song of








ひどくやわらかい夢をみていた気がして、ゆっくりと目をあけた。
狭いリビングの空間を、窓から入り込んだ日差しが斜めに切り取っているのが目に入る。
冬の午後の空気は眠くなるような重さを伴って、ソファで目覚めた身体を包んでいた。
うたた寝の代償のような気怠さにため息をつきながら寝返りをすると、肩のあたりまで軽い毛布で覆われていることに気がついた。もう半時もしたら夕方の冷えた空気が漂う頃だろうか。
よく気がつく同居人のきれいな碧の瞳を思い出して思わず頬を緩めた時だった。
「!」
どこからか聞こえてきた微かな歌声に動きが止まる。
ハミングのようにはっきりと言葉にならないその微かな空気の振動は、細く開けた窓から入り込んでいた。
立ち上がって外を覗くと、洗濯物を取り込んでいる八戒の姿が目に入る。
慣れた動きは滑らかだけどどこか上の空で、時折覗く横顔は遠い場所を彷徨っているように表情が浮かんでいない。
俺は頼りない声を聴きながら、ぼんやりとその細い後姿を眺めた。


それは時々、八戒の口からこぼれる微かな歌声。
掃除をしながら食事の支度をしながら、おそらく無意識に紡いでいる調べ。
たとえば台所で食事の後片付けをしている時。
水音とかちゃかちゃと皿が触れる音に混じって途切れ途切れに聞こえてくるそれは、何年か前に流行ったラブソングで。
きっとその歌が町に流れていた頃、あいつは幸せだったんだろう、なんて思わせる。
愛する女と見つめあい、指を絡ませ口づけて。もしかしたら抱きあいながら聴いていたかもしれない曲。
幸せだった記憶を撫でるように歌うその声はとても優しく穏やかで、なのになぜだか聞いているこっちの胸が痛くなる。
取り戻せない思い出はいつもきれいなままそこにあって、八戒を傷つけることも裏切ることもない。
だからいつまでも、それをきつく抱き締めて離せないんだろう。
でも思い出は、お前を抱きしめてくれるの?八戒。
今、夕風の中で薄い背中を微かに震わせながら寂しい横顔を見せているお前を抱き締めるのは、思い出じゃなくて、この――。


「…っ!ご、ごじょう?」
そっと窓を開けて窓枠を乗り越えて後ろから抱きしめたら、腕の中の碧が驚きに大きく見開いた。
「オハヨウ」
「ああ、びっくりした。一体どこから…」
開け放った窓を目にして非難の色を浮かべた八戒の頬にチュッとキスすると、八戒は怒ったような照れたような表情で真っ赤になった。
「悟浄、ズボンのポケットに小銭が入っていましたよ」
ごまかすようにエプロンのポケットから500円玉を取り出してみせる。
「お、つり銭入れっぱなしだったわ」
煙草を買った時のつり銭を入れたまま、ズボンを洗濯機に入れてたらしい。
差し出された掌から硬貨を取ろうとしたら、八戒は一瞬早く握りしめてにっこり笑った。
「これは貯金します」
「ひっでぇ!俺の煙草代」
「少し控えたらいかがですか?」
八戒はくすくす笑いながら硬貨をエプロンのポケットに戻すと、洗濯物のつまったカゴを手に玄関のほうへ歩いて行ってしまった。

“500円玉貯金なんて、主婦くせぇの”なんてつぶやきながら後に続いて家に入ると、八戒は数日前からテレビの横に鎮座している真っ赤なブタの貯金箱を手にしている。
「主夫ですから」
さもうれしそうに笑うと、硬貨を貯金箱の中に滑り落とした。
かわいい顔で愛嬌をふりまく丸っこい陶器のブタは悟空からのプレゼントだそうで、八戒はこの赤い貯金箱がいたく気に入っているようだ。
「それにしても、なんでブタなの?」
「“八戒は豚肉好きだろ”って、悟空が」
「どーいう理由だ?それ」
「かわいいから、いいじゃないですか」
それに色もきれいだし、とつぶやいて、八戒は優しい手つきでブタの尻を撫でながら目を細めた。
「どれどれ、ちっとは貯まったか?」
赤いブタを取り上げて振ってみると、カラカラと随分軽い音がする。まだまだ先は長そうだ。
「最近悟浄が小銭を忘れてくれないからですよ」
八戒は俺の手からブタを取り戻すと、少し恨めしそうにこっちを見た。
「お前もしかして、俺の小銭だけでそのブタいっぱいにしようとしてねえ?」
「いっぱいになったら、三蔵と悟空も誘って四人で焼肉に行きましょうね」
何であいつらも?という抗議は、真っ赤な豚を抱えながら首を傾げる八戒の姿がやけにかわいかったから止めておいた。



「今日は冷えるから、お鍋にしましょうか」
八戒は微笑みながら夕飯の準備にとりかかる。
「いいねぇ。手伝おうか?」
「じゃあ、お願いします」
「さーて、今夜は何鍋にすっかな?」
エプロンをつけて台所に並んで白菜を剥がし始めたら、八戒がどこからかヘアゴムを取り出した。
ぐいと俺の髪をひっぱると、嬉しそうに一つにまとめ始める。
こいつは俺の髪に触る時、なんでか知らねぇけどいつも機嫌がいい。
だから俺も嬉しくなって、さっきまで耳にしていた歌が口からこぼれ出た。
俺の声に目を瞠った八戒は、そっと微笑んでそのまま聞き入るように目を閉じた。
俺はますます嬉しくなって歌い続ける。少し調子っぱずれなのは、ご愛嬌ってことで勘弁して。
繰り返される愛の言葉に想いをこめて。
願いをこめて。


いつかこの歌で、こいつが俺を思い出すといい。
なんて、な。





end





微妙にジェラシー悟浄。


(2011.2.5)