in the forest
お前は俺を裏切らない
そう言われたのは、あの旅の途中だった。
枯れ葉の積もった森の中の細い道、僕は前をゆく白い背中を追っていた。
空には冬の初めを感じさせる灰色の雲が切れ目なく続き、冷たい風が懸命に枝にしがみつく木の葉を揺らしている。
長安の外れの山を越えるこの道は、街道を通らずに隣りの村へ通じることのできる抜け道だ。
旅の間はこんな寂しい森の中を、この人の背を眺めながら歩くことがよくあった。
僕らの先や後にはいつもあの二人がいてくれて、単調な山道の退屈さなど感じさせないほど賑やかにしてくれていたっけ。
ここを通る時懐かしい気持ちになるのは、僕だけだろうか。
僕は一定の歩調を乱すことなく進んでゆく金の髪に目をやった。
あの旅を終え、この街に戻ってきて何度か四季が巡った。
僕らはいくつか年を重ね、悟空の背丈はどんどん伸びて去年僕らを追い越してしまった。
悟浄よりも大きくなってしまうなんて、想像がつかなかったけれど。
顔を会わせる度に得意顔で隣に並ぼうとする悟空に悪態をつきながらも、悟浄はどこか嬉しそうだ。
旅から帰って、僕は小さな部屋を借りて悟浄の家を出た。
なんとなく以前とは違う生活をしてみたくて。
数年続いた、友人とも恋人とも名付けようのない関係に一度区切りをつけたくて。
悟浄は何も言わずに、荷造りに精を出す僕を眺めていた。
悟浄は顔を合わせると、今でも時折僕を抱きしめて耳元で囁きかける。
“なぁ、いつまでアイツに義理立てする気?あんな言葉、もう覚えちゃいねえって。いい加減、オレのもんになっちゃえば?”
言葉とは裏腹に、そこに欲や熱は感じられない。
ただ、いつでも戻る場所はあるのだというように、やわらかく僕を包みこんでくれる。
裏切るってどういうことだろう。
旅の間、僕は時折考えた。
たとえば背負うものの重さに負けて旅を抜けるとか。悟浄と深い仲になるとか。
いいや、違うな。
―お前は俺を裏切らない―
それはもっと単純で、残酷なこと。
ただ、死ぬな、と言ったのだ、この人は。
生きて、傍にいろ、と。
だから僕はいつ死んでもおかしくない日々の中で、死にもの狂いで生にしがみついた。
三蔵のためならいつ命を投げ出しても構わないと思いながらも、最後の最後まで生きることをあきらめなかった。
だからこうして今、この人の後姿を眺めている。
ただ、あの言葉があったから。
きっとあれは、呪だったんだ。
相変わらず三蔵は誰のものでもなく、この世のすべての聖と魔を司るという稀有な存在として、世界の全ての人のために存在している。
僕はといえば、執務の手伝いや外出の同行、スケジュールの調整なんてまるで秘書みたいな事をしながら、未練がましくこの人の周りをうろついている。
つまりは旅をしている時と、何も変わっていないわけだ。
三蔵は時折気まぐれのように僕を相手に昔の話をしたり、月のきれいな夜には一緒に杯を重ねたり。
穏やかな時間を過ごす友人としての場所を僕にくれた。
裏切らない、と言われた僕は、ただ傍にいる幸せをかみしめながら堂々巡りを続けている。
あの呪の効力は、いつになったらなくなるんだろう。
昨夜は久しぶりに悟浄と飲みに行った。
小さなバーの丸いスツールに腰掛けて淡い光に沈む暗い紅を眺めながら、僕はバーボンを流し込んだ。
「よくやるねぇ」
悟浄は呆れたように眉を上げてニヤリと笑った。
「本当によくやりますよねぇ」
案外一途なんですよ、僕。
「あいつもうすぐ三十だろ?そろそろヤバいんじゃね?」
「ヤバいって、何がですか?」
「三十すぎても童貞だと、魔法使いになるらしいぜ」
「なんですか?その都市伝説」
「お前、何とかしねぇと」
「まぁあの人は既に、魔法使いみたいなものですけどね」
だってあの時かけられた呪は、いつまでたっても解けやしない。
「違いねえ。いつの間にか握ってるあのハリセンは、普通じゃ考えられねぇからな」
「なに、ニヤニヤしてやがる」
悟浄の言葉を思い出して笑ったら、気配に気づいた三蔵が立ち止まって振り向いた。
「すみません、ちょと思い出しちゃって…三蔵、あなたもうすぐ誕生日ですね」
三蔵は嫌そうに眉を顰めた。
「魔法がどうのこうのっていう、あれか?」
「ご存知なんですか?」
「この間、悟空が下らねえことほざきやがるから、久しぶりにハリセン食らわせてやった。悟浄の野郎、妙なこと吹き込みやがって」
「高潔で徳のあるお坊様らしくていいじゃないですか。ハクがつきますよ」
笑いが止まらない僕に呆れたように、三蔵はためいきをつくと一歩近づいた。
「お前、大事なことを忘れてるな」
「何をです?」
熱い掌が僕の肩を引き寄せた。熱を宿したきれいな紫が、ひどく間近で僕を見つめる。
この熱を、僕は知っている。
この人が魔法使いになれないことも。
「そんな昔のこと、忘れましたよ」
最高僧と罪人が過ちを犯したあの日から、多くの時が流れたから。
その獰猛な瞳も、溶けるような熱も、思いがけない優しさも、忘れようと決めたから。
そうでなければ、傍にいられなかったから。
「しがみついてんのは、俺だけか」
何年もそんな素振りを見せなかったくせに。
少し拗ねたような口調に笑ったら、不意に口づけられて息をのんだ。
「なら、また覚えりゃいいだろう」
「僕、最近物覚えが悪くって」
「年寄くせえこと言ってんじゃねえよ」
うるさい胸の音を誤魔化すために笑うしかない僕の手をとって、三蔵は自信に満ちた笑いを浮かべた。
「これから何度でも覚えさせてやるさ。とりあえず、今夜はお前の部屋に泊めろよ」
勝手な言葉を平然と口にすると、三蔵は熱い指先を絡ませたまま歩き出した。
不遜な物言いに何か一言返してやろうと思ったけれど、僕の掌をきつく掴まえて引いてゆく三蔵の横顔が少し赤いことに気が付いて、何も言えなくなってしまう。
枯葉の積もった細い道を三蔵に引かれながら、僕は胸の中で呟いた。
今までも、これからも。
僕はあなたを裏切らない。
end
森の中で抱き合うアラサー男二人に出くわしたら、クマよりこわいかもしれない。
三蔵様、お誕生日おめでとうございます。
(2011.11.29)