白い月





この気持ちを何と呼ぶのか、教えてほしい。 
この胸の痛みと渦を巻く醜い感情を。
「僕、悟浄のところにすまわせてもらうことにしました」 
そう言って笑う八戒を目の前に、三蔵は一瞬言葉を失った。 
釈放後もこの寺にいてよいのだと三蔵が伝えた時、八戒は切な気に瞳を揺らしながらも微笑んでみせた。
「そういうわけにはいきません」 
三蔵の申し出に感謝しながらもきっぱりと断った、あの微笑みは何だったのか?  

八戒が自らの罪の戒めとして、紅い髪の男を必要としているということは知っていた。 
悟浄が初めて会った日にそんなことを口にしていた記憶がある。 
自らの意志で、死よりも辛いであろう生きることを選んだ八戒。  
己の犯した罪から目を逸らさずに生きるためにアイツの傍を選ぶというのなら、それが八戒の選んだ道ならば、何も言わずにその背を見送らなくてはと頭では理解している。 
だがこの気持ちは― 
胸に広がるこの苦い気持ちは何なのか。  
“嫉妬”という言葉に辿りついて、三蔵は動揺した。 
自分がこんな気持ちになるなんて。 
驚きを隠しながら煙草に手を伸ばし、悟空と戯れる八戒の姿を眺めた。 

悟空と接するときの八戒の視線は、どこか自分に向けられるものと違っている。 
幼い者を見守るようなやさしい瞳。 
かつて幼い頃、自分も師から受けていただろうその柔らかい眼差しを、三蔵は胸の痛みと共に眺めた。 
こんな痛みは最近まで知らなかった。 
八戒と出会ってからこの男によってもたらされる自分の中の様々な感情に、三蔵は戸惑い苛立っていた。 

多分初めて会ったときから惹かれていたのだ。 
猪悟能という男を探して森の中の一軒家にたどり着いたあの時、悟浄を庇うために家から出てきた姿を目にした時から。 
だが本当に心ごと掴まれたのは、その男が自らの手でその瞳を抉った時だった。 
怒りと絶望で強い光を湛えた碧の瞳が、自らを、全ての者を嗤うかのように揺らめいた後、その手によって永遠に失われた。 
その激しさと垣間見えた狂気に三蔵は心を奪われた。 
三仏神による処罰が下り、猪悟能の名を捨て生きることが決まった後、三蔵は義眼を入れるように命じた。 
自分の命をもってさえ到底償えないほどの罪を犯した自分が義眼など受け入れられないと、男は頑なに拒んだ。 
だが三蔵は無理にでも失われた目を入れるように迫った。 
生き続けること自体が罰なのだから、その両目を逸らすことなく自分の罪を見つめろと。 
男は義眼を受け入れ、猪八戒として生まれ変わった。 
相手が八戒でなかったら、これほどまでに義眼にこだわらなかっただろう。 
その両目の揃った姿を目にしたとき、三蔵は予想とおりの美しさに胸を打たれ、自分の執着の深さに呆れた。 
結局自分は八戒のこの姿が見たかっただけなのだ。 
ただ純粋に、美しいものが失われたことを惜しんでいただけのことだった。








「僕、悟浄のところにすまわせてもらうことにしました。」 
八戒がそう告げた時、煙草を挟んでいる三蔵の指先が一瞬揺れたように見えた。 
見間違いだったのかもしれない。 
その紫の瞳には何の感情も浮かんではいなかったから。 

八戒は先ほどから感じる胸の痛みをごまかすように微笑んだ。 
ゴミの収集日を覚えてないだなんて…見え透いた嘘だ。 
ただこの、強烈な光を纏う金髪の僧侶の傍から逃れたいのだ。 
このままここに居続けたら、自分がどうなってしまうかわからなかった。 
それは引き裂かれるような胸の痛みを伴うことだったが、それでもこのままこの人の好意に甘えてここに居続けるわけにはいかなかった。  

数日前三蔵によって与えられた熱と痛みは、未だに八戒の心と身体に残っている。 
これはこの先消えることはないだろう。 
ただ一度、半ば強引に奪われて自覚してしまった想いは、罪人の自分が抱くことさえ許されるものではなく、まして三蔵に伝えることなどできるものではなかった。 
あなたを愛している、などと。 
なぜ三蔵が自分を抱いたのかわからない。三蔵はその時もその後も、何も語らなかった。 
気まぐれか、哀れみか…愛情か。まさか! 
いずれにしても猪八戒として生きることを決めた自分がこの先誰かを愛する事など考えられないし、そんな感情からは遠い所で生きていきたいと願っていたはずなのに。 
自分の心に潜む闇さえもその強烈な光で圧倒する三蔵の強さを、そして抗えずただ翻弄される自分の弱さを八戒は怖れていた。


悟浄の奢りと決まり、四人でにぎやかに食事に出かけた。
三蔵も八戒も特に不自然な行動はしていないはずだが、勘のよい悟浄は二人の間の微妙な空気に気づいているようだった。 
八戒は時折自分に向けられる、気遣うような悟浄の視線を感じていた。
「荷物を取ってきます」 
寺に戻ると八戒は逃げるように執務室を後にした。 
宛がわれていた部屋に残してある僅かな荷物をまとめるために、人気のない長い廊下を進んでいく。 
部屋に入り狭い室内を見回せば、数日前の記憶が生々しく甦った。 
ここで戸惑いながらも三蔵を受け入れ、与えられる快楽に身を任せてしまった自分を思い出して羞恥に頬が熱くなった。 
八戒はその時に、それまで三蔵に感じていた尊敬や憧れの気持ちだけでない想いに気づいたのだ。 
胸をしめつけられるような痛みを伴う、あの人を愛しいという想いに。 
型破りな人だが、その偽りのない言葉や一見乱暴な行動の下に隠された優しさに心を奪われた。 
だが太陽のように光り輝き、多くの人に必要とされる人なのだ。 
自分の汚れた手が求めていい人ではなかった。 
それでもこうして傍にいれば、三蔵への想いは募るばかりで。
「三蔵さん…」 
声にだして名を呼んで、八戒は罪深さにその身を震わせた。 
やはりこれ以上ここにはいられない。  
八戒はため息をつくとゆっくりと顔を上げた。 

「!」
部屋の入り口に佇む三蔵の姿を見つけて、凍り付く。
全く気配が感じられなかったのに。 
三蔵は今まで八戒が見たことのない表情をしていた。 
怒りなのか悲しみなのか。
複雑な色を浮かべたその瞳は、まっすぐにこちらを見据えている。 
八戒は笑顔を浮かべようとして失敗した。 
まるで泣き出しそうな表情で三蔵の視線を受け止める。
「いつから…そこに?」 
八戒が消え入りそうな声で尋ねると、三蔵は不機嫌そうに目を眇めた。
「三蔵さん、というところからだ」 
八戒は睫を震わせて三蔵から目をそらした。
「人が悪いですね」  
三蔵はゆっくりと近づいて、八戒の前に立った。 
八戒は逃げることもできずにただ俯いた。 
「八戒」
「…はい」 
多分この想いを知られてしまった。 
迷惑だといわれるのだろうか。 
八戒はきつく目を閉じた。

「俺にも悟空にも、さん付けはやめろ。ガラじゃねえんだよ」 
思いがけない言葉に顔を上げると、すぐ目の前に柔らかな表情をした三蔵の顔があった。 
そんな顔をされると誤解してしまいそうだ。 
「呼んでみろ」
「…さんぞう」 
想いをこめて言葉にすれば、瞼の裏が熱くなる。  
ふと力強い手に引かれて、八戒は三蔵の腕の中に抱き寄せられた。 
法衣の目を射るような白さと、三蔵の強い煙草の香りに思わず目を瞑る。 
背中にまわされた腕の強さと暖かさが、三蔵の気持ちを伝えてくれる。 
「なぜ俺の傍から離れようとする?」 
八戒は自分の腕をそっと三蔵の背中にまわした。
「今はまだ、あなたはまぶしすぎるから」 
いつか堂々と、あなたの傍に立てるようになりたいから。
八戒はそっと三蔵の肩に顔を寄せた。 
今はこれで充分だ。 
思いを寄せることを許されただけで充分だった。




 

三蔵は執務室の窓を大きく開け放った。 
広い庭の奥に、小さな裏門が見える。 
そこで悟空がこちらに背を向けて、八戒と悟浄を見送っていた。
大きく手を振り、何かを叫んでいる。  

ふと目を上げると、夕刻までには間がある空に、漂うような白い月が浮かんでいた。 
昼間みる月は青空が透けて見えそうな程儚くて寂し気で、ついさっきこの部屋を去っていった男に似ていた。 
だがそれは、束の間見せる仮の姿なのだ。 
夜ともなれば鋭い程の輝きで闇を照らし出し、暗闇に迷う者を救う光ともなる。 
あの男もそんな強さを秘めている。
「早くその光で、俺を照らしてくれ」 
小さくつぶやくと、三蔵は窓を閉めた。  






end



昔書いた話第二弾。
“三蔵さん”は萌え心をくすぐります。
今の八戒を見るにつけ、あの頃はよかった…と、思うことがあるんじゃないか、三蔵も。
あ、もちろん今の最強八戒様も愛しています♪

お付き合いくださりありがとうございました。

(2012.3.7)




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