*長編『sweetness』のその後の話です。よろしければ『sweetness』を先にお読みください。
after that
自分と八戒とに割り当てられた部屋の真ん中で、悟浄は勢いよく煙を吐き出した。
じりじりと指先に熱を感じ始めているのに、ぐるっと部屋を見回しても灰皿が見あたらない。
仕方ないのでポケットから携帯灰皿を取り出すと、短くなった煙草を突っ込んだ。
窓を開け、我ながら上手く躾られたもんだと苦笑しながら、上着を脱いでベッドの上に放り投げる。
その拍子に背中に感じた微かな違和感に、悟浄は小さく眉をひそめた。
たどり着いた街で適当に見つけた宿屋は古いが清潔で、八戒のお気に召したようだった。
ただ今ヤツは買出し中。
俺も行こうかという悟浄の申し出を見惚れるほどきれいな笑顔で断って、やけに楽しそうに鼻歌なんか歌いながら悟空を伴って出かけていった後姿は、しかしひどく頼りなくて。
きれいすぎる微笑みは性質が悪い。
あれは完全に無理してるとわかっていても、こんなとき悟浄にはどうすることもできないのだ。
今も昔も。
部屋の入り口近くの扉を開けて覗いてみると、狭い部屋のわりにバスルームは程よい広さがあった。
大きな鏡のはまった洗面台の前で、悟浄はシャツを脱ぎ捨てた。
裸の上半身を捻り背中を映して、昨夜の女がつけた傷を確かめてみる。
抑えた息遣いと、やけにゆっくり移動した柔らかな熱――。
昼間自分の背中に感じた八戒の舌の感触を思い出して、悟浄は息をつめた。
半裸の自分とその背中を舐める八戒。
のんびりとした日差しに不似合いな淫靡な空気に、三蔵と悟空は水の中に立ち尽くしていた。
固まった二人の視線に気づいた八戒は、へらりと笑って言ったもんだ。
”治療中ですよ。あなた方もいかがですか?”
ぶんぶんと首を横に振る悟空と苦虫を噛み潰した顔で横をむく三蔵に一瞥をくれた八戒は、なんともきれいな笑みを浮かべた。
その後ジープの上は、やけに上機嫌な八戒と全く屈託のない普段どおりの悟空の声ばかりが聞こえていた。三蔵は不機嫌を五割り増ししたように煙草をふかしつづけ、時折肩越しに視線を寄こしては悟浄を睨みつけた。なんとかしろという無言の圧力を感じながら、悟浄はひたすら居眠りを決め込んだ。
八戒が治療と称したのは出まかせではなかったようで、背中の傷はすっかり消えている。
濡れた舌の感触を悟浄に刻みつけながらも、八戒はきちんと処置を済ませていたようだ。そういえば舌の感触とは違う、治癒される時特有の微かな温かさを感じていた。
すっかり消えうせた昨夜の女の痕。
だがいつまでも消えない傷が、悟浄の背中には確かに存在している。
あの時八戒は、何かを背中に埋め込んだに違いない。あれから傷はないのに、その場所に微かに痛みを感じている。
覚えのある、懐かしい痛み。
胸に眠らせたまま忘れたふりをしていた甘さを含んだそれは、あの夜から八戒が抱えたままの、痛みそのものなのかもしれない。
悟浄は洗面台に手をつくと、身を乗り出して鏡に移る自分の瞳を覗き込んだ。
ぞっとするような暗い紅が、こちらを見つめ返す。
確かめるように自分の髪にも目をうつす。
相変わらず濃く浮かんでいる罪の色。
あの雨の夜も、悟浄は自分の背負った罪を呪っていた。
八戒は血と泥と雨に塗れて、突然悟浄の前に現れて。殺してくれと言いたげな瞳で悟浄を見上げて嗤った。
その瞬間、なぜだかわからず身体が動いた。
土砂降りの雨のせいで何度も背中から滑り落ちそうになる意識のない重い身体に悪態をつきながら。七面倒くさい思いまでしてそれでも捨て置かずに家へ連れ帰ったのは、あの時既に八戒という男に魂を掴まれていたからにほかならない。
だから一度失ったと思いこんでいた碧の男が生きていただけで、自分の傍を選んでくれただけで、充分だった。
宝物庫荒らしの連中に囚われた自分を助けにきた八戒の姿を、悟浄は忘れられない。
自分に向けられた迷いの無い瞳。自分のために曝された制御を外した壮絶な姿。
全て終わった時に見せてくれた、きれいな微笑み。
あれほどはっきりと自分の存在を許されたと感じたのは、悟浄の人生で初めてのことで。その時の感情は、今でも時折ふとした瞬間に蘇って、何度でも悟浄の胸を震わせる。
それまで遠慮がちだった八戒は、あの事件以来変わった。
温かく包み込むような眼差しに混ざる思いつめたような瞳の色。穏やかな呼びかけの声に潜む、祈りのように真摯な音。飄々とした態度の中に時折見せる、自分へ向けられる痛いほど純粋な想い。
伝わってきた八戒の想いの全てが、悟浄を歓喜させ、同時に罪悪感で凍らせた。
いつも遠くにあってただ眺めるだけだった、温かくて優しくて柔らかいもの。幼い頃心の底から欲しかったのに、どうしても手に入らず諦めてしまったもの。
今、手をのばせば、それが手に入るのかもしれない。
だけど。
あんなきれいなもの、手に入れたらきっと罰があたる。
自分が求めたものは、不幸になるから。
自分を殺そうとして愛するわが子に殺められたあの女のように。自分なんかを庇って、実母を手にかけてしまった兄のように。
だから誰も愛さないし、求めたりしない。大切な者が不幸になる姿なんて、もう決して見たくないから。
自分にはただ一度、あの幻のような夜の記憶があれば、充分だ。
ふとしたきっかけで知り合った、博打仲間だった男。宗旨の違うその男の営む売春宿に、まさか八戒が足を向けるなんて思わなかった。
そこに自傷行為に似た深い悲しみがあったとしても、悟浄にとってとても許容できることではなかった。
だが何をしているのかと詰り強引に連れ戻そうという思いは、あの密室で八戒の姿を目にしたときに消え去った。
息を殺すようにしてベッドに腰掛けて、白くなるほどきつく拳を握り締め、何も見たくないのだと瞼を塞いで。
まるで贖罪のようにその身を誰彼構わず投げ出そうとしている姿は、胸を抉られるほどに痛々しくて。
愚かしくも愛しくて。
それでいて無意識に纏っている危い艶かしさは、悟浄の理性を揺さぶった。
受け取れない想いだと自ら目を逸らしておきながら、結局腕を伸ばしたのは悟浄自身で。その温もりに触れてしまえば、求めることを止めることなどできなかった。
痩せて骨ばった痛々しさを覚えるほどの身体も。いつもは穏やかな声しか発しない唇が漏らした、艶やかな嬌声も。この名前を切れ切れに混ぜた、甘い吐息も。
忘れることなどできるはずがない。この腕に抱いた、あの温もりも。
「どうしたんですか?」
気がつくと入り口に八戒が立っていた。
「じっと自分の姿に見入っちゃって…」
両手に紙袋を抱えて首を傾げる。
「買出し、ごくろーさん」
気づかぬうちに強く洗面台の淵を握りしめていた指を放して、悟浄は鏡から身を離した。
浴室に入ってきた八戒が、悟浄と並んで鏡に映る。
向けられる穏やかな瞳の奥に隠し切れない熱情が燻っているのを確かめて、悟浄は罪悪感を感じながらもひどく満たされてしまう。
「あんまりイイ男が映ってるから、つい見とれちゃってサ」
八戒は呆れたようにクスリと笑った後、悟浄の背中に目をやった。
「もしかして、背中の傷が痛むんですか?」
深い碧がさらに濃くなったことには気づかぬふりで、悟浄はニッと笑い返す。
「いや、全然。ちょっと…目が疲れたなーって」
「それは遊びすぎですよ。たまには夜遊びを控えて、ゆっくり眠ってくださいね」
ふわりと笑うと八戒は荷物を抱え直して、開け放した扉の向こうに姿を消した。
荷物を置くガサガサという音に混ざって、懐かしい曲を口ずさむ柔らかい声が聞こえてくる。
八戒が居なければ知ることがなかっただろう、穏やかで温かい空気。
まるで二人が密かに抱えている執着なんてないように緩やかに流れる時間は、しかし少しずつ速度を増して、あるところに向かっている。
そこに流れ着いたときの自分を、悟浄はいつまでたっても思い描けない。
そして。
こうしてこのままずっと一番近くにいて…なんて、あり得ない夢をみている。
この場所に居られるならば、いくらでも偽れる。自分はきっと、なんだってできるだろう。
悟浄はもう一度、鏡の中に目をやった。
最近髪も瞳も、一層その紅を増したように感じられる。
それは、八戒を愛するという罪を重ねているからなのだろうか。
許される事なんか端から望んじゃいない。
もっと紅くなっても構わないから。決して手に入らなくても構わないから。
どうかもう少し、このままでいさせてくれ。
end
できあがったラブラブな二人もいいけれど、ギクシャクしながらも離れられない二人も好きです。
両思いなのに決して結ばれない関係。
決して測れるものではないのですが、悟浄の抱える絶望は他の3人に比べてひどく深くて、もしかしたら誰にもどうやっても癒すことができないんじゃないかと思うことがあります。それ故に、この男をなんとかしてやりたいと思うんじゃないかな。八戒も。
臆病すぎるこの男は、いつか八戒に強引に奪われてしまえばいいと思います。
(2009.7.22)