ボタニカル
久しぶりの朝帰りだった。
5月の空気は必要以上に爽やかで、我が家へ向かう足取りも自然と軽くなる。
同居人は、起きた頃だろうか。無断で朝帰りしたことを、咎める気満々で待ち構えているだろうか。
調子外れな口笛をふきながら、八戒の出方をあれこれ予想してみる。
湧きあがる怒りを絶妙な具合で滲ませながらにこやかに出迎えるいつものパターンか。
それとも寂しかったと囁きながらわざとらしく目を潤ませてオレの胸にしがみつくやつか。
もしくは不機嫌もあらわに、眉間に生臭坊主ばりの縦皺を刻むパターンだろうか。
いくつかの言い訳を頭の中で呟きながら家のドアを開けたオレは、ノブを握ったまま固まった。
部屋の中に漂う、微かなメンソールの香り。
女が好むこの香りは酒場では珍しくもないが、この家では滅多に嗅ぐことのないものだ。
やけにきれいに片付いた居間を見回して、テーブルの上に目を止める。
菓子と見間違えるような淡いきれいな色の箱とマッチ、見慣れた灰皿の中の数本の吸殻。
細い吸い口にはもちろん口紅の痕なんかついているわけがなく、オレは小さなため息をついた。
やられた。
最近調子よさそうだったから、油断した。
家中を探してみたが、寝室にもぴかぴかに磨き上げられた風呂場にも八戒の姿は見えない。
オレは小さく舌打ちして外に出ると、家に沿って裏へ回り、ひんやりとした空気の漂う林に踏み込んだ。
初めてあの煙草の吸殻を見つけたのも、今日みたいに朝帰りした日だった。
誰もいない部屋に置かれた吸殻と風呂場から聞こえる水音に、オレはてっきり八戒が女を連れ込んだのかと考えて、えらく驚いたもんだ。
何にしても喜ばしいことだなんて思いながらも、オレは可笑しなくらいに焦っていた。
だがいつまでも止まない水音に痺れをきらして覗いた風呂場で、八戒は一人、一心不乱に床を磨いていた。
よくよく聞けば、煙草は八戒が吸っているものだった。
"姉が吸っていたことがあって…"
いつだったか問わず語りに、知り合った頃姉は喫煙者だったのだと語った。酒も煙草も彼女に教えてもらったんだと。
あいつのねーちゃんは、なかなか豪胆な性格だったようだ。
で、八戒はオレのいない間に、ごく稀にこの煙草を口にしていたらしい。
それはねーちゃんに会うためなのかもしれない。正確に言えば、ねーちゃんとの思い出に会うために。
それはそれで悪いことではないと思う。
だがオレは胸の辺りに黒い雲が広がるような、もやもやした気持ちを感じていた。
なぜなら必要以上に風呂掃除に熱中するのは、囚われて身動きできなくなってるときの八戒の癖だから。
風呂掃除で治まらなければ煙草。それでもダメなら林の中の徘徊と、八戒のコースは決まっているようだった。
頭上に生い茂る木々にも足元を覆う草花にも一斉に新しい芽や葉が萌え出ていて、林全体がこの季節特有の柔らかく瑞々しい色に覆われている。
名前なんかほとんど知らないが、どの植物も攻撃的なほど生命力に溢れていて、その吐き出す酸素と湿気のためか妙に息苦しいような気分になる。
もしかしたら八戒は、こいつらの持つ力に否応なく惹きつけられているんじゃないだろうか。
その体内に罪の証と信じている植物を宿したまま、自然の流れを自在に操って思いがけない力を掌から生み出すことのできる、あの男は。
こんなこと、今まで考えたこともなかったけど。
林の中の一番の老木である大きな桜の木の下に、八戒は立っていた。
木の幹にしがみつくように両腕をまわして身を預け、表情のない横顔を見せている。
血の気の失せた頬に、木漏れ日がちらちらと影を落とす。
ぼんやりとした視線は、オレの気配にも一瞬も揺らがない。
「八戒」
オレの声は届かなかった。
八戒は樹皮に顔を寄せたまま動かない。
まるで八戒自身が植物になってしまったかのように。老樹に絡まる蔦のように。
背筋が震えるような感覚に、オレは思わず息をのんだ。
その左耳には確かに制御を着けているのに、コイツの中の何かが、確かに蠢いている。
傍に寄ると、八戒の身体の中から音が聞こえるような気がした。
驚かせないように両の肩にそっと掌を乗せると、オレは薄い背中に耳を押しあてる。
しゅるしゅると何かが這うような微かな音が聞こえる。
ゆっくりと、ひそやかに。
まるで音楽のようなその音を聞きながら、オレは思い出す。
以前宝物庫荒らしの連中からオレを助けに来た時に、何のためらいもなくコイツが見せた、制御を外した姿を。
青白い頬にもきれいな指にも、蔦が這い回るように絡みついていた妖怪特有の痣。
それは衣服で隠された細い身体にも、全身隈無く印されていたはずだ。
鋭く伸びた耳と爪、いつもとは違う猛だけしい光を浮かべる瞳。
コイツが自らの罪の証だと思い込んでいるその姿は、哀しいけれどとてもキレイだった。
目の前でチンピラどもを張り倒す姿を馬鹿面下げて見つめながら、本音を言うと、俺は少し怖かった。
いつも翳りを帯びた瞳で寂しそうに笑っているくせに、オレなんかのために全てを曝け出してしまう、その潔さが怖かった。
八戒はまるで樹木に抱かれるように身を預け、その腕で頼りなく抱き返している。
オレは身を起こして、触れても無反応なままの八戒を木の幹ごと抱きしめた。
その時。
八戒は小さく震えると、きし、と爪を樹皮に食い込ませ、溺れる人のように腕の中の幹に縋りついた。
木の持つ生命力を感応するように、浅い呼吸を繰り返して目を閉じる。
「あぁ」
灯りを落とした部屋で抱き合う時にも耳にしたことがないような、甘い吐息。
爽やかな日差しが降り注ぐ林の薄い影の下では不似合いなほどの、艶かしい横顔。
「ダメだ、八戒」
耳元に唇を寄せて囁く。
冗談じゃねぇ。オレ以外で"感じる"なんて。
「お前にはオレがいるだろ」
ふらりと身を揺らした八戒の腰を支えてやると、八戒は閉じた瞼の先の睫毛を震わせる。
「なぁ、戻ってきて…。そろそろ腹へったし」
これじゃまるで、サルみたいだな。
柔らかい髪に顔を埋めて、苦笑する。
「戻ってこいよ、八戒」
抱きしめる腕の力を強くして耳元に刻み込むと、眠り姫を目覚めさせるべくその頬に口づけた。
「あ…」
八戒はゆっくりと瞳を開けてその碧を向けた。
「ご、じょう」
淡い色を見せてどこか焦点があやふやだった瞳に、少しずつ光が戻ってくる。
「タダイマ」
「お帰りなさい…随分…遅かったんですね」
「悪かったな」
八戒はゆっくりとあたりに目をやってから、少しバツの悪い顔をした。
「またやっちゃいましたか、僕」
「みたいだな」
幹から身を離し、ふらふらとよろめく八戒の腕を支える。
八戒の体からは、もう何の音も聞こえなかった。
あれは幻聴だったんだろうか。
すっかり冷え切っている八戒の右手を取って、ゆっくりと歩き出した。
「おなか空きましたね。すぐに何か作りますから」
「今日はオレが作ってやる。カレーでいい?」
八戒は小さく目を瞠った。
「朝からカレーですか?」
言葉とは裏腹に、嬉しそうに目を細めた。
さっきまでより熱を増した木漏れ日が、オレたちの肩のあたりに柔らかく降り注ぐ。
「新緑が、怖いくらいにきれいですね」
頭の上の葉が作り出す光の斑に目を細めながら、八戒はため息のように呟いた。
決して口にはださないけれど、オレはいつまでたってもオマエがコワイよ。
その危うさも愚かさも潔く曝け出して、愛おしそうにオレを見るオマエが。
アッチヘ片足つっこんでる姿見せられて、平気でいられるわけはないけれど。
それでもオマエを呼び戻せるのがオレだけだというのなら、何度でも 呼んでやるさ。
「八戒」
「…はい」
優しく向けられる碧には、いつもオレだけが映っているといい。
繋いだ指先に同じくらいの力をこめて、オレたちは林を抜け出した。
end
(2009.05.11)