オレンジ
“酒場のねーちゃんにもらっちゃった”
そう言って昨夜悟浄が袋にいっぱい持ち帰ったオレンジが、2、3個床に転がった。
きれいな色に見とれながら袋から出そうとしたら、手が滑ったのだ。
よっこいしょ、とわざと声を出して拾い上げて
滑らかなラインとひんやりした感触を確かめるように撫でてみる。
ふわりと立ち上るさわやかな香りに自然と笑みが浮かんだ。
二日酔いの朝には、ちょうどいいだろう。
そろそろあの人が起きてくる頃かな、と考えながら
まな板の上に一つ転がして、慎重に包丁を入れる。
切り口から広がる甘くかぐわしい匂い。
真横に二つに切ってから、順にくし型に切ってゆく。
スマイルカットとか言ったっけ。
まな板の上のオレンジを見つめながら
そんなふうに屈託なく思い切り笑ったら気持ちいいでしょうね、
なんてオレンジに語りかける。
ちょっと悟空のことを思い出した。
もう一つのオレンジを手に取って、スマイル作成の続きにとりかかる。
手の中で生まれてゆく笑顔。
鮮やかなオレンジを眺めながら、僕はいつの間にか
この手で壊してしまったたくさんの笑顔、たくさんの命のことを考えていた。
この手が犯した罪の重さを思うのはもう何度目だろうか。
何を以ても償うことなどできないはずなのに、僕はまだこうして生きている。
何をするために生きているのか、いつかわかる日がくるのだろうか。
それを知る時は、この命で罪を償うことができる時なんじゃないだろうか。
部屋中に広がるオレンジの香りの中で包丁を手にしながら
あの日これと同種の刃が吸った血の臭いを思い出そうとしてみたが、
うまく記憶と結びつかなかった。
人は過去の記憶よりも、目の前の強い刺激に意識を奪われてしまう。
胸の奥に刺さっているとげの痛みにさえ、慣れてしまう。
だから今、僕が生きている意味は、
きっと…
寝ぼけ顔でぼさぼさの赤い髪をかきあげながら、同居人が起きてきた。
随分と遅いお目覚めだけれど、夕べの行為を思えば仕方がないか。
気恥ずかしさと誇らしさと後悔とがないまぜになった思いで
悟浄の首筋に残る自分の痕に目をやった。
羽織っただけのシャツの胸元にもいくつも覗くその痕から、急いで目をそらす。
まぁ、僕の体にも同じくらい悟浄の痕が残っているのだから、おあいこなんだけれど。
“おはよ…。なんかイイ匂い”
“おはようございます。オレンジを切りましたよ”
いきなり背中からだきつかれて、左の頬に軽くキスされた。
昨夜何度も交わした濃厚なそれに比べて、犬がじゃれるようなかわいいキス。
“一緒にシャワーしよ?”
甘えるように耳元でささやく声。
“僕は今朝済ませましたから結構です。
ほら、早く浴びちゃってくださいね。朝ご飯食べられますか?”
“ン、これだけでいい”
そう言って長い指でオレンジをつまむと、器用に皮だけ残して口に入れた。
ぼんやりと見とれる僕に片目を瞑ると、悟浄はオレンジのような笑顔を見せる。
“昼メシは素麺がいいな”
“いいですよ”
夜はあなたがお気に入りのシチューを作りましょう。
最近見つけた、お手頃だけどなかなか美味いワインをあけましょう。
浴室に向かう悟浄の鼻歌を聞きながら、僕はまたオレンジに刃を入れる。
甘い香りとあふれる果汁が指先を濡らす。
血の臭いも感触も、もうわからない。
吹き抜けてゆくさわやかな風。今朝積んだハーブが揺れるガラスのコップ。
浴室から聞こえる柔らかい水音。
なんて穏やかな5月の朝。
こんな僕にはまるで不似合な明るい日常を、それでも僕は生きてゆく。
あの人が笑ってくれるなら。
“八戒〜、シャンプーどこだっけ?”
のんびりとした悟浄の声に
“はいはい”なんて我ながら気恥ずかしくなるような声を返しながら
僕は浴室へ足を向ける。
このままひっぱりこまれて一緒にシャワーを浴びる羽目になる確率を考えて
その高さにちょっと笑った。
end
58の日というより85?というより、リバ?
なんにしても、たまには5を甘やかす8のお話を。
(2011.5.8)