その夜は月があんまりきれいだったから宿の外に出て小さくガラスを叩いてみたら、三蔵が少し驚いた顔で窓を開けた。
「ちょっと出かけませんか」
面倒くせえと返されると思ったのに、三蔵はチラッとベッドで寝ている悟空を振り返ると、窓枠に足をかけてヒラリと飛び降りた。
「いいんですか?」
「お前が誘ったんだろう」
空にかかる丸い月を見上げながら煙草に火をつけると、三蔵は少し目をすがめて僕を見た。
「十六夜か」
「ええ」
向けられる視線は決して甘くはないけれど、思いがけない二人きりの時間に悪い気はしていないということは見て取れた。
こんなことに胸が躍ってしまう自分の単純さを密かに笑いながら、僕はどこへ行きましょうかなんて言いながら通りへ誘う。
宿のまわりの店々からは、人の声や熱気が流れてくる。
こんな小さな街の盛り場でも、それなりに賑やかなようだ。
きっと悟浄もどこかの店にいるだろう。
この人とどこか寂れた小さな店で飲むのもいいけれど、今夜は外がいい。
こんなに月がきれいなんだから。
僕の思いを知っているかのように、三蔵は盛り場に背を向けて歩いていく。
ほとんど言葉を交わすことなく静かな通りを進んでいくうちに、やがて家が疎らになり、暗闇が濃くなってきた。
そろそろ街外れかなと思いながら林の中を進んでいくと、突然視界が開けた。
目の前には、黒々と広がる水面。その上に、金色の月がぽっかりと浮かんでいる。
冴えた光に照らされて、小さな湖がひっそりと揺れていた。
「きれいですね」
「…ああ」
「知っていたんですか」
「夕食の時、隣りのテーブルの奴らが話をしているのを耳にした」
そういえば、釣果を自慢する声が聞こえていたかもしれない。
小さな桟橋に古ぼけた小舟が幾艙か揺れていた。
ぐらつく石を踏んで水辺を歩き出したとたん、僕は驚いて足を止めた。
「え?」
聞き違いかと思った。
乗ってみるか、といったのだ。
決まり文句のように“面倒くせえ”を口にする、この人が。
自分が漕ぐのだといって櫓を手にした三蔵は、おそらく初めてだったのだろう。
少しの間苦戦していたが、やがて船はゆっくりと岸を離れて進み始めた。
三蔵はゆっくりと感触を確かめるように櫓を操りながら、船をまっすぐ進めたり左右へ向けてみたりと、新しいおもちゃをもらった子供のように熱中している。
「代わりましょうか?あなたにこんなことさせたら、申し訳ないですよ」
お前は下僕だといったのは、三蔵なのに。
「いや。思ったより面白い」
月の光を浴びながら、小舟は滑らかに水面を進んでゆく。
やがて三蔵は、湖の中ほどで飽きたように漕ぐのを止めた。
櫓を固定すると船の真ん中に座っている僕の前に腰を下ろし、煙草を取り出した。
僕は細い煙がゆっくり立ち上ぼる様子をぼんやりと目で追った。
いや、本当のことを言えば、金の光を浴びて満足そうな顔で煙を吐き出す三蔵に、見とれていたのだけれど。
僕は上着のポケットに隠し持っていた缶ビールを二本取り出した。
いつの間にという顔の三蔵に笑いながら説明する。
「モテる男は、いつでも準備がいいんだそうです」
「アイツの入れ知恵か」
月見酒だなと呟いて、三蔵は天を仰いだ。
密かないたずらが成功した子供のように笑う僕たちを、月が見ている。
ビールを差し出そうと腕を伸ばしたら、手首を掴まれた。
「どうしました?」
これくらいのことで動揺してはいけない。
「どうする?逃げられねえぞ」
三蔵は笑っている。
「そんなの…水に入ればいいことです」
「濡れるだろ」
どうしよう。
逃げだしたいけれど、ずっとこのままでいたいとも思ってしまう。
いっそこのまま、水の中に入って沈んでしまおうか。
そうしたらこの人はどうするんだろう。
呆れたように眺めているのか。
それとも躊躇いなく僕を追って水に入ってくれるのだろうか。
凍えるようなこの水でこの人を濡らすなんて、考えられないけれど。
「もちろんあなたにもご一緒してもらいますよ」
にっこり笑って答えれば、三蔵は小さく舌打ちして奪うようにビールを掴んだ。
夜が更けて冷え込んできた空気の中、ゆっくりとビールを飲みながら、僕らはただ向かい合っていた。
少し離れただけなのに、街の気配は全く感じられない。
聞こえるのは、黒々と湖を囲む林の中で鳴く夜鳥の声と、近くで小さく魚が跳ねる音。
あとは時折さざ波に船が揺れて微かに軋む音だけ。
あんまり静かで言葉を発することが怖くなる。
狭いボートの中で向かいあって互いの顔を見つめれば、三蔵は何だか見たことのない顔をしていて、嬉しいような悲しいような不思議な気持ちがした。
時折考える。
この人の孤独と僕の孤独。一体どちらが深いんだろう。
そんなことを比べることすらおこがましいのだけれど。
誰にも代われないこの世にただ一人の存在としてのこの人が抱えるものの重さを、きっと僕は理解しきれていないだろうし、僕の胸の奥深くに横たわり、ほんの僅かも動かすことのできない絶望という塊など、この人にいくら説いても鼻で笑われるだけだろう。
ただ大切なものは容易に人に見せないように、三蔵は不機嫌な表情と吐き出す煙で、僕は嘘臭いといわれる笑みで、触れられたくないものを守っているのだ。
でもこんなに月が天に冴えざえとかかる夜には、箍が緩んでしまうのかもしれない。
「そういえば、悟浄の家の裏にあった湖、覚えていますか?」
悟浄と僕が暮らしていた家を取り囲む林の奥に、小さな湖があった。
こことは比べ物にならないくらい小さなものだったけれど、水質がよくて数種の魚や生き物もいて、その畔で何度か四人で僕が作った弁当を食べたことがある。
眠れぬ程暑い夏の夜には、悟浄と二人で涼をとるために水に入ったこともあった。
昼間は透明で美しかった水が夜になると真っ黒で、飲み込まれてしまいそうで少し怖かったこと。
見上げた月は今夜のように静かだったことを思い出した。
そう伝えると、三蔵は不機嫌そうにそっぽを向いてしまったから、水の中で抱きしめられてキスをしたことは内緒にした。
「煽っているのか?」
ため息のように煙を吐き出すと、三蔵は困ったように僕を見た。
ああ、そうか。
僕はこの人を困らせたいんだ。
物思いに沈む気難しげな三蔵も、冷たい顔で薄笑いを浮かべながら殺し続ける三蔵も、ジープの上で眠たげに目を伏せる三蔵もすきだけれど。
僕のせいでこのきれいな人が心を揺らす様を見たいんだ。
本当に、僕はどこまで欲深い―。
「僕にも一本いただけますか?」
三蔵の前で吸うことは滅多にないけれど、多分この人は僕が煙草を口にするのを好ましく思っていない。
それでも差し出した掌に、マルボロとライターを載せてくれた。
そしてそのまま、強く手首を握られる。
「その気があるなら、もっと上手く誘え」
「妬いてくれました?」
性質が悪いと言って舌打ちしながら乱暴に引き寄せられるのも、だから全て、僕が望んだこと。
身の程知らずな願いを、いつもこうやって叶えてくれる。
何度か抱き合ったことがあるけれど、この人に愛されているのか、わからない。
でも許されている、ということは知っている。
犯した過ちも、生き続けているこの時間も、生死さえ委ねることも。
この人が許してくれるから、僕は全てに耐えてゆける。
いつでも、この人を煩わす全てのものを消し去りたいと願っている。
つまりはこの僕を、ということなのだけれど。
でも同じくらいの強さで、傍にいたいとも願ってしまう。
だからいつまでも、僕は自分を許せない。
「こんな場所で」
「誰もいねえよ」
冷たい水に浮かぶ小さな世界で、理性を溶かすような熱を受け入れながら、僕は天を見上げる。
「月が…」
月が見てますよ。
僕の汚い思いも、叫びたくなるような愛しさも、何もかも。
いつでも、冷たく温かい光で暴き出す。
まるで、あなたみたいに。
ならばもう知っているのでしょう。
誰のものにもならないあなたを、僕がどれだけ愛してしまっているかということを。
end
遅れてしまったけれど、三蔵様お誕生日おめでとう。
こんな季節に外では無理、と思いつつ。
相変わらず肝心なことは口にしない似たものどうしな二人です。
(2012.12.2)