流れ
さらさらと、その音は続いていた。
木立に覆われた頭上から仄かに落ちてくる月の光を頼りに進む悟浄の耳に、それはまるで自分を呼んでいるように聞こえていた。
規則的に続くその音は川の流れる音だ。
“近くに川がありました”
この場所に今夜の居場所を決めた時、碧の瞳の男が言っていた。今悟浄は、その男を探している。
暗闇になれてきた目を凝らして、悟浄はゆっくりと歩を進めた。
目を覚ますと、運転席に八戒の姿がなかった。
寝入ってからどれほどの時間がたったもんか。悟浄は天にかかる月に目をやって、自分がほとんど眠っていないことを確かめた。
おそらくあいつは、眠れなくて夜の森をぶらぶらしているのだろう。野宿の時一人で出歩くのは、もうあいつの癖みたいなもんで諦めているけれど、この間みたいに崖の上に突っ立ってるのは勘弁してほしいもんだ。
悟浄は落ち着かない気持ちでポケットの煙草を探った。
隣の席の小猿と助手席の最高僧は、深い眠りに落ちている。
無理もない。今日の闘いは、随分と激しかったから。
この森にさしかかった途端待ち伏せしていた敵に襲われて始まった戦闘は、日が傾き夕風が吹く頃になってやっと決着がついた。倒しても倒しても襲ってくる妖怪の数はハンパじゃなくて、それはそのまま目的地である敵のエリアに深く入り込んでいるという証でもあるわけから喜ばしいことなのだが。
4人とも大した怪我はなかったが疲労がひどく、とても夜間にジープを走らせて次の街を目指すことは無理だった。
森中に点々と散らばる敵の亡骸を避けて夜営をする場所を決めたのだが、今でもまだ辺りに血の臭いが漂っているような気がする。いやそれは、自分たちに染み付いているものかもしれなかった。
水の音が、徐々に近くなってくる。
一定のリズムで流れる川の音に混ざって、時折不規則な水音が聞こえてきた。バシャっと水面を叩くような音、流れに逆らってかき乱すような音。
突然目の前を覆っていた木立が途切れ、視界が開けた。
空には三日月がかかり、その頼りない光を受けて小さな川が目の前を横切っている。その流れの中に立つ男の姿を捉えて、悟浄は目を瞠った。
すらりと伸びる白い背に月の光を浴びて、水の中に立ち尽くす痩身。
八戒は一糸まとわぬ姿で腰まで水の中につかりながら、ぼんやりと立っていた。
俯き加減の視線は水面を漂い、はっきりと焦点を合わせていない。まるで心だけどこかへさまよっているような、空ろな表情に悟浄は息を呑んだ。
声をかければこのままかき消えてしまうのではないかという、奇妙な恐怖がこみ上げる。
八戒はゆっくりと水面に腕を広げて水を掬い上げると、そっと腕や肩のあたりにかけ始めた。まるでをその身にまとわりつく全てのものを流し落とすように、何度も水を掬っては、腕から肩、背、わき腹を通って腹から胸へと掌でなぞってゆく。肌を辿る腕の動きが白い蛇のように艶かしくて、悟浄は息をするのも忘れて見入っていた。
と、細くてきれいな指先が、胸の辺りで動きを止めた。
ゆっくりと自分の左胸に視線を落とした八戒は、水をすくい上げてその場所にかけた。もう一度掬い上げて胸を濡らす。もう一度。もう一度。
八戒は痛みを耐えるようなため息をもらして、小さく眉をひそめた。そこに数日前に受けた傷があるのだと、悟浄はやっと気がついた。
「八戒っ」
ぬれるのもかまわず川に入ると、悟浄は八戒の肩をつかんだ。
「また傷口が開いたのか?どうして言わねぇんだよっ」
夜の水の冷たさと、それ以上に掌から感じた八戒の身体の冷たさに悟浄は身震いした。
「ごじょう」
八戒は一瞬驚いたように目を瞠った後、ゆるりと微笑んだ。
「血の、においが、消えなくて…」
見れば左胸を横切るように刻まれた傷からは、新しい血がじわりと滲み出ている。
「今日はたくさん浴びてしまったから、我慢できなくて洗い流そうと思ったんですけど…」
まるで幼子のようにたとたどしい口調は寒さのせいなのだと気づいて、悟浄は冷たい背中を抱きしめた。
「なんてことはない、僕の血のにおいだったんです。悟浄…」
深く底の見えない瞳で、八戒は川の流れに目を向けた。
「ぼくの血は、どこまで行くのでしょう?」
「そんなことどうでもいいから、とりあえず水から出ろって」
ぼんやりしている八戒を川からひきずり上げると、悟浄は脱ぎ捨ててあった八戒の衣類の中にタオルを探し出した。
本当に手のかかる美人さんだ。でもそんなトコロが、たまらないんだけどね。
悟浄は胸の中で苦笑しながら、タオルで八戒の身体を拭ってやった。
数日前敵の刃で切りつけられたという傷は、白い肌の上で赤黒く引きつっている。
その痛々しさに悟浄は思わず舌打ちをした。
されるがままだった八戒は、胸の傷に悟浄の視線が注がれていることに気がつくと、急に目が覚めたように顔を上げた。
「あぁ、すみません。あなたまで濡れてしまって」
もう大丈夫というように微笑んで、八戒は胸の傷を隠すように身を引いた。
それは自分の血で悟浄が汚れてしまうのを避けるためだったのかもしれないが、悟浄には別の意味があるように感じられた。
治りかけては何度も口を開き血を流すその傷は、まるで八戒の胸の中で今も疼き続けている傷のようだ。
その傷が八戒にとって厭わしいだけのものでないことに、悟浄は気付いていた。
時折、そっと。それこそ愛しい者を撫でるように慎重に記憶という傷をたどる八戒の横顔は、息を飲むほどきれいだから。きっと大切に抱きしめて、ふさぐつもりなどないのだろう。
悟浄は八戒の身体を引き寄せると、強く抱きこんだ。ごじょう、と少し困ったように腕の中で八戒が呟く。
白い胸に刻まれた傷にそっと舌を這わすと、抱え込んだ細い身体がふる、と震えた。
舌に残る血の味に、悟浄は小さく眉をひそめる。
「治せねぇの?」
それとも、治すつもりがないの?
「自分のことは、なんとも…」
そういって八戒は小さく頭を横に振った。
気の流れを操って他人の傷を治す力を持ちながら、自分自身を癒す力は持たないのだという。人でないものになって得た力は、すべて他人に与えるためのものなのだ。
「コレ、外してみたら?」
悟浄は左耳のカフスにそっと指を伸ばした。
鈍く光る冷たい金属を外せば、八戒の回復力は一気に増幅する。こんな怪我など、たちどころに治してしまうに違いないのに。
「こんな所で外したら、あなたを襲ってしまうかもしれませんよ」
冗談めかして笑う八戒の声の中にうっすらと怯えに似た響きを感じて、悟浄の眉が小さく上がった。
「お前に襲われるなら、いつでも大歓迎なんだけど?」
艶っぽい話にすりかえると、悟浄は指先をカフスから耳の後ろへ滑らせた。覚えたての八戒の弱いトコロを狙って、煽るように髪をかき回す。
八戒は笑いながら悟浄の指を捉えると、ゆっくり自分の口許に導いた。
目を伏せて愛しそうに悟浄の指先にキスをすると、ゆっくりと舌を這わせ始める。
「じゃあ、ご要望にお答えしましょうか」
上目使いに囁かれ、指先を温かい口中に含まれただけで途端に熱を帯びてしまう自分の身体に苦笑いしながら、悟浄は八戒の髪にキスをした。そのまま空いている方の手で緩く髪を引くと、八戒は名残惜しそうに指を解放し、欲を宿した瞳で悟浄を見つめる。
「傷なんて、いつか治してみせますから。今は悟浄…温めて」
僕の胸の中までも―― そう、聞こえた気がした。
帰り道は手を繋いで歩いた。
身の奥で燻る熱はいくら吐き出しても尽きることはなくて、二人してきりがないと笑いながら未練の残る身体を離したのは少し前。絡みあった指の強さが同じなのは、二人とも同じくらいの愛おしさを感じているからだといいと思う。
「川は海まで流れてるんだろ。だったらお前の血は、きっと海まで流れて行くんだって。だって昔見た夕暮れの海は、血の色みたいに真っ赤だったぜ」
隣で八戒が目を瞠る。
「悟浄は海を見たことがあるんですか?」
「昔ブラブラしてた頃に、ダチと行ったことがあってさ」
生きる目的も喜びも、誰かを愛するなんてことも、考えもしなかった頃に。
「いいですね。僕は知識でしか知りません。永遠に満ち引きを繰り返す波は、きれいなんでしょうね」
まるで憧れの人を想うような声で、八戒は囁いた。
限られた場所で生きてきた八戒の行動範囲は、実は悟浄が驚く程に狭い。
「でもこの辺りの川は、砂漠の中の湖に続いているのかもしれませんよ。もしかしたら、砂漠の中で消えてしまうものもあるのかも…」
八戒は隣で考えこむように首を傾げた。
「じゃあ、見に行こうぜ」
「何をですか?」
「この旅が終わったら、二人で海に見に行こう。お前の血が、ちゃんと流れ着いているか」
きれいな夕日を映して、血のような紅に染まった海を。
「それじゃあまるで、口説いてるみたいですよ」
くすくすと笑う八戒の唇を素早く盗んで、悟浄は片目を瞑ってみせた。
「口説いてるのよ、八戒さんを」
本当はいつだって、口説きたいんだってわかってよ。
こんな旅なんか今すぐやめて、俺のことだけ見ていて。なんてね。
ジープを停めてある場所まで戻ると、三蔵も悟空もぐっすりと寝込んでいた。
その暢気な寝顔に声を潜めて笑いあいながら、二人とも手早く濡れた服を着替えた。
「海に行くのなら、早くこの旅を終わらせなければいけませんね」
「そーいうこと。さっさと敵さん倒して、渚でランデブーよ♪だからとりあえず、早く寝よ」
くすくすと笑いながらジープに乗り込んだ八戒が、後部座席を振り向いてそっと身を乗り出した。
「そのまえに、悟浄」
「なに?」
極上の微笑みに見とれた隙に、ぐいと引き寄せられて目を瞠る。
“ハッピーバースディ”
囁きと同時に、頬に柔らかいキスが落ちてきた。
end
誕生日だろうがなかろうが容赦なく世話を焼かせる八戒と、
至上の喜びを感じながら世話をやく悟浄は、
やはりベストカップルなんじゃないかしらと改めて思いました。
お誕生日おめでとう、悟浄。
(2010.11.9)