サイレンス
窓の外は闇に溶け込むような細い雨が降っていた。
暖を入れていない執務室は薄寒く書類をめくる指先が悴むが、慣れたことなので気にはならない。
気になるのはしばらく前からドアの向こうに感じている微かな気配だった。
冷たい雨に降られながらやってきたんだろう馬鹿な男の気配は、もう半時も動かずにそこにある。
どうせヤることは決まっているのだからさっさと入ってくればいいものを。
思わず口をついた何度目かのため息に応じるように控え目なノックの音が響いて、次いで重い扉が開いた。
しっとりと湿った髪を白い頬に数本張り付かせ、八戒は姿を現した。霧が入り込むようにそっと室内に滑り込むと、ゆっくりと後ろ手に扉を閉めてこっちを見る。
一見していつもと変わらぬ穏やかな微笑み。
だがその頬は随分と長い時間戸外を彷徨っていたように青白く冷たそうで、生彩に欠けている。
時折愚にもつかない輩が、崇拝や妄信といった感情を露わに俺に接してくることがあるが、今八戒が見せている表情はそれに似ていた。
盲信と呼べるような熱を慎重に押し隠した瞳で、執務机でペンを手にしながら見上げる俺に向かってそっと近付いてくる。
崇拝、畏怖、服従…他の者が見せたなら苛立ちを募らせるだけのものをこいつが見せるというだけで、腰の奥に熱を感じるのはどういう訳なのか。
愚かなヤツということは出会いの時からわかっていたが、いまではその愚かささえ欲情のきっかけとなるほどにこいつに囚われているということなのか。
それとも何度か身体を重ねた記憶による条件反射のようなものなのか。
「何の用だ?」
「…」
こんな時、八戒はほとんど何も語らない。緩く頭を振って唇を震わせるだけだ。
普段細々といらぬ世話をやき、小言まがいの言葉で俺を苛立たせ時にやり込める男と同一人物とは思えない。
まるで触れれば折れるような頼りない風に目を伏せる姿は普段見せる姿と違いすぎていて、そのアンバランスな感じが薄い膜ごしにこの男を見ているような奇妙な焦燥感を抱かせる。
今夜は何が起きたのか。こっぴどく喧嘩でもしたか。アイツに新しいオンナでもできたのか。
だがアイツと八戒との間に何が起きようが、自分たちの間で交わされる行為は何も変わりはないのだ。
ならばその行為までのこの時間こそが、こいつと共に過ごす意味なのかもしれない。もしこの時間に意味などあるとしての話だが。
揺れる気持ちを落ち着かせるように、ことさらゆっくりと煙草に火を点けた。
一瞬、紅い髪の男の顔が思い浮かんで羨望に似たものが頭をよぎる。
アイツのようにわかりやすく甘えさせてやれたら、どれほど楽か。
だがすぐに、ばかばかしいと内心舌打ちした。
そんな芸当俺に出来るはずがないし、自分が空っぽになるような悟浄の八戒に対する接し方を思うとゾッとする。
甘い言葉、柔らかな抱擁、激しい情交。穏やかな日常を刺激する小さな諍いや嫉妬心さえ駆使して、アイツは八戒を満たし癒そうとする。
自分の注ぎ込む優しさが、裏返ってすべて八戒の心を苛んでゆくことを知りながら。
つまりアイツは、八戒の一番欲しいものを与えてるってことだ。
アイツが垂れ流す優しさを諾々と飲み干しながら、犯した罪の重さも亡くした女への想いも忘れてしまったように八戒はきれいに微笑む。
そして密かに募らせた罪悪感に耐えられなくなったとき、この部屋を訪れるのだ。
満たされた杯を空っぽにするために。新たな傷を刻んで、自分がナニモノかを思い出すために。
随分と身勝手な話だ。
傷つけられることばかり望むくせに、こちらの差し出すものは決して受け取らない。
労りや優しさは決して受け取らず、壊されることだけを求めている。
あぁそうだ。
この時だけはこいつに必要とされているとはっきり感じられるから、嫌悪するようなこの表情も傍から見たら不毛としかいいようのないこの関係も、何にも変え難いものなのだ。
たとえこいつが俺に望むものが、こいつに傷をつけるだけのものだとしても。
それでも、それを与えられるのが俺だけだというのなら。こんな夜更けに冷たい身体を任せられるのが、この俺だけだというならば。
俺は喜んでその手を取るだろう。
それに俺にとっても、この行為は必要なのだ。
遠くない過去、愛する人を失って自らへの殺意さえ抱いた自分の弱さを、憎しみを。深い闇の中に置いてきたはずの全てのものを、俺は八戒の中に追っている。
自分達の中に潜む忌まわしいものを吐き出しあって安堵して、そうして俺たちは自分の足で歩いていける。
いや。それは愚かな自惚れで、八戒はとっくにここに欲しいものはないと気づいていて、俺に付き合っているだけなのかもしれない。
いずれにしても、アイツにそれを見透かされてるってわけだ。結局俺たちはアイツに許されてるってことなんだろう。
未だ触れ合うことさえしたことのないアイツと俺は、八戒がいるから繋がっている。
「後悔しているのか?」
今までに何度か問い掛けようとして叶わなかった言葉が、ふと口をついた。
「あの部屋から出さなければよかったか?」
罪人として留め置いていたあの部屋で鎖で繋いで自由を奪って、薬で意志も奪って飼い殺しにでもしておけばよかったか。ただ亡くした女と犯した罪だけを見つめて狂ってゆく日々を送る方が、幸せだったのか。
「…ごめんなさい」
八戒はひどく傷ついた顔をして目を伏せた。俺の言葉に傷ついたわけじゃなく、こんなことを俺に口にさせたことに傷ついたといった顔だった。
自分の弱さや醜さにもがき苦しみながら、それでもお前は、ここで生きてゆくことを選んだのだろう。
ならばアイツも俺も、それに付き合うだけのことだ。
灰皿に煙草を押し付けて立ち上がり、薄い肩を震わせたまま立ち尽くす八戒の横を素通りして寝室へ続く小部屋のドアを開ける。
「三蔵」
振り向くと、八戒が情けない顔で俺を見ていた。
そういう顔を見せるのは、ここだけにしておけよ。
いつかお前の欲しいものが罪悪感という罰でなくなったら、その時こそは俺がお前を満たしてやる。
だから今はここで、その冷えた体を温めさせろ。
end
三蔵の胸の中には、言葉にすることなく流しさっているたくさんの想いがあるのではないかと。
(2011.6.16)