あの人のすきなもの
悟空の家庭教師のために慶雲院に足を運ぶようになって数か月が経った。
囚われの身としてこの寺にいた時は知らなかったが、長安随一を誇る寺院の敷地の一角にはよく手入れをされた庭があり、季節毎に華美すぎない花が咲いている。
この季節は椿、馬酔木に雪柳。それから何といっても梅の花。
“裏の梅林にいると思うよ”という悟空の言葉を思い返しながら、僕はひっそりと静まりかえった木々の間を抜けて行った。
すぐ傍の紅梅の枝に小さな鳥たちが集まっている。可愛らしい声で遊ぶ彼らを驚かせたくなくて、なるべく音をたてないように歩を進めた。
犯した罪の重さを受け止め償いながら生きてゆくことを許してくれた人は、どこにいるのだろう。
三蔵に会うときはいつでも、苦しくなるような胸の高鳴りを感じてしまう。もちろん素振りに出さないように、気を付けてはいるけれど。梅林の外れにひっそりと建っている東屋が目に入って、自然と足はそちらに向かっていた。そっと近付くと探し人の後姿が目に入って、僕は息をのんだ。金の髪を微かな春風に揺らしながら、その背中はピクリとも動かない。瞑想でもしているのだろうか。
「さん…」
近づいてそっと声をかけてから気がついた。
眠っている。
その整った顔を柔らかな陽射しにさらしながら、三蔵は東屋の壁にもたれてうたた寝をしていた。
いつも不機嫌そうに刻まれている眉間の皺は消えて、怖いくらい鋭い視線もうすい瞼に閉ざされて。
普段長い間見つめることなどできないから、僕はこの時とばかりにその整った寝顔を見つめた。
あの厳しい瞳が見えないことに、残念な思いと同時に安堵も感じてしまう。
あの紫を向けられると、僕の醜い本心まで見透かされそうで胸が痛くなるから。
薄く開いた唇が妙に艶っぽく感じられて、目が引き寄せられた。触れてみたいと考えて、ピクリと背筋が震える。
邪な僕の思いにも、三蔵は一向に目を覚ます気配を見せなかった。
そういえば時折、執務室で目を閉じて何か考えこんでいる姿を見かけることがあったけれど、もしかしたらあれも眠っていたのだろうか。
神経がこまやかそうな外見に反して、案外図太くて大らかな人なのかもしれない。
そうでなければ、三蔵法師などという稀有な存在になれるはずもないか。
こんなふうにこの人の新しい面を知るだけで、僕はこの上ない喜びを感じてしまう。
闇しか見ていなかった僕に、生きる道を与えてくれた人。
気が付けば心ひかれていて。
書類の整理や執務の手伝い、悟空の家庭教師に託けて、こうやってせっせとこの寺に足を運んでしまうのは、少しでもこの人のことを知りたいからだ。
こんな風に寝顔を見ることができるなんて、思ってもいなかったけれど。
「寝込みでも襲いにきたのか?」
突然の問いかけに、心臓が跳ね上がった。三蔵は瞳を閉じたまま、ニヤリと笑っている。
「そんなに見てぇなら、もっとそばに来ればいい」
僕は震える足を数歩動かして軒下に入ると、三蔵から一番離れた位置に腰を下ろした。
これくらい離れていないと、わけのわからない胸の高鳴りとぼんやりと熱を持つ頭でまともな行動がとれないのだから仕方がない。
もっと傍に寄れたら、もっと話ができたら、もっと笑ってくれたら、どんなにいいだろうとは思うけれど。
「襲ってほしいんですか?」
精一杯の冷静を装って答えを返す僕に、まっすぐな瞳が向けられる。冷たい紫水晶は数度瞬きすると、大きな欠伸を一つしてから煙草を取り出した。
「お前はそんなバカじゃねぇだろ」
「どうでしょう…でもまだ、撃たれるのはいやだなぁ」
三蔵はイヤそうに顔をしかめると、少し苛立ったような仕草で煙を吐き出した。すぐに長いままの煙草を足元で踏みつぶし、さらにもう一本火をつける。
僕はあたりの梅の花をぼんやりと眺めるふりで、三蔵の様子を目の端で見ていた。
微かな花の香りと鳥の遊ぶ声に慰められるように、不機嫌そうだったその表情が徐々に柔らかくなってゆく。
こんな風に時折二人の間に沈黙がおりることがあるけれど、まったく気にならないのが不思議だった。
そんなに長い時間をこの人と過ごしたことがあるわけではないのに。
二人の間を、少し肌寒い風が吹きぬけてゆく。
萌木色の小さな鳥が近くの枝にやってきて、ちちっと鳴いたのをきっかけに、僕は何のためにここにきたのかを思い出した。
「金天堂のうぐいす餅を買ってきたんですよ」
「そうか」
もうそんな季節か、とつぶやきながら、三蔵は紅や白の花をつけた枝々に目をやった。
季節を繊細に映し出す和菓子は、この人の好物の一つだ。しかも金天堂の甘すぎない餡が好みのようだ。
「早く行かないと、あの二人に全部食べられてしまいますよ」
「それを早く言え」
真剣な顔で立ち上がる三蔵に、思わず笑いが浮かんでしまう。
「お前は行かねぇのか?」
「僕はお店で試食させていただきましたから」
うぐいす餅に、桜餅。蓬餅に花見団子。最中、羊羹、三笠に竿物。
三蔵の好みに合うかどうか、店中の菓子を試食しまくったことは、この人には内緒だ。
我ながら手土産一つにすごい力の入れようで呆れてしまう。
「そうか、じゃあ…」
いきなり襟首を掴まれて、強く引き寄せられた。
気が付くと三蔵の唇が僕の唇に触れている。
いやそれは、触れるというよりまるで食べられてしまいそうな、熱い口づけ。
舌まで入ってきて、何がなんだかわからなくなる。うう、と声にならない呻きを上げると、いきなり解放された。
「な、何するんですかっ…!」
三蔵は湯だったように耳まで真っ赤な僕をみてニヤリと笑うと、自分の唇をペロリと舐めた。
一瞬、洋菓子屋の店先に佇む、少女の人形が脳裏を過る。
「味見だ。やはり金天堂の餡は美味いな」
お前の土産は外れがねぇと呟きながら、三蔵は背中を向けて歩き出した。
「それは…どうも…」
白い背中を見送りながら、僕は早鐘を打つ胸を押さえてつぶやいた。
それから和菓子には濃い緑茶だと思い至り、あわてて立ち上がる。
気のせいか照れくさそうに見える白い背中を、つまづきながら追いかけた。
火照った頬を、春の風が撫でてゆく。
あの人のすきなもの。
昼寝と和菓子と濃いお茶と。
もしかしたら…
end
しまった。マヨ忘れてた…。
(2011.4.28)