one fine day










いつものようにジープを西へ走らせる途中のことだった。
通りかかった森の中で昼食をとった後、僕等は暫しの休憩をとった。
狭いジープの上で男四人が顔付き合わせていれば、休憩時間くらい各々自由に過ごしたくなるものだ。
朝から敵の襲来もなくて力を持て余した悟空は、昼食前に水を汲みに行った川へ魚を捕りに行くと言って出かけていった。夕べ遊び過ぎたらしい悟浄は、昼食の時におこした火の傍で木にもたれて眠っている。
少し離れた所にとめたジープの上では、三蔵が新聞を広げていた。

僕は昼食の後片付けをしながら、そんな三蔵の姿をそっと眺めていた。
文字を読むときだけに見せる彼の眼鏡をかけた姿が、実はとても好きなのだ。時折しか見ることが出来ないのが残念なくらいに。
いつも強い光で見るものを威嚇しているような瞳がレンズに覆われると、彼が本来持っている繊細さや優しさが強調されるように感じられる。
“今こっちを向いてくれたら、もっとよく顔が見えるのに…。”
多分僕の視線に気づいているのだろうに、三蔵は顔を上げない。
少しがっかりしたが、それをいいことに不躾なくらいその横顔を見つめた。
少し俯いた目元に影を落とす長い睫、薄く開いて煙草をくわえる唇、そしてその煙草を動かすきれいな指。
ふとその指の動きに、夕べ彼から与えられた感覚を思い出して急に身体が熱くなる。ついでに耳元で囁かれた睦言や身体の奥に植えつけられた熱も。
やっぱり今こっちを向かれたら困る。僕は今、さぞかし赤い顔をしていることだろう。こんな顔を見られたら、何を言われるかわかったもんじゃない。
急に煩く鳴りだした胸の音を振り払うように立ち上がると、僕は少し離れた木立ちの方へそっと歩き出した。


ふと歩みを止めたのは、かなり大きな山桜の木の下だった。
春になればこの山中で人知れず白い花を咲かせるのだろう大木も、今はほとんどの葉を落とし、晩秋の空気の中ひっそりと佇んでいる。
その足元は赤や黄色に色づいた枯葉が敷き詰められて、まるで寝床のようだった。
僕はそっとその中に足を踏み入れると、枯葉の敷布の上に腰を下ろした。両手で触れると枯葉はカサカサと音をたてながら、吸い込んだ日差しの温もりを伝えてくる。
僕は深く息を吸って伸びをした。
少し肌寒いけれど森の空気は澄んでいて、思いがけなく高まった鼓動も熱も冷ましてくれるようだった。
もう少しこの浮き立つような気持ちを沈めなければ、皆の所へは戻れない。あとどれくらいの時間が許されるだろうかと考えながら持ってきた文庫本を開いた。
だが気付けば活字を追っていたはずの目は、ぼんやりと空を見上げている。そんな自分に、少し苦笑すると、僕は小さくため息をついた。

近ごろ三蔵に対してどんどん欲深くなっていく自分を感じている。
もっと見つめていたい、もっと傍にいたい、もっと触れていたい…それは願いだしたらきりがない程に。
二度目の恋をするつもりはなかった。
失う痛みを覚悟しながら全てを懸けることなんて、もう僕にできるはずがない。それなのに気がつけば、ものすごい早さであの人に囚われている。
多くは望まないから。永遠に続くなんて夢は見ないから。今だけこの恋に溺れていたいと望むのは、過ぎた願いだろうか。

僕は文庫本を投げ出して枯葉の上に寝ころんだ。触れた背中の周りから、いっせいに枯葉と土の匂いが立ち昇る。
目の前にはきれいな空と桜の枝がいっぱいに広がっていた。
僅かに残った色鮮やかな葉が青を背景に枝を飾る様がきれいで、僕はしばらく見とれていた。
あの葉もいずれ地に落ちて、色あせ枯れてしまうのだ。そう思うと、一層見上げた葉と空の美しさが際だって見えた。
しがみつくように残っている葉をもっとよく見てみたくて、僕は立ち上がった。
頭より少し上の高さにある枝に手をかけると、太い幹に足がかりを見つけて一気に腕に力をこめる。思ったよりも簡単に僕の身体は桜の木の上に移動していた。
登る感覚が楽しくて、さらにもう一段上の枝へと身体を移動させてみる。この木は僕の体重にも動じることはなかった。
座り心地のよい場所を見つけて腰を落ち着けると、辺りを見回した。
疎らに残る赤や黄の葉は宝石のように鮮やかな色を見せている。この葉は落ちても次の花のための糧となり、翌春には新しい花を咲かせるのだ。それはさぞかし美しく艶やかなことだろうと思い巡らせた。

その時こちらに近づいてくる人影が目に入って、僕は息をのんだ。
最近ではすっかり馴染んでしまった煙草の香りが、だんだん強くなる。山桜の花のように真っ白な衣を纏った三蔵の姿に、僕の鼓動は早まった。
「さんぞう…」
思わず洩らした声はまだ少し距離があるから聞こえる筈はないのに、三蔵は訝しげにこちらを見上げた。
まさか僕が木の上にいるとは思わなかったのだろう。僕を捉えた紫が大きく見開かれる。驚いて開けられた口元からマルボロが落ちそうになっているのにも気づかないみたいだ。
そんなにびっくりしたのだろうか?
こちらを見上げた表情がいつもより幼く見えて、思わず笑ってしまう。
「何をしている?」
僕の笑みを見て、三蔵は怒ったように眉間に皺をよせた。
「三蔵も上がってきませんか?」
「冗談だろう」
素っ気なく返されるのはいつものこと。
「やはりその法衣では、動きづらいですよね。いや、足が上がらないのは老化現象かなぁ」
後のほうは独り言のように呟くと、三蔵はむっとした表情で木に近づいた。
さっき僕が手をかけた枝に、同じように腕を伸ばす。差し出した僕の右手を無視してひょいっと身軽によじ登ると、あっと言う間に隣に並んで座った。
三蔵は僕を横目で見てちょっと得意げに笑うと、煙草をとりだした。この人は見かけに寄らず、子供っぽいのだ。
高いところで吸う煙草は、きっと格別なのだろう。
三蔵は目の前に広がる秋の空を見上ながら、ゆっくりと満足そうに煙を吐き出した。
僕は立ちのぼってゆくその煙の行き先を見つめる。今、風はほとんどないから、煙は流されることなくゆっくりと空に消えていった。

「なんか僕たち、らしくないことしてますね」
これが悟空と悟浄だったら、いかにも面白がってやりそうではあるけれど。
「お前が先に登ったんだろう」
「三蔵だって登ってきたじゃないですか」
「高いところは苦手なんじゃなかったのか?」
その言葉に驚いた。確かに以前は高いところが苦手だった。恐怖症というほどではなかったけれど。
そのことをこの人が覚えていることに、驚いたのだ。
そんな話をしたのは確かまだ悟浄の家に住む前、三蔵のいた寺院に身を寄せていた時だった。
そこには珍しい塔があって、眺めがいいから登ろうと悟空に誘われたのだった。きっと鬱ぎがちだった僕を気遣ってくれたのだろうに、僕は一緒に登ることが出来なかった。八層造りのその塔は、僕にはとても登ってみたいものには思えなかった。
その時三蔵がその場にいたのかさえ、僕はよく覚えていない。僕が忘れてしまっていたそんな些細なことを、三蔵が三年も経った今でも覚えていることが嬉しかった。
「なに、にやにやしてやがる」
少し不機嫌そうに三蔵は携帯灰皿に短くなった煙草をつっこんだ。その様子をみて、僕の微笑みはさらに深くなる。
吸い殻の始末などには無頓着だったこの人が、僕が渡した灰皿を忍ばせてくれている。
僕の笑みを見て、三蔵はさらに不機嫌そうな顔をして横を向いた。
でもその顔が少し赤いことに、僕は気づいていた。
こんな些細なことで三蔵が好きだと自覚してしまう僕は、とてもとても…重症だ。



二人で見上げる空は優しかった。
抜けるような真っ青な空ではなく、季節の移ろいを映し出すような、穏やかな青い空。
青すぎる空は怖いのだ。見ているとこちらの気持ちまでが吸い込まれてしまいそうだから。
その時ふと、怖いくらいきれいな青空に吸い込まれるように消えていった白い影を思いだした。
あれは、確か…。
「うわっ!」
ぼんやりしていたら、身体が半分後ろに落ちかけていた。
力強い腕が僕の背中を支えて、耳元でほっとしたようなため息が聞こえた。
「あ、ありがとうございますっ」
慌てて身体を起こせばバランスを崩して、今度は前に落ちそうになる。
思わず三蔵の腕にしがみついた。
そんな僕を見て可笑しそうに三蔵は笑った。
「やっぱり高いところは苦手なんじゃねぇか」
「そんなことないですよ。今なら風船だってとりに行けます」
僕は2メートル程上の木の枝の辺りを見上げた。
そういえば、あれはあの辺りの高さの枝にひっかかっていたんだった。
突拍子もない僕の言葉に、三蔵は訝しげに眉をひそめる。僕は言い訳するように微笑みを返し、少し昔の出来事に思いを巡らせた。


まだ僕が悟能という名だった頃、彼女が風船を貰ってきたことがあった。
いつも買い物をする店の新装開店売り出しで貰ったのだと、嬉しそうに笑っていた。
普段どちらかというと大人っぽい彼女が、風船一つで無邪気に笑う姿がとても愛しかった。
だがその白い風船は強い風の悪戯で彼女の手から逃れ、僕等の家の庭にあった大きな木の枝に引っかかってしまった。
自分で取りに行くという彼女を説き伏せて、僕は木に登った。怯む気持ちをねじ伏せて、なんとか風船が引っかかっている枝までよじ登った。
伸ばした僕の指先があと少しで触れる。そう思った瞬間、風船は強い風に飛ばされた。あっという間に真っ青な空に上っていって、吸い込まれるように見えなくなった。

彼女との思い出を口にしながら、不思議なほど僕の心は穏やかだった。
ついこの間まで、思い出すことさえ胸が痛くて辛いことだったのに。
世間から彼女と二人の生活を守りたくて、幸せだったけどいつも何処か怯えていた時も。失った人と犯した罪の重さに耐えられない程苦しかった時も。いつも心は鎖に繋がれていた。
今は、三蔵…。あなたが傍にいるから。
あの日空に吸い込まれてしまった風船のように僕の心はふわふわと舞い上がって、どこまでも飛んでいってしまいそうだ。
あの風船はどうなったのだろう。
高く上がりすぎて割れたのか。力つきて萎んだのか。
地面に落ちて朽ちてしまい、今では欠片も残ってないだろう。
いつか僕にもその日がくるとしても。今だけは飛ばされても構わないと強く思った。


「怖いのか?」
いつになく真剣な三蔵の声に驚いて顔を上げた。
胸の中まで分け入るようなまっすぐな視線に、僕は言葉が見つからない。
怖いのは、この恋がいつまでも続くようにと願う自分の欲深さと。その先に待つかもしれない破滅に目を瞑ったまま、あの風船のようにどこまでも舞い上がっていく愚かな心だ。
ふいに三蔵が僕の掌を掴んだ。
驚いて手を引けば、さらに強い力で握られた。
「風船なんざ、飛ばさないようにしっかり捕まえておけばいいんだよ」
そう言って三蔵は、照れくさそうに横をむく。繋いだ掌から三蔵の温もりが伝わってくる。
その温もりはゆっくりと僕の身体の中に染み込んで、心の中まで満たしていく。
「僕は風船ですか?」
「ふわふわと危なっかしくて仕様がねぇ…それに」
秘密をうちあけるように少し声を潜めて、三蔵は僕の耳元に唇を寄せた。
「実は俺も、高い場所が得意じゃねぇんだ」
だからこの手を離すな、と握った掌を引き寄せて、三蔵は僕の手の甲に口づけた。
本当に今日は、らしくない。そんな優しい瞳で、そんなことを言うなんて。
でもそれはこんな晴れた日にはよく似合っていて、僕はますます参ってしまう。
「それでもやっぱり怖いんですよ」
聞き分けのない子供を見るように眉を顰めた三蔵に、僕は極上の微笑みを返す。
「こういうのを、幸せすぎて怖いっていうんでしょうか」
「…バカか」
頬を染めて面白いほどうろたえた三蔵が、勢いよく煙を吐き出す。
その行き先を追えば、見上げた空にいつかの白い影が吸いこまれて消えていった。





end




(2009.11.29)




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