ラムネ












「右の方がよさそうだぜ」
悟浄はいつものように、突然姿を現した。
「右の道のほうが、断然近いし安全だって」
僕の右肩の辺りにふわんと漂いながら、紅い瞳が惑わすように微笑みかける。

この森に迷い込んでから一体どのくらいの時間がたったのだろう。
歩いても歩いても木立は途切れることなく続いていて、天を覆うように生え揃った濃緑の葉のせいで昼間なのにあたりはひんやりと薄暗い。
いや、そろそろ日が暮れる頃なのかもしれない。時間の感覚も方角も、だいぶ前からはっきりしなくなっていた。
獣道に毛がはえたような頼りない道をふみしめて、何度か分かれ道で立ち止まり、半ば自棄になって道を選びながら歩き続けている。
途方に暮れながらも進むしかない僕が何度目かの分かれ道にたどり着いた時、悟浄が現れたのだった。


「まるで見て来たような口ぶりですね」
溜め息をつきながら肩を竦めた僕は、なるべく悟浄を視界に入れないようにして左右の道を見比べた。
どちらも見る限りでは今まで通ってきた道同様、むき出しの太い木の根と生命力旺盛な下生えとに覆われて歩きにくそうだ。
前を見据える僕の気を引くように、悟浄はそれは器用に僕の肩先の辺りに、右に左にと交互に浮かび上がった。
普通なら考えられない行動だが、彼はすでに普通じゃないから、僕は今更驚いたりしない。
「先に行って、見て来てやったからな」
悟浄はにやりと笑うと右手で僕の肩を抱き寄せて、左手で左側の道を指差した。
「そっちの先はさぁ、なんだか気色悪ィ色した沼で行き止まり。だからこっちにしとけって」
「それはご親切にありがとうございます。でもその手はくいませんよ」
何度かの苦い経験から、この男の忠告に従うと確実に引き返す羽目になるとわかっていた。
唆されてたどり着く先は、とても登れそうに無い断崖絶壁や底の見えないような深い谷。濁流渦巻く大きな川、などなど。
いずれも無理に進めば命を落としかねない、危険極まりない場所ばかりなのだ。
僕はできるだけそっけなく肩にかかった悟浄の掌を振り払おうとして、失敗した。
彼は今実体がないから、僕からは触ることができないんだった。
「残念ながらまだやり残したことがあるので、あなたにおつきあいして死んでいられないんですよ」
僕のきつい口調に堪える風もなく、悟浄はへらりと笑った。
「残念…また失敗か」



きっとこれは幻覚だ。
悟浄への執着が、彼のカタチをして目の前に現れているに違いない。
だってこの男は死んだのだから。
信じられないくらいあっけなく。

ヤクザ紛いの危ないことも幾つもしていたようだから、恨みつらみも多くかっていたらしい。
女の出入りも多かったから、もしかしたら痴情の縺れかもしれない。
とにかく心あたりが多すぎた。
馴染みの酒場で飲んでいるところをいきなり刺された、らしい。
三蔵からの仕事の依頼で数日家を留守にしていた僕は、彼のために何もできなかった。
一緒にいたら、何とかできたかもしれないのに。
僕はいつも、間に合わない。
数日ぶりにくたびれ果てて家に戻ったら、冷たくなった悟浄が待っていたのだ。
あんなことってあるだろうか?今でも信じられない。
でももっと信じられないのは、この悟浄の存在だ。



そっと隣りを伺うと、悟浄は鼻歌を歌いながら煙草に火を点けている。
なぜこの男は、しきりと危険な方へと誘うのだろう。
僕はこれっぽっちも死にたいなんて思っていないのに。
自分で気付いていないだけで、一緒に逝きたいと望んでいるのだろうか。
いやもしかしたら、悟浄は寂しいのかもしれない。妙に甘えたがりのところがある人だったから。

僕の視線に気づいた悟浄は、目を細めてさも旨そうに深くタバコを吸い込んだ。
「冷たいなぁ…。俺を喰ったくせに」
ゆるゆると吐き出す煙と一緒にとんでもないことを口にすると、ククッと含み笑いながらこっちを流し見た。
憎らしいほど艶っぽい。まるで生きているみたいだ。
「そんなに好きだったんだ。俺のコト」
好きだった。
あのまま無くしてしまうなんて、耐えられなかった。


悟浄を荼毘に付した後、何日も眠れない日が続いた。
様子を見に立ち寄った三蔵は、居間のソファに座りぼんやりしている僕を見つけたらしい。
腕の中に納まるほどに小さくなってしまった悟浄を抱きしめて放さない僕を、三蔵は無理やり訳のわからない術で眠らせた。
僕が抱えていた壷に入った悟浄の骨は、あるべき量がなかったらしい。
”お前がどこかにやってしまったのだろう”
目を覚ました僕に、奇妙なほど静かな口調で三蔵が告げた。
どこかにって…一体、どこに?
僕は何も覚えていなかった。
そんな僕を哀れみと優しさの入り混じった目で見ると、三蔵は悟浄を連れて行ってしまった。

そしてその日から、僕の目の前にこの男が現れたのだ。
一人きりになってしまい力なく床に座りこんでぼんやりしていた僕の隣に、気がつくと悟浄が座っていた。
気持ちよさそうにソファにもたれて、のんびりと煙草の煙を吐き出して。
まるで今までずっと、二人で床に座り込んでテレビを見ていたかのように。
でもその姿はこの世のものでないと知らしめるように、半ば透けてゆらゆらと揺れていた。

本当に僕は、悟浄を食べたのだろうか?



「あなたの骨は、今どこにあるんですか?」
「クソ坊主ンとこ。有難いことに、朝に晩に経をあげてもらってるぜ」
死んでしまって、悟浄は僕に遠慮することなく堂々とあの人の傍に行けたわけだ。
「よかったじゃないですか」
「それって、本心?」
「もちろん」
鼻先が触れるほど近い距離で、悟浄は寂しそうに微笑んだ。
「もう俺に未練はねぇの?」
生きている時はただの一度もこんな顔は見せなかったくせに。あの人のことばかり、考えていたくせに。
それにしても最高僧の力をもってしても、この男には効果がないということか。
いや。囚われてしまった僕には、というべきだろうか。


でももう、そんなことはどうでもいい。
だってもう、あなたは…僕なんだから。








◇◇◇◇◇







「という、夢をみました」
「またかよ」
「一体どういうことでしょうか?」
「こっちが聞きてぇよ。お前、何回俺を殺す気なの?」
「かれこれ…10回くらい?」
「12回目だ」
あきれたように勢いよく煙を吐き出す悟浄の表情は、言葉ほど嫌そうじゃない。
ぶつぶつ言いながらもテーブルの上の二つのマグカップを手に立ち上がると、サーバーに残ったコーヒーを注いで、ちゃんと僕の分にはミルクも入れて手渡してくれる。
「何か悪いもんでも拾って食ったんじゃねぇの?」
「そんなことしませんよ」
「だよなぁ。悟空じゃあるめぇし」
悟浄は少し眉をひそめると、じっと僕の顔を見つめた。
「きっと疲れてるんだって。おまえ最近働きすぎっしょ」
確かに人手不足だからと頼まれた塾の講師の仕事は夜遅いし、内職の翻訳も増えてきているし、時には三蔵が回してくれる仕事も引き受けている。
「アイツの仕事なんか放っておけよ。どーせ自分が働くのが面倒なだけなんだからサ」
「ではあなたは働いてくれるんですね」
これ幸いとにっこり笑って皿洗いと風呂掃除をお願いすると、ええっとかうえっとか言いながらも、悟浄は立ち上がって台所に向かった。


悟浄は優しい。
何があっても、その優しさは変わらない。
海のように深くて広いその優しさの理由は、この男にとって全てのことがどうでもいいからなのではないかと感じる程だ。

二週間前、僕は悟浄に想いを伝えた。
好きで好きでたまらないのだと、決死の覚悟で伝えた。
伝えたのに。

"俺もお前のコト好きだけど、そういうんじゃないんだわ"

悟浄は少しも困った顔を見せないで、旨そうに深く煙草を吸い込んだ。
吐き出された煙がゆらゆら揺れながら天井に向かっていく。
その様を固まって見つめるしかない僕の前で悟浄は悪びれることなく笑うと、"悪ィな"と口にして、まるで何事もなかったように女のところに出かけていった。
悟浄の態度があんまり普通だったから、この想いを伝えたのは夢だったんじゃないかと思うほどだった。
僕は長い間、阿呆のように悟浄の消えたドアを眺めていた。



「あ、そうだ」
悟浄は風呂掃除まできちんと済ませて戻ってくると、ソファの上に投げ出されていた紙袋を引き寄せて、ごそごそと中を探った。
「ほら、コレ」
中から透明な袋を取り出すと、袋の口を破り逆さにして盛大に中身をテーブルの上にぶちまける。
毒々しい色のセロファンに包まれた小さな菓子が、ざらりとこぼれ出て広がった。
「お前、好きだろ」


あの大失恋の後、ここに居続けることなどできないと思い詰めて荷造りしている所に突然悟浄が戻ってきた。
ぎこちなく言葉を探す僕にいきなりこの菓子を手渡すと、いつも寄るタバコ屋の店先にコイツが売っていたのだと嬉しそうに笑った。
以前何かの拍子に、僕はこの菓子が好きだと言ったらしい。そのことを、なぜか僕は覚えていないのだが。
いつもと変わらない悟浄の態度に寂しさを感じながらも、僕の切羽詰った気持ちはどこかへ消えていた。
あの時、出て行けばよかったのかもしれない。
でも許されるなら、この場所に居たかった。たとえ悟浄の想いが、僕に向いていなくても。


「…ありがとうございます」
条件反射のように礼を口にしながら考える。
一体いつ、僕はこんなものが好きだと言ったのだろうか?
そういえばあの夢を見るようになったのも、二週間くらい前からじゃなかっただろうか?
「あの、悟浄―」
「どした?食べねーの?」
悟浄はひどく優しい顔で微笑んだ。この菓子をくれる時、悟浄はいつもこんな顔をみせる。
愛しくて仕方がないとでもいうような。自分を慕うペットか何かを見るような。
テーブルの上の一つを摘み上げると、器用な指先が丁寧にセロファンを剥いた。
派手な色の包み紙から現れた小さな菓子は、対照的に真っ白く素朴ななりをしている。
「はい」
目の前に翳されると、ほのかに甘く爽やかな香りがした。
「遠慮するなって。食べて」



その時、ふと夢の続きを思い出した。
いや。
夢の中では知らなかった景色が、突然瞼に浮かんだ。
薄暗い酒場の中、悟浄に向かって真っ直ぐに歩いていく男。手には抜き身をぶら下げて。
男に気づいた悟浄が立ち上がる。
まるで男の訪れを知っていたかのように、悟浄は周りにいた女たちを後ろに回して男の前に立ちふさがった。
グラスが割れる音がして、耳障りな悲鳴が店内に響いて、振り上げられた刃が白く煌めいて。
安堵したように微笑むと、刃など目に入らないように悟浄は腕を広げた。
刃と男とその男の頬を濡らす涙も抱きとめると、悟浄は愛しそうに男の名を呼んだ。



「はっかい」



夢の中の声なのか目の前の悟浄の声なのか、一瞬わからなくなった。
ぼんやりと視線を向けると、目の前に差し出された白い菓子の向こうに悟浄の顔が見える。
何もかも許してくれるような優しい瞳で、悟浄は笑っている。

「ほら、」


促されて口を開く。
誰もが知っている昔懐かしい素朴な菓子は、この男に似合わぬようでいてなぜかしっくりくる。
煙草の匂いの染み付いた長い指が、白い塊をそっと僕の舌に載せた。



「食べて」





”俺の骨”









end






悟浄のこれでもかという優しさの底には、冷えてしまっていてどうにもできない空洞みたいなものを感じます。
それが時に臆病さや諦めや、歪んだ愛の形となって浮かび上がってくるんじゃないかと。
そんな悟浄の壊れてしまった部分とそれに振り回される八戒が書きたかったのですが…。
ごじょの骨を云々の話は、乱歩の「孤島の鬼」を読んで以来、ずっと八戒にやらせてみたかったのです。
拙い話にお付き合いくださって、ありがとうございました。


(2009.10.13)



*私の拙い話を『
wired or chained』のWIREDさまが素敵な385に仕上げてくださいました。ぐるぐる好きの皆さま、ぜひご堪能下さい♪ → 
 


←novel