灰月







「じゃあ、こうしよっか」

狭い酒場にアルコールと煙草の臭いが満ちている。
酔い交じりの男たちの笑い声とグラスのぶつかる音が混ざりあうざわめきにかき消されて、かけられた言葉がひどく聞きづらい。三蔵は軽く眉をひそめて睨みつけるように目の前の男に目をやった。
「今日はオレが注ぐから、三蔵サマが、飲み干す」
場末の猥雑な喧騒を楽しむように紅い瞳を輝かせた男は、三蔵が手にしているグラスに勢いよくビールを注いで笑った。



長安からさほど遠くない街にある寺で行われた法要に断りきれずに出向いた三蔵は、帰り道、慶雲院まであと少しといった街角でこの男に掴まった。
まるで待ち伏せしていたようなタイミングで現れた悟浄の誘いを断らなかったのは、ただ単に喉が乾いていたのと、厄介な義務を片付けた解放感からだった。
まだ日が暮れきってない時間だったが、既にほとんどの席が埋まっている地下の小さな居酒屋のカウンターに陣取り、冷えたビールを流し込む。一日の疲れを忘れる一杯を味わう相手がこの男なのを差し引いても、この状況は悪くないなどと考えた。

三蔵のグラスが空いたのを見計らって、右隣りに座った悟浄がすかさず瓶を手にして注いでくる。
グラスの縁からよく冷えたビールが溢れそうになって、三蔵は慌てて口をつけた。
「さっすがぁ、いい飲みっぷり!」
グラスのほとんどを飲み干して見せると、悟浄は嬉しそうに目を細めた。
こんなふうに酌をされるのは珍しいことで、妙に落ち着かない。
寺で飲む時は自室で一人だし、たまに悟浄の家で飯を食う時も各々自分のペースを崩さない奴らの集まりだから、当然手酌だ。たまに気を利かせた風に八戒が酌をすることがあるが、それは大抵ロクでもないことを切り出す前触れだから、うかうか飲んでるとひどい目にあう。
「てめぇは飲まねぇのか?」
飲み始めて数分たっても、悟浄は自分のグラスにほとんど口をつけていない。目の前に置かれている突き出しの小皿に手を伸ばすこともなく、煙草をふかしながら三蔵がビールを飲む様子を眺めている。
まるで三蔵のグラスを満たすことを楽しんでいるようにもみえる。
もしかしてからかってんのか?嫌がらせか?
酔い始めた頭で考えてみたが、自分に向けられる瞳からはどう邪推してもそんな気配は感じられない。
仕方ないと悟浄の前に置かれた瓶に手を伸ばしたが、一瞬早く取られてしまい滑らかな動きでまたグラスを満たされる。
きれいな琥珀色が溢れて、今度は三蔵の指を濡らした。

「注ぎすぎだ」
グラスを置いて不機嫌に濡れた指先に目をやる三蔵に、悟浄はおしぼりを差し出した。
小さな舌打ちと一緒に受け取って指を拭う三蔵を、悟浄は上機嫌に眺めている。
「注ぎすぎると溢れるんだよな」
カウンターに頬杖をつきながら、悟浄は三蔵のグラスを顎でさした。
「そうなる前に飲んでやらねぇと…」
縁まで満たされ精一杯張り詰めたように見える琥珀色を見つめながら、悟浄は歌うように呟いた。
「溢れると、どうなっちまうと思う?」
ナニ言ってるんだと口にしかけて悟浄の言わんとすることに思い至って、三蔵は無言で悟浄の顔を睨みつけた。
奇妙に静かな表情の紅玉が、じっと溢れそうなグラスに向けられている。
今日はなぜ、そんな透明な目をしている?いつもの乾いた視線はどこへ行った?
「てめぇが注がなきゃいいだけの話だろうが」
三蔵は目の前のグラスを手に取ると、一気に空けた。
悟浄の思惑に気づいてしまったせいか、急にビールの苦味を強く感じる。
「目の前のグラスが空いてたら、注ぎたくなるのが人情ってもんでしょ」
グラスを置く間もなく悟浄がすかさず注ぎ込んだビールは、三蔵の指を濡らして伝い落ちカウンターの上に広がった。
「もう空じゃねぇか。ピッチが早すぎんだよ」
三蔵は濡れた掌には構わずに、悟浄の右手の瓶を睨みつけた。
「いいんじゃねぇの?また頼めばサ」
“おねーさん、もう一本ね!”と愛想のいい声を上げて、悟浄は空の瓶を揺らして笑った。



悟浄が零れたビールを拭っているうちに、すぐに次のビールが運ばれてきた。
半分ほどしか空いてない悟浄のグラスに、今度は三蔵が溢れるほどに注いでやる。
「てめぇが飲めばいいだろう」
あいつには、俺が注いでやるから。
そう言いかけて唇を歪める。
いや…俺にそんなコトができるわけがない、か。
三蔵は思わず苦い笑いを浮かべた。

以前からおかしな奴らだと思っていたのだ。
欲しいモノには貪欲に手を伸ばすくせに決して満たされたくない男と、そいつのために優しさを惜しみなく注ぎ込む男。
勝手にやってる分にはどうでもいいが、こっちに害が及ぶのが困りものだ。
限界を超えて注がれた男は、ある時満たされすぎていることに気がついて、慌てふためいて三蔵のところにやってくる。三蔵の傍らで身食いするように忘れかけていた自分の罪を掘り返し、新たな傷を抉っては安堵して戻ってゆく。
まるで三蔵が罰を施してやっているかのように。
確かにあの男のために自分ができることは、せいぜいがそんな所なのだろうが。
亡霊でも見るような瞳で自分の腕にすがりつく八戒の指の白さやその身の冷たさ、それが自分の与えるもので徐々に高まり熱を帯びてゆく様を思い出して、三蔵は奥歯を噛み締めた。
ああやってあの男は日々埋没してゆく悲しみや後悔や絶望をたぐり寄せながら、一方で治りきったと信じていた三蔵の古い傷口をそろりと探り爪を立て、曝け出せとねだるのだ。しかも、無意識に――。全くタチが悪い。


今日はやけに酒の回りが早いと感じながら、三蔵は目の前のグラスの中で静かに消えてゆく気泡にぼんやりと目をやった。
何で自分はこんなコトに巻き込まれているのか。
溢れて苦しいなら、それはつまりシアワセじゃないのだから、八戒にとっては願ったり叶ったりなんじゃないのか。
そもそもコイツが注いでるものは、本当に優しさなのか。
とりとめなく思いを巡らせかけた、その時。

「!」

いきなりカウンターの下の狭い隙間で、右手を取られた。
硬直した自分の掌に絡みついてくる乾いた指の感触に、三蔵は身動きもできず息をのむ。
「ヒドイ顔してるぜ、三蔵」
耳元で囁かれ、こめかみが痛むほどに頭に熱が上り、強く奥歯を噛み締める。
右頬にじりじりするような強い視線を感じて、目を合わさないように正面の棚に並んだグラスを睨みつけた。
「誰のせいだ」
「さぁてね」
悟浄は何事もないように、空いている方の指先で灰皿に灰を落とした。
「…物好きだな」
嫌味のつもりの言葉が震えてしまう。掴まれたままの掌もきっと震えている。
「オレはさ、楽しいコトしか、しねぇのよ」
三蔵の震えに寄り添うように、悟浄は穏やかに笑った。
「楽しいのか?」
こんな状況が。
果てなく欲しがるあの男に注ぎながら、俺にまで注ぐつもりか。
お前は枯れることがないのか。むしろそれが望みなのか。
なら、俺の想いは誰が飲み干す?
胸の内で呟きながら隣に視線を向けると、紅い瞳が優しく緩んで三蔵を見ていた。
ゆっくりと掌を引くと、繋がれた指先はまるで縋るように一瞬力を増して、離れていった。



馬鹿馬鹿しい。こんなコトで思い通りになると思うなよ。
「こんなもんばっかり飲んでいられるか!」
三蔵は舌打ちと一緒に吐き捨てると、通りがかった店員に冷酒を言いつけた。
ガラスの徳利で運ばれてきたのは悪酔いするためにあるような安っぽい酒で、三蔵は互いの杯を満たして一口飲むと、同じく一口で顔をしかめている悟浄に向かって徳利を傾けた。
「今度はてめぇの番だ」
悟浄は拒むことなく注がれた酒を飲み干した。
「三蔵サマにお酌してもらえるなんて、ちょーレアじゃね?」
自慢しちゃおう、と嬉しそうに笑う悟浄の杯にさらに注ぎ込む。
あぁ、自慢しろ。そして八戒に嫌味の一つも言われればいい。
三蔵の意図を察しているのかいないのか、悟浄は楽しげに杯を重ね、追加した酒もほとんど一人で飲み干した。
「飲みすぎだろォ…ンなに飲めねぇってぇ…」
「俺の奢りだ。遠慮するな」
呂律が怪しくなりながらも三蔵の酌を受けていた悟浄は、しばらくするとカウンターに突っ伏して眠ってしまった。


三蔵は支払いを済ませると、悟浄を残して店を出た。
ざまあみろ、明日の朝は宿酔でもすればいいさ、と口元を引き上げながら地上への狭い階段を上ると、外はすっかり暮れていて、街は宵の口の賑わいを見せていた。
見上げると空には群青が下り、薄い雲間に白っぽい月がぼんやりとかかっている。
三蔵は仄かな月の光を眺めながら、数日前に悟浄の家に立ち寄った時目にした光景を思い出した。
突然訪れた三蔵と悟空のために楽しげに台所に立つ八戒と、その傍らで文句を言いながらも慣れたふうに立ち働く悟浄の様はまるで新婚夫婦のようで、思い出すだけで笑ってしまう。
悟浄が耳元に何か囁くと、八戒は柔らかく微笑んだ。淡い日差しの中で見るその笑顔は、憂いも後悔も知らぬ者のような、ひどくきれいな微笑みだった。
ああやってあの男は、音もなく注がれ満たされてゆくのだろう。
そしてあの微笑みのためならば、溢れるものが苦い酒でも甘い水でも、自分は飲み干し続けるのだろう。
それも悪くないかと小さく笑い、三蔵は歩き出した。


今夜あたり、きっと八戒はやってくる。




end





旅に出てからもたまに二人でこそこそ飲んで、
八戒の悪口なんか言っているといいと思います。


(2010.5.26)