棘
「痛っ…」
窓を開けようと窓枠に手をかけた瞬間、八戒は小さな声を上げた。
その声に、新聞に目を落としていた三蔵が顔を上げる。
小さく眉間に皺を寄せてこちらを見つめるその視線だけで、三蔵の気持ちが伝わってくるから、八戒の胸は小さな音をたてる。
こんなささいなことで。
「どうしたの?」
右の掌を見つめる八戒に、悟空が心配そうに声をかけた。
その前には、食後のデザートにしては大量のみかんの山が盛られている。
「誰かさんみたいに、眉間に皺よってるぜ」
悟浄が立ち上がって八戒の隣に並ぶと、その掌をのぞき込んだ。
「棘が刺さっちゃったみたいで。驚かせてすみません」
八戒は心配ないというように、三人の顔を見回して微笑んだ。
「あー、でも結構大きいな、コレ」
悟浄は八戒の掌を掴むと、部屋の明かりに翳すように自分の目の前に近づけた。
「それに一つじゃないんですよねぇ。小さいのも幾つか刺さったみたいで。油断してました」
「ボロいからなぁ、この宿屋。飯は旨かったけどさ」
悟空がみかんの山を次々と腹に収めながら頷いた。
「贅沢言うな。野宿よりはマシだろうが」
三蔵が煙草を取り出しながら応える。
「棘なんて最近刺したことなくて…子供の頃は、よく刺したんですけどね」
「無防備だったんじゃねえの?昔も今も」
くくっと笑いながら、悟浄が棘を抜こうと傷に触れた。
「あぁ、大丈夫ですよ。自分で抜きますから」
大きいものはともかく、小さい棘は棘抜きがなければ抜くことができないようだ。
八戒は荷物の中から救急箱を取り出した。
結局目に見えるものは3、4本抜けたが、まだ痛みが残っていた。
極小さいものが、まだ残っているらしい。
「あとは放っておいても大丈夫でしょう」
「ちゃんと消毒した方がいいんじゃねぇ?」
そういいながら八戒の掌を掴むと、悟浄はいきなり傷口に舌を這わせた。
「!」
八戒が驚いて手を引くよりも、心底嫌そうに悟空が顔を顰めるよりも、誰よりも早く反応したのは三蔵だった。
「バカが移るっ…、離れろ!」
鋭い言葉と同時に、銃口が悟浄に向けられている。
その素早さに八戒は驚いて目を瞠り、その後堪えきれずに笑ってしまった。
――もしかして、妬いている?……三蔵が?
また胸が、小さく音をたてる。
三蔵はハッと自分の言動に気づいたように銃を下ろすと、どさりと腰を下ろした。
不機嫌そうに横を向くが、しかしよく見れば少し顔が赤いような。目が泳いでいるような。
「おぉ怖い、怖い。もう寝よっかなー?」
平然と笑うと、悟浄は机に置いてあった煙草を掴んだ。
「あ、俺も」
食べ散らかしたみかんの皮を紙袋に入れる悟空に、八戒は声をかけた。
「それは捨てないで下さいね。干してお風呂に入れますから」
「一体どこで干すんだよ?」
悟浄が呆れたように尋ねる。
「もちろんジープの後部座席です。明日のお風呂は蜜柑風呂ですよ」
あったまりますね♪と嬉しそうに八戒は微笑んだ。
その間も三蔵は無言で煙草を吸っている。
――あぁ、ご機嫌を損ねてしまったかな…
八戒は賑やかに部屋を出ていく悟浄と悟空におやすみなさいと声をかけた。
ついでに小さく悟浄を睨みつけたが、応えた様子もない。
「ちゃんと消毒しておけよ」
紅い髪の友人は、意味深な笑いを残してドアを閉めた。
――まったく、引っかき回しておいて逃げるなんて…
八戒は小さくため息をついて、三蔵を振り返った。
少し不機嫌そうにこちらを見返す顔が微笑ましくて、自然と笑みが浮かんでしまう。
「おい」
三蔵は煙草を灰皿に押しつけると、立ち上がった。
「何ですか?」
悪気なく微笑みを返せば、三蔵の眉間の皺が深くなる。
「あいつに隙見せてんじゃねぇよ」
三蔵は八戒の傍に寄ると、痛む方の掌を取って傷口をじっと見つめた。
いつになくストレートな三蔵の言動に、心の奥から喜びを感じてしまう。
そんな自分に気恥ずかしさを覚えて、八戒は目を伏せた。
また胸が小さく音をたてる。
きっとこれは、幸せの音だ。
その時。
「!」
胸の奥に感じた小さな痛みに、八戒は目を瞠った。
思わず三蔵に取られていない方の手を胸に当てて、息を呑む。
――あぁ、まただ…
鋭い痛みではない。
じわじわと染み出すような、深い痛み。
八戒の様子に怪訝そうに向けられた紫の瞳を見つめながら、八戒は微笑んだ。
「実はここにも、棘が刺さっているんですよ」
胸の奥の柔らかいところに深く刺さって抜けない棘。
いつもは忘れているのに、ふとした瞬間痛み出す。
それは耐えきれないほどではないのだけれど、密やかにしっかりと、その存在を主張する痛み。
もう決して元には戻らないけれど確かにそこにあった幸せの記憶が、こうしてこの人を愛しいと思う度に、痛みとなって訪れる。
「抜くつもりは、ないんですけどね」
それは罪悪感とは違う、切ない痛み。
この痛みを抱えながら、それでも自分はこの人の傍に居ることを選んだのだ。
ふと、穏やかに肩を引き寄せられて八戒は目を見開いた。
三蔵が八戒の髪を宥めるように混ぜながら囁く。
「俺は、お前の棘になるつもりはねぇぞ」
それはまるで睦言のように、甘く鼓膜を震わせた。
耳に落とし込まれた言葉を噛み締めながら、八戒は自分を包み込む腕の中でゆっくりと瞳を閉じた。
以前愛した人の記憶が痛んでも、この腕の確かな強さに癒される。
何度も癒されたら、いつかこの痛みも消える日がくるのかもしれない――
「消毒しておくんだったな」
その言葉に顔を上げた八戒の唇は、三蔵の唇に塞がれた。
啄むような口づけは、やがて深いものへと変わってゆく。
名残惜しそうに唇が離れる頃には、八戒の頬は桜色に染まっていた。
「傷があるのは、ここじゃありませんけど」
八戒は潤んだ目で軽く三蔵をにらみながら、指先で自分の唇に触れた。
「あいつと間接キスなんてごめんだからな」
三蔵は唇を引き上げて笑うと、両手で八戒の頬に触れてもどかしそうに引き寄せた。
再び重なる唇。
触れた唇から伝わる三蔵の想いの深さに、八戒は微笑んだ。
例えばこの恋が終わったとしても、抜けない棘となってこの人の胸の中に住み続けたいと思っていた。
密やかに。いつまでも。
だがそんな願いも焼き尽くすほどの強い光に、自分はいつも救われる。
真実しか語らないその言葉が、時折見せる愛に溢れた不器用な仕草が、この上なく幸せにしてくれるから。
三蔵の熱に包まれながら、八戒は強く願う。
この日々が思い出にならないことを。
僕がこの人の棘にならないことを。
end
(2009.03.10)