pray for








大きな欠伸をしながら居間に入ると、ふわり、と庭で白い影が揺れていた。
朝早く無理やり引き剥がされたシーツが、昨夜零した二人分の欲望の残滓を洗い流され漂白されて、何事もなかったように風にひらめいている。

シーツなんてなくてもいくらでも眠れるオレは、太陽が少し傾き始めた頃になって、やっと目が覚めたという有様で。
最早寝起きのBGMと化しているいつもの小言を覚悟してたのに、部屋の中には眠たげな春の気配が漂うだけで、八戒の姿は見えない。
物足りない気分でぐるりと見回すと、窓とは反対側のソファの上に意外なものを見つけて、オレはポケットから煙草を取り出す動きを止めた。



八戒の死体。


じゃなくて、死体のように眠る八戒。

長い膝下が肘掛からまっすぐ突き出ていて、腕はきれいに脇に沿っていて、掌は腹の上で組まれていて。
まるで棺の中で埋葬を待っている人のよう。
コイツは寝息を立てずに眠るから、まるで本当に死んでいるみたいに見える。
思わず胸が微かに上下しているのを確認してしまうほどに。


穏やかに何の苦しみも知らぬように見えるその寝顔が、あんまり安らかで可笑しくなる。
昨夜オレを見下ろして、あんなに獰猛に笑った男と同じヤツとは思えない。
そりゃいくらコイツでも、転寝したくもなるだろうよ。
夜更けまで及ぶ激しい交合を望むくせに、夜が明けるといつも以上に早く起きだして、一刻も早くなかったことにしなければならないとばかりにその証拠を洗い流す。
そんなことでコイツの中に潜む執着が、洗い流せるわけではないのに。
そんなに怖いならやめたらどうかと思うが、そんなこと口にできるはずがない。




開け放った窓から、ひらひらと白いものが入り込んで、八戒の胸の辺りに着地した。
続いていくつか追いかけるように降り注ぐ、白い小さな欠片。
裏の林に一本だけ咲いている桜が、もう散り始めたらしい。
咲ききった桜は、ある時急に色が白くなるように見える。多分それが、散り始めの合図なんだろう。
八戒の胸の上の花びらも、窓の外に揺れるシーツみたいに白い。

明日は弁当もって、アイツらと花見をするって言ってたっけ。
どうせならぶわっと賑やかに咲き乱れる花見が好みなんだけど、誰にも知られたくないようにひっそりと咲いている、裏の桜も悪くない。

冷蔵庫の中は、明日の弁当の食材でいっぱいに違いない。
きっと小猿は煩いほどのハイテンションで、坊主は春の日差しに不似合いなしかめっ面でやってくる。
舞い散る花びらの下で、騒々しくも和やかに時は流れるんだろう。
痛みも悲しみも汚れも後悔も知らない人のように、八戒はきれいに笑うんだろう。



白いシーツ。桜の花びら。暢気な明日の予定。穏やかな寝顔。
こういうのは、苦手だ。
穏やかすぎて、泣きたくなる。

ロクでもないことを考えるのは、だからこういう時だけだ。
例えば…そんなこと絶対にあるわけねぇんだけど。

オレが妖怪どもに連れ去られて閉じ込められたら。
―そういえば、似たようなことがあったっけ―
コイツは助けにくるんだろうか。
―くるんだろうなぁ―
オレなんかを助けるために、毛嫌いしている姿を晒しちまうんだろうか。
―晒していたな―

その身を以って信じられないような俗説の体現者になったあの時のように、千人の妖怪でも殺しちまうんだろうか。
狂気を孕んだ、悲しみにも似た愛情を、見せてくれるんだろうか。
オレだけのために。

もしそうなら、オレは――



「ハッ…」
思わず乾いた笑いが口をつく。
火をつけないまま咥えていた煙草が、床に落ちて転がった。




決して言葉にしないくせにやけに雄弁な視線やオレの名を呼ぶ声に潜む深い執着に、気づかなければよかった。
向けられる想いは今まで感じたことがないほどに深く激しく危うくて、オレは容易く絡めとられて身動きできなくなる。
その、痺れるような気持ちよさに。

愛なんてわからねぇ。
だからこいつの向けてくる、この、胸に突き刺さるような想いの塊が、実のところ愛情なのかどうかもわからねぇ。
ただの強烈なエゴなのかもしれないし、もしかしたら憎しみなのかもしれない。
どちらにしても、何であったとしても、大差ないんだろ。多分根っこは、同じものなんだろうから。

わかっているのはただ、コイツが必死に否定してないものにしようとしているコイツの中の情動に、執着に、オレはもうとっくに囚われちまってるってことだけだ。
それを思うだけで胸が痛むほどシアワセで、孤独なんて麻痺するほどに。


きっと三蔵はまた呆れ顔で、同情と哀れみと恐れの入り混じった、どうにも複雑な表情でオレを見るんだろう。
"馬鹿どもが…" なんて吐き捨てて、眉間の皺を深くするんだろう。
でもオレは知っている。
その視線の中に、微かな後悔と羨みが混ざっていることを。


このままじゃ、きっとオレはダメになるな。
うん。そんな気がする。




「どうしました?」
硝子のような瞳がこっちを見ていた。
闇の淵が見えそうな程深い碧が、オレの逡巡を見透かしたように微かに細められる。
「あ、起こしちゃった?」
手の中の煙草を玩びながらそ知らぬ振りで笑ったら、八戒が横になったままでおいでおいでと手招きをした。
ソファの前にしゃがみこんで覗き込むと、白い指先が伸びてくる。
すっと髪を掬われたら、はらはらと白い花びらが落ちてきた。
知らないうちに、飛んできてたらしい。

「スッゲェよく寝てたぞ」
「あなたに言われたくないんですけど」
何度起こしに行ったことか、と八戒は拗ねたように微笑んだ。

「…そろそろ出かけるわ」
「あぁ、もうそんな時間ですか」

一瞬その瞳が不安定に揺れたが、すぐに瞬きに紛れてしまう。
そんなコトには気づかないふりで笑って、胸の上の花びらを一枚摘んで唇にのせてやった。
「もう少し、寝てたら。シーツは入れといてやるからサ」
八戒は唇の上の白い欠片を飛ばさないように息を潜めて微笑むと、そっと瞼を閉じた。




できることならこのまま一生、気づかぬふりでいたかった。
八戒の差し出す激しい執着にも狂おしい情動にも。
すでに手遅れな自分にも。

でもこれが、あの時コイツを拾ったオレのエゴの結果だというんなら、オレは喜んで受け入れよう。
たとえ以前の自分に戻れなくても。誰かを傷つけても。
道(そんなもの、もともとオレの中にはなかったけど)を踏み外したとしても。

コイツの望むものを、望むように、差し出すことができるなら――



それでも許されるなら、もう少し気づかないふりをさせてくれ。
汚れを知らない花びらが、地に落ちて泥に染まり朽ちる頃まで。


この桜が散りきったら、一緒に堕ちるから。







end




(2009.04.10)




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