月夜―悟浄
月のきれいな夜だった。
皆が寝静まったジープの上で、八戒は小さくため息をついて満月まであと僅かの月を見上げていた。
この日が終わるまであと少し。
知らないふりをしてやり過ごしてしまえばいいのに…。
やっぱり今年も無理そうだ。
諦めたように小さく笑うと、よく眠っている様子の三人に目をやって八戒はそっとジープを降りた。
野宿をしている森を抜けると、突然目の前が開けてかなりの高さの崖の上に出ることを、夕方このあたりで水場を探して歩いた八戒は知っていた。
崖の向こうに広がる濃紺の空の高い所に、澄んだ丸い月がかかっている。
微かに虫の音が聞こえるだけの静けさの中、雲ひとつない夜空に降るように瞬く星と冴えた月の美しさにのまれたように立ち尽くしていた八戒は、やがてそっと崖の淵へと歩を進めた。
足下を覗き込むと深い闇が見えた。
月の光も届かぬ程深い谷の底には、何があるのだろう。
強い風が吹き上がってきて、額にかかる髪を激しく揺らす。
冷たい風が心地よくて、八戒は目を閉じた。
一歩踏み出せばこのまま風に乗ってこの夜空を飛べそうな気さえするが、実際はあの闇の中へ堕ちてゆくだけだ。
真っ暗な闇が自分を呼んでいるようで、八戒はもう一度崖の下を見下ろした。
あそこで呼んでいるのは、彼女かもしれない。
共にこの日に生を受けたひと。
一人此処に残ってしまった自分を、彼女はきっと待っている。
旅に出て以来、命の保障などない毎日だけど、敵の襲撃は近頃さらに激しさを増していて、身の危険は今までになく高まっている。
気を抜けば命を落とすかもしれない緊張感と目的地に近づいている高揚感のせいか、皆のテンションが高いのが救いだと思う。
おかげで、自分の気持ちも随分紛れている。
だが夜更けに一人でこんな場所にたたずんでいれば、死に心が触れてしまうのも仕方がないのかもしれない。
八戒は薄く笑うともう一度身を乗り出して、足下の闇に語りかけた。
今はまだ死ねないけれど。いつか、其処にいくから。
どうかもう少し、待っていて。
「うっわ!すげぇガケ」
「!」
突然、強い力で背後から抱きしめられた。
驚いて振り向くと、紅い瞳がすぐ目の前でニヤリと笑っている。
まるで死に心惹かれる八戒の目を醒まさせるように、風に煽られた紅い髪がばさばさと強く頬に当たった。
「ご、じょ…う」
呆然と見つめる八戒の身体ごとさらに崖の際まで身を乗り出して、悟浄は足元の闇に向かって小さく口笛を吹いた。
「足すべらせたら、マジ、ヤバそう」
そう口にしながらも、半歩踏み出せば確実に谷の底へ真っ逆さまというその場所から少しも動こうとしない。
腕の中に八戒を閉じ込めたまま、吹き上がってくる風に動じることなく闇に目を凝らしている。
「下に、何かあんの?」
「いえ…」
彼女がいるような気がして、とは言えなかった。
闇に向けられていた紅い瞳がふっと戻ってくると、八戒に向かってゆるりと微笑みを形づくる。
「一緒に飛んでみる?」
「!」
「お前が飛びたいんなら、俺も一緒に行ってやる」
耳元で、ひどく甘い口調で囁いた。
ずるい人だ。
そんなことを言われたら、この場所に近づくことすらできなくなる。
こうやって八戒の腕を引き戻すのは、悟浄の習い性のようなものだ。
そう遠くない雨の夜、八戒はこの優しさに何度も此処に引き戻された。
何も言わずにただ傍にいることで。時にはこんな風に温かい腕で抱きしめることで。
ある日気がつくと、雨は怖いものではなくなっていた。今ではもう、雨に濡れても惑うことはない。
そうして同じだけの時間をかけて、彼女と過ごした日々が、彼女を失ったことが、過去のことになっていった。こうやって一人だけで歳を重ねてゆくことを、受け入れられるようになってしまった。
「あなたと心中なんて、いやですよ」
「あ、やっぱり?」
悟浄はニッと笑うと、腕の中に八戒を掴まえたまま慎重に後ろに下がった。
八戒の身体を崖から遠ざけるように入れ替わると、今度は自分が濃紺の空と月を背に崖の淵に立つ。
「八戒」
「はい?」
「キスしよっか」
月明かりの下で、悟浄は柔らかく目を細めた。
「キス、ですか?」
「なんなら、それ以上のことも」
月の光に悟浄の頬が白く光って、まるで涙が光っているように見える。
「僕たち、そんな仲でしたっけ?」
「今からそうなるってのは、どう?」
「どうしたんですか、急に」
「んー…なんでだろ?」
「思い出作りとか言ったら、ぶっ飛ばしますよ」
八戒の物騒な言葉に苦笑いすると、悟浄は肩をすくめて降参するように両手を顔の横に上げた。
「死んだやつには勝てねぇから、生きてるモンにできることをしようと思って」
「それがキス?」
「と、その続き」
悟浄は艶っぽく片目をつぶってみせると、半歩後ろへ下がった。
「してくれなきゃ、俺が飛んじゃうから」
あとほんの僅かでも後ろに下がれば闇に落ちてしまいそうな場所で、悟浄は平然と笑った。
「…脅迫ですか」
「これでも一応、必死なんだけど?」
そういえば悟浄は、高い所が苦手なはずだ。それなのにこんな危うい場所で、この人は…。
八戒は呆れたようにため息をついて見せた。
悟浄はポケットから煙草とライターを取り出すと、強い風に眉をひそめながら火をつけた。
目を伏せて唇に銜えた煙草を味わいながら、器用な指の動きでライターを弄ぶ。
煙草が半分の長さになるまで、八戒はただ、長い指が煙草を唇から指先へ、また唇へと運ぶさまを見つめていた。言葉にされない悟浄の想いが吐き出される煙に混ざっているような気がして、闇に溶けてゆく煙を追っていた。
この人は煙草を吸うその動きだけで、この胸の中にどれほどたくさんの火を灯してきたかということを知っているのだろうか。
指を伸ばせばすぐに触れることのできる距離にいながら、燻るような熱を押さえ込んできたこの想いを。
八戒は波立つ気持ちを静めるように、強く胸を押さえた。
今まで驚くほどの自制心と忍耐力で保ってきた二人の関係を、今になって揺さぶるなんて。
そんな、恋をしているような瞳で無防備に笑うなんて。
反則じゃないか。
その時。
谷を渡ってきた風が強く吹き抜けて、目の前の紅い髪がふわりと揺れた。
思わず差し出した腕は強い力で捉えられ、そのまま温かい胸に抱きしめられる。しなやかな腕の強さを背中に感じながら、八戒は息を呑んだ。
風が耳元で音をたてて吹き抜けてゆく。
そこに感じる馴染みのない匂いは、この森を抜けると広がっているはずの、乾いた大地の匂いなのだろうか。
遠い場所まできてしまったことを思い知らせるように、風は立ち尽くす二人にまとわりついて嫌でも八戒に気づかせようとする。
あぁ、そうだ。
自分たちに残された時間は、思っているより短いのかもしれない、と。
その時がきたらこの人は、きっと僕なんかよりずっと思い切り良く飛んでしまう。
未練なんか欠片も見せずに、笑いながら真っ先にゆこうとするのだろう。
八戒は爪が食い込むほどに強く両の掌を握り締めた。
自分の心を捉える者は、なぜ恐ろしいほどに潔いのだろう。
差し出した掌のほんの僅か先で、彼女は逝ってしまった。懇願も涙も、何の力もなかった。
でも。
届かなかった、救えなかったこの掌で、まだ何かできるのだとしたら。
無力な汚れたこの掌が、今ならこの人を繋ぎとめることができるのだとしたら。
僕は――。
八戒はゆっくりと顔を上げると、目の前の紅い瞳を捉えた。
「あなた…わかっているんですか?この手に掴んでしまったら、僕は二度と離せないってこと」
「ああ、わかってる」
悟浄は宥めるように八戒の髪を撫でると、そのまま首筋に顔を埋めた。
「しつこいんですよ、僕」
「知ってる」
悟浄は笑いながら、甘えるように押しつけた頭をぐりぐりと動かした。
頬に髪が当たってくすぐったい。八戒は笑いを堪えながら囁いた。
「どこまでも追いかけていきますよ」
「うん、嬉しい」
「…バカ」
頬を染めた八戒の首筋を撫でるように上ってきた悟浄の唇が、キスの手前で動きを止めた。
間近で見る紅い瞳に、見たことのないひたむきな光を見つけて胸が熱くなる。
そっと触れたのは一瞬で、すぐに口づけは深くなった。
あとはもう腕の中の熱だけが、世界の全て。
吹き抜ける風と銀の光を浴びながら、八戒は祈るように目を閉じた。
この掌に何ができるか。
見ていて、花喃。
end
遅くなりましたが、
八戒さま、お誕生日おめでとうございます。
(第二弾)
ブラストから始まるならば、この二人はこんな感じでしょうか。
ちょっと遊びのつもりで書いたら、38よりも長くなってしまいました。(汗)
相変わらず捏造度が高くてすみません。
(2010.10.22)