七草
「せり、なずな、ごぎょう、はこべら、仏の座、・・えーっと・・」
先程から何度も間違いながら、呪文のように繰り返す悟空の声が聞こえる。その度に、
「すずな、すずしろ、ですよ。」
まるで幼ない子供に教えるように優しく返す八戒の声も。
三蔵は悟浄の家の狭い居間のソファに座り新聞を眺めながら、二人のやりとりを聞いていた。
目を上げてちらっとその方を見れば、こちらに背を向けて台所に立つ二人の姿が見える。
八戒はざっくりと編んだ生成のセーターにジーンズを身につけて、その上にブルーのエプロンを着けていた。エプロンの紐を後ろできゅっと締めたその腰の細さや、まくり上げた袖口から覗く白い腕のしなやかさが三蔵の目をひきつける。
近所の人から沢山もらったという七草の山を洗いながら、春の七草について悟空に説明しているのだ。
その声はいつもながら耳に心地よく響き、きっと柔らかな笑みを浮かべているのだろう。その顔が見えないのが残念だと思った途端、八戒が振り向いた。
「七草粥は邪気を払うんですよね、三蔵?」
確かに春の七草は、早春にいち早く芽吹くことから邪気を払うといわれている。
「ああ」
短く返して、三蔵は“邪気”と言う言葉が、案外今の自分の気持ちを上手く言い表しているものかもしれない、と考えた。先程から感じる、この言いようのないもやもやした気持ちは、邪気に近いものがあるのではないか?
「で、これ今食っていいの?」
期待に満ちた顔で見上げる悟空に、八戒は小さく苦笑しながら答えた。
「このままでも食べられないことはないですけど、これは明日の朝お粥にしますね。疲れた胃腸に効くんですよ。」
「俺の胃腸はいつも元気だけど?」
「今からごちそう食べますから、明日の朝には疲れてるかも・・なんてことはないでしょうね、きっと。」
八戒は期待でさらに輝きを増した金の瞳に笑いかけた。
世間ではまだ正月気分の抜けきらないこの日、三蔵と悟空は悟浄の家を訪れていた。
訪問の名目は、“猪八戒に関する三仏神への定期的な現状報告の為”であったが、実のところは新年会。
「何か美味しいものを作りますから」
そう八戒に言われて、悟空が断るはずがない。何日も前から楽しみにしていたのだ。
そして三蔵もまた、久しぶりに八戒に会えるこの日を密かに心待ちにしていた。
それはもう、悟空以上に。
その時勢いよく玄関のドアが開いて、悟浄が戻って来た。
右手にビール箱を数箱抱え、左手には日本酒、焼酎、ワインなどなと゛酒瓶の入った袋を下げている。
「あーっ、重かったー。さみかったー。」
冷蔵庫の前に荷物をドサリと置くと、悟浄は足踏みをしながら冷えた手に息を吹きかけた。
「ちゃんと手袋をしていかないからですよ」
八戒はありがとうございましたと微笑んで、荷物を片づけ始める。
「えーっ、それだけ?寒い中買い出し行ってきたのに、なんかご褒美はねぇのかよ?」
悟浄が冗談まじりにキスを迫れば、八戒は笑って冷蔵庫に入りきらなかったビールを箱ごと押しつけた。
「どうせほとんど悟浄と三蔵で飲むんですから、いいじゃないですか。入りきらないから、外のバケツの中に冷やしてきてください。水張ってありますから。」
「外に置いたら、凍っちまうんじゃねぇ?」
「まあ、それもいいんじゃないですか?シャーベットみたいで」
悟浄はソファで二人のやりとりを面白くなさそうに眺めていた三蔵に向かってニヤリと笑った。
「おい、働かざる者食うべからずだ。三蔵サマ、行って来たら?」
「どうして俺が行かねばならんのだ?」
「ヒマそうダ・カ・ラ。」
「お客様になんてこと言うんですか、悟浄。」
八戒は用意してあった料理をテーブルの上に並べながら三蔵に微笑みかけた。
「ゆっくりしていて下さいね」
「ふん」
三蔵は八戒に射るような視線を向けて立ち上がると、悟浄の手から箱を奪い取って玄関から外へと出ていった。
「素直じゃん」
「あれは怒ってますよ」
「お前、あいつに甘すぎるぜ」
「そうですか?」
八戒は素知らぬふりで三蔵が机に置き忘れたライターを手に取ると、三蔵の後を追ってドアを開け冷たい風の吹く夕暮れの庭へ一歩踏みだした。
八戒が見たところ、三蔵はいつになく疲れていた。
年末から年始にかけて寺院は忙しく、最高僧である三蔵の仕事も普段の倍近くにのぼっていたと悟空から聞いている。さすがの玄奘三蔵も疲れ果てたといったところか。
実際、こうして顔を会わせたのは何日ぶりのことだろう?優に一ヶ月は会っていなかった。
本当は会いたくてたまらなかったのだが、八戒はそんな気持ちは露とも匂わせない。
自分の想いが三蔵の負担になることを怖れていた。
ただこうして会えて、一日だけでも仕事を離れてゆっくりと過ごせてもらえたら。彼のそんな場所になれたらそれでいいと、胸の内で願っていた。
三蔵は庭の水道の脇で、煙草をくわえて待っていた。足下のバケツの中には、缶ビールがきちんと入れられている。
「ありがとうございました。」
八戒がライターを差し出すと、三蔵はその腕ごと引き寄せて細い体を強く抱きしめた。
いつも唯我独存。傲岸な程自信に満ちているように見える三蔵だって、時には不安になることもある。
寺院での仕事は増える一方だし、三仏神からは頭を悩ますような厄介ごとばかり押しつけられるし、忙しくて会いたい人に何日も会えなかったりすれば、なおのこと。
寺を離れ悟浄と暮らし始めて数か月、少しずつ本来持っていたのであろう強さを取り戻して行く八戒の姿を見る度に、三蔵は自分の胸の中に燻る暗い炎を思い知らされた。
“三蔵、悟空、いらっしゃい。”
自分たちを出迎える八戒の瞳に宿る光が、会う度に強くなっていく。
そんな彼を見て安心する気持ちとは裏腹に、胸に沸き起こるこの得体の知れない、知りたくもない気持ち。
それは認めてしまえば、彼と共に過ごしているのが、彼をそこまで癒したのが、自分ではないということに対する嫉妬だ。こんな気持ちこそ邪気と呼ぶのだろう。
だがそれもこうして八戒を腕に抱けば、穏やかなものに変わっていく。
体中に澱のようにたまっていた濁った気が、八戒に触れている所から流れ出ていくように感じられて、三蔵はそっと息をついた
その時腕の中の八戒が、聞こえないほどの声で呟いた。
「会いたかった…」
思わず零れてしまった言葉に、発した本人は顔を赤く染めている。そんな姿を見るだけで、三蔵の胸の奥の暗い炎は吹き消されてしまうのだ。
自分の現金さに小さく苦笑しながら、三蔵は腕の中の痩身を強く抱き締めた。
「悟空が待ってますよ。」
冷えてしまった三蔵の掌を、同じように冷たくなってしまった八戒の掌がそっと包み込む。
誰かと手を繋ぐなんて、幼い頃父と慕ったあの人と以来だろうか。
触れた指先からじんわりと暖かさが戻ってくると、懐かしい面影が隣に並ぶ人と重なった。
八戒が用意した夕食は、大鍋いっぱいのおでんに鶏の唐揚げ、サラダなどなど、華美ではないが家庭的なメニューばかりだった。
到底食べ切れる量ではないと思われた料理がほとんど悟空の腹に収まり、大量に買い込んだ酒が残り僅かになる頃には、四人共かなり穏やかな気分になっていた。
最初に悟空がテーブルに突っ伏して眠り始め、めずらしいことだが三蔵が居間のソファでうたた寝を始めた。
悟浄は手荒く悟空を自分の部屋のベッドに放り込むと、上着を手に戻って来た。
「俺、ちょっと出てくるわ」
小指を立てながら、ニヤリと笑う。
「ベッドはサルに貸しちまったし、ソファはこいつに占領されてるしな。」
悟浄は眠っている三蔵を面白そうに覗き込んだ。
「きっと疲れてるんですよ。」
八戒は毛布を掛けながら、三蔵に柔らかい視線を向けた。
警戒心の強い人が、こんな風に眠っているなんて。
それほど疲れているのかと思うと心配ではあったが、それだけ気を許してくれているのだと思うと嬉しくもあった。
愛しそうに三蔵を見つめる八戒の姿を眺めながら、悟浄はそっと口元を引き上げた。
八戒を強くしているのは、三蔵を愛しいと思う八戒自身の気持ちだ。三蔵の信頼に応えようと、暗い闇に足を取られそうになりながらも前へ進もうと足掻いている。
その想いの強さが、哀しみと狂気に沈んでいた八戒の心を少しずつ強いものへと変えているのだ。
こんなこと悔しいから、三蔵には絶対に教えてやらないけど。
「ヤる時はベッドに行けよ。風邪ひくから。」
「なっ、なに言ってるんですかっ!」
真っ赤になって言い返す八戒を笑いながら、悟浄は夜の街へと出かけていった。
「おい。」
汚れた皿を洗っていると、突然背後から呼びかけられて驚いた。振り返ればソファの上で三蔵が身を起こしている。
「大丈夫ですか?」
八戒は急いで水の入ったグラスを差し出した。
受け取った三蔵はまだ目覚め切っていないのか、緩く頭を振っている。序々にいつもの強い光がもどってくるその紫の瞳に、八戒は思わず見とれていた。
「あいつらはどうした?」
「悟空は眠ってしまいましたよ。悟浄は出かけました。多分朝まで・・」
帰ってこないと言いかけて先程の悟浄の言葉を思い出し、八戒は口ごもった。赤い顔を見られないように急いで背を向け、再び洗い物に取りかかる。
そんな八戒の姿を面白そうに眺めながら、三蔵は煙草に手をのばした。
大事な人の為にコーヒーをいれる。
そんな些細なことでさえ、八戒には大切な儀式のように思われた。
丁寧に。想いをこめて。
昼間この家のドアを開けて出迎えたときよりも、三蔵はずいぶんと穏やかな表情をしている。
少しは役に立てたのだろうか。
コーヒーを差し出しながら、八戒は考えた。
「明日の朝は、一年の無病息災を祈って七草粥ですよ。」
柔らかな視線を三蔵に向ければ、美しい金の髪がほの暗い部屋の灯りを受けて少し煙って見えた。
「七草なんざ、その辺の雑草と同じだろう。粥なら寺で食い飽きてる。」
強い意志を感じさせる紫の瞳が、八戒の胸の奥を撃ち抜くかのように向けられる。
「それより、お前を食わせろ。」
思いがけず直接的な言葉で求められて、八戒は大きく目を見開いた。
自分に向けられた三蔵の瞳の中に燃え上がるような欲望を見つけ、八戒は一気に顔に熱が集まるのを感じる。
「仕様のない人ですね・・好き嫌いはいけませんよ。」
そういいながら八戒は伸ばされた三蔵の腕の中へ自ら身を預け、きつく抱きしめられると甘いため息をついた。
真っ白いシーツの波の中、八戒は三蔵から与えられる快楽に涙を流して身悶えする。
冷ややかな外見とは裏腹に三蔵はいつも激しく八戒を求めるが、今夜の三蔵はいつにも増して優しく、またいつも以上の熱情をもって八戒の体をその指で舌で酔わせた。
「もう・・さんぞ・・う」
途切れる息で呼びかけても、三蔵は愛撫の手を休めない。欲に濡れた声を上げまいと、八戒はきつく唇を噛んだ。
「声を聞かせろ。」
三蔵は噛みしめた八戒の唇を指でなぞり、開かせる。
「でも・・悟空が・・」
「あいつなら、朝まで起きねぇ。」
「ぁ・・あぁ・・ん・・」
一度気を許してしまえば、甘く切ない声は止めることも出来ない。八戒は溺れる者のように、三蔵の背に縋った。
八戒の唇からもれる声が、涙に濡れる翠の瞳が、三蔵の欲望を煽った。久しぶりに触れた痩身は変わらずに清らかでそれでいて艶かしく、三蔵を夢中にさせる。
細い体を折り曲げてまだ触れていない後ろを探れば、八戒は待っていたかのように震え艶やかな声を漏らした。
そんな様を見て、三蔵はそっと笑った。
「どうしてほしい?」
「・・あなたを・・ください。」
羞恥に消え入りそうな声で八戒が答えると、三蔵は八戒の頬に流れる涙を舌で掬って瞼に口づける。
そしてゆっくりと八戒の中へと押し入りながら、僅かな苦痛と快感の声を熱い口づけで奪った。
疲れているのだから無理をしないでとか、悟空が起きてしまうかもしれないなどと気にかかることはあるはずなのに、与えられる快楽に溺れ何も考えられない。
聞こえるのは二人の息使いと淫猥な水音と、切なげに互いの名を呼ぶ声だけで。
最奥まで貫かれ、三蔵の背にまわした手の爪がくいこんで傷痕をつけていた。
快感に震えるその声を姿態を表情を余すところなく見届けようと、三蔵は熱い視線を向けている。その視線を感じるだけで八戒の体中を熱い塊が駆け回り、解放を待ちわびて大きく脈打つのを感じた。
もう息をするのさえ苦しくて、八戒は涙に濡れた瞳で三蔵を見上げた。仰ぎ見た紫の瞳も情欲に濡れていて、同じものを欲していることが感じられた。
「あっ・・さ・・んぞ・・」
「・・っ!」
二人は指を絡め合って共に果て、ベッドに沈んだ。
先に身を起こした三蔵は、強すぎた刺激に気を失ってしまった愛しい人の姿を眺めた。
白い肌のあちらこちらに自分のつけた朱の跡が、花びらのように散っている。汗に濡れて額に張り付いた髪をそっとかき上げてやれば、長い睫を震わせて碧の瞳が覗いた。
「大丈夫か?」
「ええ・・」
掠れた声で八戒が問い返す。
「あなたは?」
紫の瞳が不敵に笑った。
「こんなもんじゃ、足りねぇな。」
八戒は大きく目を見開いた。身を起こそうとして力強い腕に捕まえられ、再びベッドに沈みこむ。
僅かの抵抗と抗議の声も欲望に火をつけるような三蔵の口づけに奪われて、再び体中に熱を感じ始める。
結局何度繋がったかわからない。深く愛を確かめ合いながら夜は更けていった。
翌朝、悟空は鼻をくすぐるいい匂いに、幸せな気持ちで目を覚ました。
大きな瞳をぱっちりと開けてベッドから飛び降りると、勢いよく部屋のドアを開ける。
リビングには眩しいほどの朝の光が射し込み、その光の中で神々しいまでにその金の髪に光を集めながら、三蔵が座っていた。傍らでは穏やかに微笑みながら朝食の用意をしている八戒の姿。
「おはようございます」
八戒の声に三蔵が目を上げた。
「おはようっ!三蔵、八戒。」
二人は夕べ悟空が見たときより、穏やかで満ち足りた顔をしていた。
そう、まるで体の中の不安や淀んだ気持ちが消え去ったような、清々しい表情。
そんな二人を見ていると、どこからか悟空も嬉しい気持ちがわき起こってくる。
「あっ、もしかして、もう七草粥食べちゃった?」
「まだですよ。どうしてですか?」
八戒が首を傾げて問い返す。
「だって二人とも、なんだか清々しい顔してるから。」
三蔵と八戒は顔を見合わせた。
まだ寒い早春にいち早く芽吹き、邪気を払い人に優しく働くという七草。
互いが互いのそんな存在になれたら、素敵でしょうね。
八戒は、三蔵の横顔に目をやりながら微笑んだ。
「八戒、俺、もう腹減って死にそう。」
悟空の声に慌てて台所に向かいながら、まだ八戒は微笑んでいた。
春はもうすぐですよ。
end
ファイルの整理をしていたら、昔書いた話が出てきました。
自分の文章の拙さと八戒の白さにびっくり(笑)。
いろいろとお恥ずかしいものですが、これはこれでよい思い出ということで。(自己満足)
お付き合いくださりありがとうございました。
(2011.1.17)