「あ、悪ィ」
部屋の中に耳障りな音が響いて、破片が床に散らばった。
天蓬は数週間ぶりに姿を現した自室の床に散らばった、鏡だったものの残骸を見下ろした。
繊細な竜の装飾を施した丸く優美なラインの銀の台に填め込まれていた薄い鏡が、砕け散って蛍光灯の光をはじいている。
「すまねぇ、手が滑っちまって。大事なモンだった?」
割烹着に頭にタオルを巻きつけた姿の捲簾が、がしがしとタオルの上から頭をかきながらしまったという顔で天蓬を見た。
ふ、と女物の香が匂って天蓬は微かに眉を上げた。
そういえば、昨夜は部屋に居なかったようだ。
どこぞの女官とお楽しみだったのだろうに、なぜこの男は、こんな朝早くからここにいるのか。
「大丈夫ですよ。ご心配なく。大して惜しいものではありません」
にこりと笑って形ばかりに目の前の本棚にはたきをかけながら、首をひねる。
「確か、竜王から頂戴したものです」
その時、長い間胸の奥に閉じ込めていた脆く柔らかいものが壊れたのかもしれない。
pieces
あれはたしか目の前の男が赴任してくる数年前のことだったかと、天蓬は視線を宙に彷徨わせた。
時間の流れが気の遠くなるほど緩やかなこの天界では、その感覚などあやしいものだが。
当時天蓬は、数人の男たちと関係を持っていた。
なぜか昔から頻繁に男に声をかけられることが多かったために自分の容姿がそれなりのものらしいと気付いてはいたが、それに何の意味や価値があるのかということには全く無頓着だった。
職務とそれを円滑に進めるために最低限必要な人付き合いだけこなし、あとはひたすら自室にこもって道楽を追及している天蓬を、人は変人とか人嫌いなどと噂していたようだった。
天蓬自身も不必要な人間関係など煩わしいだけだったから好都合だった。
ただ一人昔馴染みの金の髪の麗人だけが、職務や利害とは無縁でつきあうことができる存在だった。
そんな天蓬も胸の奥に、自分ではどうしようもできない空洞を抱えていることに気付いていた。
与えられた任務のために完璧な計画をたて、それが忠実に遂行されたと報告を受けても、部下を率いて下界に降り危険に晒されながら任務を果たしても、愛すべき収集品に囲まれ、手に入れがたいと言われる貴重な書物を貪り読んでいても。
いつも何をしていても、胸の奥に満たされない空ろを感じていた。
そして天蓬は、ある時突然思い致った。
“恋愛”というものこそが、この空虚な思いを埋めるものなのではなかろうか。
恋愛は、人の精神肉体に変化をもたらすという。
書物による知識では飽き足らない天蓬は、自ら実践してみようと考えた。
今考えると、魔が差したとしか思えない。
その気になれば相手は幾らでも見つかった。 たいていは物好きな貴族や軍の男たちが相手だった。
宮中で見かける麗しい姫君や女官たちに興味は湧かなかった。こちらが守らねばならぬような者に魅力など感じない。
次々と相手を変えて逢瀬を重ねながらも、特定の誰かと深い絆を結ぶことはなく、誰一人とも長くは続かなかった。
自室に迎え入れることも決してしなかった。
人から見ればどんなに奇妙な部屋でも、天蓬にとっては聖域。 価値のわからぬ無粋な輩に足を踏み入れられることは許せなかった。
ある夜、逢瀬のために夜陰に紛れて通う自分を追う目があることに、天蓬は気がついた。
満開の桜が咲き乱れる中庭を横切りながらちらとふり仰げば、二階に位置する上官の執務室に人影が見えた。
ひんやりとまとわりつくような視線は、敖潤のものだ。
だがそれは、昼間上官として見せるどこまでも冷静で厳しい視線ではなく、うっすらと熱と湿度をはらんで背に絡みつくように感じられた。
だが翌日執務室で向かい合った敖潤からは、微塵の感情の揺れもうかがえなかった。
人の心の奥底や本質を、じっと観察するような冷たい瞳。
有事でも平時でも、冷静沈着で的確な仕事ぶりは評価に値する人だ。
傲慢な自分が尊敬できると感じる、数少ない人だった。
そんな人が自分に思いを寄せることなどあるはずがない。
気のせいだったのかもしれない。それとも希望か。
だがその夜、前夜と同じように闇の中を進む自分の背にはっきりと熱を帯びた視線が降り注いでいるのを感じて、天蓬は口元を引き上げた。
背筋に感じる震えは、歓喜なのか罪悪感なのか。
気を抜けば乱れてしまう歩調に戸惑いながらも、天蓬は笑いだしたいような衝動をこらえていた。
それから数日たって、下界へ出陣の命が下った。
数日ぶりに帰還した天蓬は、翌日報告書を手に敖潤の部屋を訪れた。
敖潤はいつものように報告書を受け取った後、わずかに眉をひそめた。
「元帥、あれを見ろ」
敖潤の指差した先には、一枚の鏡がかかっている。
「はい」
鈍い色の銀の台に施された細工は天と地に向かう二匹の竜。
繊細な鱗や怒りを表した目の表情などは見事な出来栄えだった。
その細工に囲まれた丸い鏡の中に映る天蓬の姿は随分と情けない有様だった。
シャツの襟はよれ、申し訳程度にまきつけられたネクタイは歪み、羽織った白衣は皺だらけ。 髪はぼさぼさに乱れ、おまけに頭の上にたっぷりと桜の花びらを載せている。
「仕事中は身だしなみに気を配るようにいつも言ってるだろう。下の者に示しがつかない」
「この鏡、珍しいものですねえ。この竜の細工なんて、本当に素晴らしい。ずいぶん古いもののようですが下界のものですか?」
「…お前、私の話を聞いていないな」
「確か中国という国の古い時代のものに、こんな細工を見たことがあるような…」
敖潤は呆れたように応えた。
「数年前にある貴族から贈られたものだ。一族の繁栄を願って、などと言ってな」
確かに竜を名乗る一族にふさわしい献上品かもしれない。
送り主にとってどれほどの効力があったのかは知らないが。
周囲の細工をじっくり眺めて目を輝かせる天蓬に、敖潤は小さくため息をついた。
「いいから細工ではなく、鏡をよく見ろ」
「はい」
その言葉に我に返った天蓬は、きれいに磨かれた鏡に目をうつした。
まともに鏡を覗いたのは、何か月ぶりだろう。
ひどい有様の自分の姿に、天蓬は目を丸くした。
ここへ来る途中でいい塩梅の桜の木を見つけ、少しだけと思い腰をおろしたままウトウトしてしまったのだ。
午睡にちょうどいい場所を見つけたと、ひそかに喜んでいたのだが。
まじまじと鏡をのぞきこむ天蓬の背に、いつの間にか敖潤が立っていた。
鏡の中に赤い瞳を見つけて、天蓬は息をのんだ。
突然数日前の夜に感じた感覚が甦る。
「竜王?」
「髪ぐらいちゃんと整えろ」
青白い指が天蓬の髪に触れた。
ゆっくりと梳かれ、はらはらと花弁が床に落ちてゆく。
何度か髪を梳かれて、天蓬は小さく震えた。
敖潤の表情には何の変化もうかがえない。
「髪は縛るように言ったはずだが」
「出陣のときはまとめていますが…あなたのように編み込みましょうか?」
「何なら今からやってやろうか?」
思いがけず笑いを含んだ声で返されて、胸が音をたてる。
「いつもご自分でなさるのですか?」
「いや」
そうだ。この人には、髪を梳き、編んでくれる方がいる。
胸の奥に感じた痛みに、天蓬は一瞬言葉を失った。
この感じはなんだろう。
苦しいような切ないような。
でも、どこか甘い、この…痛みは。
天蓬は初めて知ったその感情を恐れるように、殊更明るく返した。
「今度僕にも編ませてください」
「お前にできるのか?」
微笑みながら返されて言葉につまった。
天蓬が見掛けによらず不器用なことなど、長年の付き合いで知られている。
「…いえ」
「世話好きの女官か器用な副官でも必要だな」
「そんなもの、いりません」
嫌そうに返す言葉に、敖潤はやさしく目を細めた。
鏡の中の思いがけない上官の表情に目を奪われた天蓬の肩に、そっと腕がかかり抱き寄せられた。
ゆっくりと頬に触れる指の動きに驚き振り向いた天蓬の頬に、ひやりとした敖潤の唇が触れた。
その時、わかってしまった。
ああ、そうだったのか。 男たちとの逢瀬では感じたことのない、胸の奥の深い痛み。
空ろのあった場所を埋めるのは、こんな想いだったのだ。
高揚感でも快感でもない。この感情を恋というのだ。
自分はこの人に惹かれている。
だけど、この人に想われる価値はない。
それに気づいただけでも、あの恋愛ゲームに意味があったのかもしれない。
「この鏡はお前にやろう」
「え?」
ゆっくりと身を離した敖潤は静かに言葉を継いだ。
「身近に置いて、たまには自分の姿を見るといい」
そういわれて目をやった鏡の中には、惑うような顔をした自分の姿が映っていた。
翌日顔を合わせても、敖潤の態度は変わらなかった。自分も部下としての尊敬と無関心で応えた。
まるであの口づけは夢だったかのように。
そしてあの日以来、天蓬は全ての関係を絶った。
天蓬のきまぐれな性質を知る男たちは、しばらくは不平を口にしたり無責任な噂話をしていたようだが、いつの間にかそんな雑音も途絶えていた。
数か月後、気が付くと自分の熱を知っている者はすべて城から姿を消していた。
東方軍へ飛ばされたとか、原因不明の病にかかったとか、様々な噂を耳にした。
あの人の力なのだろうか。
天界でも屈指の高貴な家柄の出である敖潤ならば、その気になればそんな細工も容易いことなのかもしれない。
いったい何のために、と考えて、天蓬は鏡に目をやった。
あの人が守っているのは、軍人としてのこの自分だ。
この鏡の意味は、おそらくは己の姿を見よと。愚かな自分の姿から目を背けるな、ということだ。
天蓬は鏡の中から自分を見返す不景気な顔を眺めながら考えた。
胸の中の空ろが埋まることなど、きっとないのだろうと。
互いに何かの想いを口にすることも、熱を感じることもなく、変わらずに日々は流れた。
二人がその身を近づけるのは、稀に敖潤が隊の訓練に姿を現した際に一戦交える時くらいだった。
今までもこの先も、あの人と自分は何も変わらないだろう。
そして、きな臭くなってきた時勢を見計らったようなタイミングで、この男が現れた。
優秀で面倒見のよい副官。
まるであの日の戯言が現実になったかのように。
「あぶねぇな」
ぶつぶつと呟きながら破片を集める捲簾の背中を眺めながら、天蓬はゆっくりと煙を吐き出した。
認めたくはないけれど、この男が現れてから自分の中の何かが変わったのは確かだ。
今まで無関心に目の前を通り過ぎていた様々なことが、いきなり鮮やかな色を帯びてこの身に迫ってくるような感覚も。
それに晒されて感じる喜びや怒り(怒りがほとんどだが)の振幅の激しさに戸惑う感情も。
全くもって悪くない。
そして最近天蓬は気が付いた。
胸の中のどこを探しても、あの空ろが見当たらないことに。
「おい、ここでは割れた鏡は不燃ゴミか?有害ゴミか?」
破片を拾いながらこちらを見上げる捲簾に、
「さぁ…いつも適当に出しているので」
と答えたら、
「分別くらい覚えろよ、お前何年ここに住んでるんだ?」
と呆れられる。
「あなたお母さんか何かですか?」
「うるせえよ、ゴミだしのルールをなめんなよ!」
全く、お節介な人だ。
天蓬は思わず含み笑いながら、久しぶりにきれいに洗われた蛙の口の中に煙草を押し付けた。
「僕がやりましょう。あなたはあちらを」
天井まで積みあがった本の山を指差してやると、捲簾はため息まじりに立ち上がった。
「割烹着、似合ってますねえ」
「嬉しくねえし」
舌打ちしながらも満更でもないという顔の捲簾に笑いながら、天蓬は破片を手にした。
これは自分だ。 行く先を見失っていた愚かな自分。
脆く砕けるような想いは、もう必要ない。
さようなら―
天蓬は最後の破片を拾い上げると、そっと袋の中に入れた。
*
「ったく、後始末はオレかよ…」
押し付けられたゴミ袋を手にぼやきながら、捲簾は見違えるほどきれいになった部屋を満足気に見回した。
よくもあの散らかった部屋を、たった数時間でここまで片づけたものだ。
自分の手際のよさに、満足の笑みも浮かんでくるというものだ。
「あなた主婦に向いていますね。いい奥さんになれますよ」
図々しくほざく副官に蹴りを入れたら、素早くかわされてしまったが。
天蓬は掃除の間に掘り出したらしい数冊の本を抱えて、早くもソファの上で読書に没頭している。
そんな姿に苦笑いしながら、捲簾は両手に持ちきれないほどのゴミ袋をぶら下げて部屋を出た。
ゴミ置き場に向かいながら、次の出陣までの限られた時間を惜しむように本の世界に遊ぶしかない男を、少し哀れに思った。
あふれそうなほどの書物と意味不明のガラクタに囲まれて、それはそれは固い殻を纏い心を閉ざしていたあの男。
一見物腰柔らかく振る舞いながら、ほんの一瞬の隙をついて切り込んでくる鋭利な刃物のような冷たさと、ふとした瞬間見せる正反対の直情さ。
あんな男、一体どうやって出来上がったのか。
誰もそれを防げなかったのか。
上司である竜王は何もしない。ただ見つめるだけだ。
相も変わらず穏やかに咲き続ける桜が囲む中庭を横切ったときに、捲簾は自分に注がれる視線に気がついた。
ちらと眼をやってそれが上官の執務室からのものであることを確認すると、立ち止まってわざとらしくここで一服してやることに決めた。
地に置いたゴミ袋の中の一つで、カチャと甲高い悲鳴のような音がする。
ふと、よくできた上官にもらったのだと口にした時の天蓬の瞳の色を思い出した。
愛おしむようにわずかに目を細めたきれいな横顔。
あの天蓬の様子に何も感じないと言えば嘘になる。
堅物の上官と極度のズボラ男がどう転べばと想像もつかないが、自分の知らない天蓬を知っている奴がいると思うだけで胸の奥が焼けるように熱くなる。
いったいどんだけガキだっつーの。
捲簾は赴任する前に耳にした噂を思いだして小さく舌打ちした。
たしか酒場の隅で聞いた与太話。
西方軍には、絶世の美人がいるという。
そこらの女が裸足で逃げ出すようなきれいな顔なのに、すこぶる頭が切れて冷酷で優秀な軍人。
しかもアッチの方も最高で、そいつに手を出したという男が最近東に飛ばされてきたとか。
あれもあながち嘘じゃねえのかもな。
「甘やかしたのは、アンタだな」
目をやると、上官の姿は消えていた。
捲簾はゆっくり煙草を吸うと、通りかかった不運な部下を呼び止めた。
鏡の破片を入れた袋だけ残して数個のゴミ袋を押し付けると、行き先を自室に変更した。
部屋に入るとまず床に新聞紙を広げ、精巧な細工の枠を置いた。
その中に破片を次々と並べてゆく。
鏡は複雑な形に割れていたが、昔からパズルは得意だ。
一時後、捲簾は最後の一片を置いて小さく笑った。
夕刻、捲簾は再び天蓬の部屋を訪れた。
手には強力な接着剤で修復した鏡を下げている。
部屋の主は留守だった。
この時間、捲簾以上の階級の者はお決まりの会議がある。
いつもサボりを決め込む天蓬に、この部屋の片付けと交換条件で今日は必ず出席しろと命じたのは捲簾だった。
どうやら素直に会議に出ているらしい。そういう自分はサボリだが。
部屋の一角にすでに積みあがりつつある本の山に小さくため息をつきながら、捲簾は天蓬の執務机に近づいた。
夕日が斜めに差し込み、窓際の執務机を赤く染めている。
そっと引出を開けると、思ったとおりそれはあった。
きらりと夕日を受けて光っているのは、小さな鏡の破片。
そっと取り上げて未完成の鏡にはめ込むと、ぴったりと収まった。
あんな顔を見せながら。
それでも惜しげもなく片付けてみせた天蓬の姿を思い出した。
自分の見る限り、竜王と天蓬の間には何もない。
ならばこれは、胸の中にわずかに残った未練なのか後悔なのか、それとも戒めか。
「健気だねえ」
思わず呟いた言葉に、捲簾は苦笑した。
それは密かな思いを抱き続ける二人のことなのか、こんな風に天蓬の想いを覗き見てしまう自分のことなのか。
捲簾は鏡から取り出した破片を目の前に翳し、映る夕日を睨むように目を眇めた。
「待ってろよ、いつか自分から捨てさせてやる」
呟くと、手の中の破片を元の場所に戻し、そっと引出を閉めた。
end
軍人3人が何も思い合わないはずがないという妄想。
破片は後日、カー●ルおじさんと一緒に粉々に吹き飛ぶ予定です.。
全く力不足で申し訳ないのですが、楽しかったです。
(2012.5.8)