やがて雨。






「雨がきますね」

男は空を見上げて僅かに目をすがめた。
「こんなに晴れてるのに?」
ジーンズの後ポケットに両手を突っ込んだまま振り返った悟浄の、少し茶化すような口調にも、男はええ、と律義に頷いた。
「今晩あたり降りますよ。何となくわかるんです」




冬枯れた林の中の道は、薄汚れた敷き物のような朽ち葉で覆われている。
落ちたばかりの頃ならば貴族の絨毯にも負けないほどの錦だったのだろうか。
幾度かの雨と陽射のせいで色褪せ汚れた様は、この林全体が、長い冬眠の季節に入る準備をしているようにみえた。

悟浄は少し肩を竦めると、再び男の前に立って歩きたした。
歩を進める毎に足下で枯れ葉が小さく音をたてて壊れていく。
それは終わってしまった命の残骸が砕ける音のはずなのに、なぜだか温かく聞こえた。


男の足取りはいつになく重かった。
常ならば悟浄の少し前を颯爽と歩いていくほどなのだが。
今日は何やら思案しているように時折立ち止まっては、枯れて枝の細さだけいやにくっきりと浮かんで見える梢の辺りを見上げたりしている。


なるほど。
雨が近いのならば、古傷が痛むのかもしれない。
だが男の腹に残る疵はもう、さして疼かないはずだ。
あれから流れた時間の長さを考えれば。
どういう気紛れから始まったかはもう覚えてないけれど、時折肌を重ねてきたから知っている。
悟浄がソコに触れても、舐めても吸っても、時には噛み跡を残すような振る舞いをしても、男は苦痛を口にしたことはない。
むしろ殊更悦んで乱れるのが常だった。

疼くとしたら、きっと右目だろう。
男が今までそこが痛むと、口にしたことはないけれど。
より神経に近く繊細な部位だし。常に酷使している部位だから。


疵は、付けた者と付けられた者を縛る「呪」なのではないだろうか、と思うことがある。
悟浄はそっと自分の頬に触れてみた。
あまりに古いこの疵は、雨の気配に疼いたり痛んだりした記憶は既にない。
だが今でも見えない鎖は、こうやって自分を縛り続けている。
とっくに忘れたつもりでも、とっくに断ち切ったつもりでも。
幼い自分を憎みながら死んで行ったあの美しい女を、心の底では忘れ難く思っているのだから、それも仕方がないことだ。

だが。
この男はどうなのだろう?
悟浄は立ち止まり、数歩遅れてぶらぶらとやってくる男をゆっくりと振り返った。

以前この男の腹に疵を付けた奴がいた。
そいつはそれで縛ったつもりだったのだろうが、男はそれは鮮やかに、残酷に、その鎖を断ち切ったものだった。
だが右目の疵は、男が自らこしらえたものなのだ。
それならばその疵は、きっと男が自らにかけた「呪」なのだろう。




「何見てんの?」
しきりと空を見上げていた男は、悟浄に視線を移すと少し困ったように微笑んだ。
「また見えるんですよ」

高い木の梢の、もう少し上のあたりに、ソレはいるのだという。
林の中に立ち入った時など気付くとそこにいて、男を見下ろしているのだという。

「不思議と雨の降る前になると、よく見えるんですよね」
そう言うと、男はゆるい午後の陽射を避けるように手を翳した。
見えないはずの右目が、ソレを捉えて優しく細められる。

「ふ―ん」
悟浄は知っている。
男はソレが降りてくる時を待っているのだと。
自ら断ち切ることを諦めたこの場所での時間を、一心に愛した女の形をしたソレが、断ち切ってくれる時を。

「悟浄には見えませんか?」
少し強くなった風にざわざわと音をたてて揺れる梢を見上げても、悟浄には何も見つからない。
見つかるはずもない。
ソレは男が自らにかけた「呪」なのだから。




雨が降ると、男の胸の中には風穴が現れた。
気を抜くと、男の言葉も思考も何もかも、易くそこに引き寄せられた。
そんな男が哀しくて、男がその穴に気付かぬようにと、悟浄はまるで追い立てられるような心持ちで肌を重ねてきた。
知り合った頃から短くはない時間がたった今も、その習慣は変わらない。
最近では雨が降ったからといって、男が容易く過去へ連れ戻されることはなくなった。
そしてその熱を必要としていたのは、本当は自分だったのだということに、悟浄は今頃になって気がついた。
気がついてしまった。




「そろそろ戻りましょうか」

気付くと男がこちらを見ていた。
先ほどまでのあやふやなものではなく、胸の中まで分け入ってくるようなまっすぐな視線。
鮮やかな微笑みを浮かべ、立ち止まったままの悟浄を急かして軽やかに歩き出す男には、空や梢を気にする素振りは微塵もない。
薄い膜の向こう側にいた男の意識は、確かに今、悟浄の目の前に戻ってきた。


「おう」
数歩先行く男の背中に応えると、悟浄はざわざわと揺れる梢の、その上に広がる白い空を見上げた。


雨の降る前になると、この男はいつもこんな様子だ。
最早陰惨な記憶も哀しみも、この男を縛りはしない。
男は自らを縛る疵を抱いて、前に進み続ける。
もし些細な雨の予兆だけが、この男を立ち止まらせることができるのならば。
俺はいっそ雨になりたいよ。








end



天下一拳闘会の話を読んで、
なぜ八戒はあんなに強いのだろうか?という疑問から、勢いで書いてしまったた話、
悟浄に容赦ない八戒と、八戒にどこまでも甘い悟浄。
惚れた弱みでしょうか。

(2008.09.04)




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