その温度






1.



どうにも苦手なのだ。この瞬間が。

薄暗い灯りの下、古ぼけた天井の片隅にかかった蜘蛛の巣を睨み付けた。
他にどこを見たらいいというのか。
目の前では整いすぎた白い面が、真剣な眼差しを三蔵の腕に向けている。
向けられているのは眼差しだけではなく、その男の掌が発する淡い光。
治癒力を高めるという世にも希なその光を受ける時、三蔵はいつも僅かに不機嫌になる。
それは負傷した己の不甲斐なさによるものなのか、他人にその傷を癒してもらう、この行為への罪悪感なのか。
この「治療」が施術者に、少なくはない負担をかけるということだけは間違いない。

他人の力を与えられて己の傷を癒すなど、三蔵にしてみれば不本意きわまりないのだ。
それがこの男の力となれば尚更に。

さっきから僅かに息苦しいのは、狭すぎるこの部屋と、窓の外で微かに聞こえる忌々しい雨音のせいだ。
息づかいまで感じるほどの距離に八戒がいるとか、向けられるその掌が触れそうでいて触れないとかいうせいではない。
断じて。





今日一日、三蔵の機嫌は最悪だった。
野宿続きでいいかげんに疲れているところに、ジープの後部座席で繰り広げられる喧噪。
バカ二匹相手に、ハリセンのヒット数も無駄弾の消費量も普段の倍以上だった。
運悪く現れた妖怪たちは、三蔵の苛立ちをぶつけられていつもの半分の時間で消え失せた。
急に降り始めた雨を避けるために、この小さな町に予定外に宿泊することになったこととか。
先日受けた腕の傷の痛みが思いのほか長引いていることとか。
全てが三蔵の気持ちを苛立たせた。


夕食もとらず早々に部屋に引きこもった三蔵を追うように、八戒は部屋の入り口に姿を見せた。
厄介な男の登場に、思わず小さく舌打ちをする。
騒がしい奴も気に入らないが、変に気のつく奴も困りものだ。

不機嫌な三蔵の様子にはお構いなしで、八戒は部屋に入ってきた。
町に一軒しかないという驚くほど簡素な宿屋のこの客室には、一脚の椅子のさえも置いていない。
ベッドに腰掛ける三蔵の傍らに歩み寄ると、八戒は無言で見上げる鋭い視線に臆することなく微笑んだ。

「ちょっといいですか?」
「…よくねぇよ」
三蔵の応えはきれいに無視して、八戒は三蔵の隣に腰をおろした。
ほんの少し腕を動かせば触れ合うような間隔で。
その距離は故意なのだろうか。
らしくない強引な振る舞いに三蔵が眉を顰めても、八戒は気にする風もない。
「おいっ」
座るなら隣のベッドに座れという三蔵の抗議は、間近で目にした双碧に浮かぶ強い光に気圧されて、遮られた。
まるで怒っているようなその光は、いつも穏やかなその男には似つかわしくなかった。

「僕としたことが」
「あ?」
「やはりあの時、無理にでも見せてもらえばよかった」
唐突に始まった八戒の言葉に、三蔵は眉を顰める。
「腕を見せてください」
「嫌だ」
「治療させてください」
「必要ない」
「必要ないわけ、ないでしょう!」
声を荒らげる八戒は珍しい。
脈打つような腕の痛みと先程から感じ始めた頭痛に辟易しながらも、三蔵は感心したように目の前の八戒の顔を眺めた。

八戒は普段笑顔を浮かべていることが多い。
一見穏やかで控えめな好青年のその瞳は、よくよく見れば大抵は笑っていないのだが。
八戒にとって微笑みは、多分、鎧なのだ。
希に今みたいにストレートに怒りや悲しみを顔に乗せると、そのきれいなだけの顔が驚くほどいきいきと、そして艶めかしく見えることに、この男は気付いているのだろうか。



「いつも無茶をして…。やせ我慢するのは勝手ですけどね、力を手にしていながら目の前の怪我人を癒せない僕の身にもなってください」
そこで一息入れると、八戒は急に声の調子を弱めた。
「それとも――- やはり、コレが気にいらないのですか?」
何もないはずの掌の上にぼうっと淡い光の集まりを作り出すと、八戒はやるせない表情でそれを見つめた。
それから、ふ、と吹き消すように光を消すと、三蔵の視線から逃れるように俯いて薄い唇を噛む。

「そんなこと、言ってねぇだろう」
八戒にしおらしく出られると調子が狂う。
内心舌打ちをしながらも、三蔵の口調は和らいでしまう。
いつもの手だと、わかっているのに。

「では腕を出して下さい」
途端に顔を上げ、まっすぐ向けられる碧の瞳。
儚げな表情はどこかへ消え去り、八戒はにっこりと微笑んだ。



「こういうモノは、使わないに越したことはないですけどね」
目の前に作り出される淡い碧の光に、一瞬目が吸い寄せられる。
薄暗く寒々しいこの部屋の空気を、穏やかなものに変える不思議な光。それを生み出す白い掌。
「でも僕はこの力を気に入っていますよ。こうやって…堂々とあなたの傍に寄ることもできますし」
思わず差し出そうとしていた腕を引き戻した。
面白そうに笑う八戒を睨み付けると、三蔵は眉間に皺を寄せて煙草に手を伸ばす。
途端に流れるような仕草で差し出される灰皿を、さらに顔を顰めて受け取った。


一体いつの間に、こんないい性格になったのか。
隙あらば死ぬ為の言い訳を考えているような、可愛げのある男はどこにいったのか。
生来がそういう性格だったのか、あの事件が八戒を変えたのか。
それとも自分が…
自分はこの男の中の何かを、僅かでも変えることがあったのだろうか。

唐突に浮かんだその思いに、三蔵は目を瞠った。

埒もない。
雨に濡れたために着替えたのか、今夜の八戒はゆったりとした白いシャツを羽織っている。
いつもは晒さないその白い首筋にうっすらと残る痕が、その答えを示しているようで、三蔵は浮かんでくる苦い笑いを噛み殺した。

「さっさと済ませろ」
点けたばかりの煙草を灰皿に押しつけながら、少し乱暴に腕を差し出した。
その仕草が拗ねたように見えたのだろうか。
「はいはい」
八戒は困ったような、それでいて嬉しそうな笑顔を見せた。





2.


部屋の中には物音をたてることさえ憚るような奇妙な静寂が満ちている。
時折ドアの向こう側から、人の気配や話し声がぼんやりと聞こえてくるだけだ。

八戒の掌に集まった光に照らされていると、先程まで腕に感じていた鋭い痛みが徐々に引いてゆく。
何かを考えることすら億劫だった頭痛も治まっていく。
身体の奥深くに燻っていた痛みの芯がゆるゆると解れ溶け出して行くような感覚に、三蔵は思わず小さく息を吐いた。

軽い倦怠感の中で、三蔵は目の前のひどく真面目くさった横顔をそっと見つめた。
長い睫毛が揺れて落ちる影。時折小さな息使いを漏らす形のいい口唇。
まるでこの行為が贖罪か懺悔だとでも思わせるほど真剣な八戒の表情に、我知らず三蔵の眉は顰められる。


「これは―― 何かの皮肉なんでしょうか…」
以前この男が見せた笑みを思い出した。
自分に人を治癒する力があるようだと三蔵に語った時に浮かべた、苦みを含んだ笑みを。
困惑に満ちた表情で両手を見つめていた、翳りを帯びた瞳を。

その力を得たことは、八戒にとって喜ぶべきことだったのだろうか。
いくら身を削って他人を癒しても、亡くした命は取り戻せないし、犯した罪は償いきれない。
その希有な力を使う度に、八戒はその罪を身の内に刻み続けているように見える。

そんなものではないだろうに、と三蔵は思う。
自分が八戒の治癒を受ける事に抵抗を感じるのは、八戒がいつまでもその罪に囚われているからだ。
囚われて抜け出せなくて苦しいくせに、本心では囚われ続けたいと願っている。

そしてその姿が、自分と似ているからだ。


希に。
ごく希に、それはやってくる。
深い谷間に落ちるように、どうしようもなく闇に囚われる瞬間。
思い出したくもないのに決して忘れられない、忘れてはならない記憶は、ふとしたきっかけで亡霊のように冷たい手で三蔵の足首を掴み、歩を止めさせる。
罪に値する程の、己の弱さの記憶。
それは懐かしいほどの年月を経てもなお鮮やかで、一層三蔵を苦しめる。
そして苦しみながら、確かめるのだ。
自身の中に潜む弱い自分を、常に撃ち殺しながら前に進む自分を。
その痛みを抱えながらしか、進む道はない、ということを。


そんな三蔵の苦しみを、多分八戒は見抜いている。
この男には隠せない。
本質的に同じ痛みを、怖れを、闇を抱える、この男には。

だが腹の立つほど、素知らぬ振りが上手いのだ。
何も知らない、気付いていないという顔をしながら差し出される微笑みや言葉はいつもタイミングが良すぎて、普段は堅く何層にも覆い隠している三蔵の心の柔らかい部分まで容易く入り込んでしまう。
例えば、今のように。

「痛むのは、腕だけですか?」
小さく呟いて八戒は三蔵に微笑みを向けた。
それは決して同情を含むものではなく、唯唯優しい表情で。
「ああ」
天上の蜘蛛の巣でも睨み付けていなければつい目に入ってしまう、あの首筋の痕がなければ、何か弱音を零してしまっていたかもしれない。




先程から触れそうで触れない掌が、不思議な光を紡ぎだす。
その淡い光が微かに温かいように感じるのは、きっと錯覚なのだ。
自分はその掌の、その身体の冷たさを知っている。
そしてその温度は、自分のものとは相容れないことも。
温めあうには、この男の体温は低すぎるのだ。

一度だけ感じたその温度は、今でも鮮明に三蔵の記憶に残っている。
今とは違う名前、今とは違う髪型で。
狂気を宿して三蔵に向けられた隻眼を、信じられないほど間近で見つめた日。
薄い磁器のように滑らかで冷やかな肌は、行為に溺れている最中も熱を帯びることはなかった。

まるであの時間が幻だったように、二人の間でそのことが口に出されたことは一度もない。
八戒があの時間を覚えているのかさえ、三蔵にはわからない。
後悔や未練なぞ感じた事もないのに、いつまでもあの温度だけが忘れられない。

どうでもいいことだと、思う。
今更何が変わるわけでもない。

だがこんな夜には八戒と二人きりでいることで、緊張とも焦燥とも言い表される微かな気持ちの揺れを感じてしまう。
それはきっと、未だにしがみつくように抱え込んでいる八戒の闇と、浮かび上がるたびに撃ち殺し、踏み越えてきたはずの自分の闇が引き合ってしまうからだ。

普段八戒は、その闇を胸の奥にしまいこんでおくびにもださない。
だがひっそりとその記憶を取り出して心をどこかへ彷徨わせる、そんな瞬間があることを三蔵は知っている。
その行為が褒められたものではないと分かっているのだろう。
八戒は決して他の人間が周りにいる時にその片鱗も見せないように気を配っているようだが。

それでも。
嫌でも気づいてしまうのだ。

雨の予感に気が沈む夜や、妙に月がきれいで眠れない夜。
森の中、仮眠をとるジープの運転席で。皆が寝静まった相部屋の窓辺で。
何かに呼ばれるように、空よりももっと遠くにあるものを見つめる碧の瞳に。
心ごとどこか遠くの冷たい水の底にでも沈めてしまったみたいに、ぞっとする程虚ろな横顔に。
そんな時のこの男の温度は、さぞ冷たいのだろうと三蔵は考える。
堅く握りしめられた指先も、夜の冴えた空気に微かに震える薄い肩も、終わりのない痛みを隠し続ける胸の奥も。

それでもこの男は、その冷えきった心を温める腕を手に入れた。
その闇の冷たさごと受け入れて共に分かち合う腕を。
ゆっくりと闇から浮上するように戻ってきた瞬間、その碧眼が探すのは紅い髪の男であって、三蔵ではない。
今こんなに近くにいても、その温度は自分のものではないのだ。






3.


冷えた闇の欠片がするりと首筋に触れたように感じて、三蔵は身じろぎした。
「どうかしました?」
三蔵の動きに、八戒は驚いたように二、三度瞬きを見せる。
向けられた瞳の中に暗い光がないことを見てとって、三蔵はらしくない自分に苦笑した。
こんな夜にこの顔合わせでは、仕方ないが。


「…冷えるな」
八戒は考えこむように少し首を傾けた。
「寒いのですか?」
「いや」
「熱でもあるのでは?」

すっと白い指先が三蔵の手に伸ばされる。
先程まで触れそうで触れないその掌をひどく気にしていたはずなのに、伸びてきた指先を何故か自然に、抗うことなく受け入れていた。
華奢だと言われる外見に反して、銃を扱うために堅く節くれた自分の手。
幾多の命を奪う為に引き金を引いてきた指。
その強ばった自分の手に、男のものとは思えない程きれいな指が絡みつく。
三蔵は瞬きもせずに二つの掌を見つめた。

伝わる温度は、予想とは違っていた。
その時感じた思いが、失望だったのか安堵だったのかよくわからない。
包み込むように添えられた掌の温度はひどく温かくて、思いもよらない程、強く三蔵の胸を揺らした。

「あぁ、本当に冷たい」
八戒は感心するように頷いた。
「少し気の力が働き過ぎたかな。でも三蔵、最近頭に血が登り気味でしたから、これ位がちょうどいいかもしれないですね」
「余計なお世話だ。お前こそ、…随分血の巡りがよさそうじゃねぇか」
皮肉のつもりで投げかけた言葉は、何かを懐かしむような笑みに柔らかく受け止められた。
「変わったのは、僕だけじゃないでしょう」
あなただって…

透明な笑顔を浮かべるその瞳の奥に、闇よりももっと暗い場所を通り過ぎてきた者のもつ、強さを見たような気がした。
あの日から流れた時間の中で、八戒が得た確かな強さと、それをもたらした男の存在の大きさを知らされる。
だがそのことは、三蔵にとって決して不快ではなかった。
不思議なことに救われたようにさえ感じられる。
目の前の男は、三年前とは確かに変わっているのだと。
そして多分、自分も。
己に潜む闇を疎んじて、ただ否定し続けているだけの自分ではないのだと――。



「いつまで握っていやがる」
何故か嬉しそうに三蔵の掌を握り続ける八戒を、軽く睨み付けた。
「これも治療行為です」
「もう充分だ」
無理矢理掌を取り戻すと、三蔵は照れ隠しのように煙草に手を伸ばす。
そんな三蔵の様子に、八戒はやれやれとばかりに小さくため息をついた。

「今夜は早く寝た方がいいですよ」
諭すように真面目くさって言うと、八戒は三蔵の顔を覗き込んで、不意に笑顔を見せた。
少したちの悪い、含みのある微笑み。
それはこの男に似合いすぎていて、思わず目を奪われる。
絶対ろくでもないことを言うに違いないと思いながらも、三蔵はその笑顔から目を逸らすことができなかった。

「人肌が一番温かいって知ってます?」
一瞬返す言葉を失った三蔵に、八戒は笑みを深めた。
「試してみましょうか?」
「…殺すぞ」
途端に増えた三蔵の眉間のしわと向けられる鋭い視線にも、八戒は臆することはない。
「僕でも、湯たんぽくらいにはなれますよ?」
「生憎俺は、悪食じゃないんでな」
「ひどい言われようですねぇ。でもそれだけ元気があれば大丈夫―」
八戒は満足げに頷くと立ち上がり、軽く首を傾げた。
「あぁでも、もっと適任者が来ましたね」


ドアの外に近づいてくる騒がしい話し声と足音に、三蔵は思わず詰めていた息を吐きだした。
いつもは腹立たしい騒音が、今はありがたい。

「子供の体温は、高いですからね」
「俺はお前とは違う―」
唆すような八戒の言葉にむきになって反論しかけた時、いきなり開いたドアから覗いた金の瞳に、言葉をつまらせた。

「治療、もう終わったのか?」
「ええ、終わりましたよ」
悟空に応えながら、八戒は二三度自分の腕を摩って見せた。
「どうしたんだ?八戒」
「そろそろ冷えてきましたね。今夜は湯たんぽが必要みたいです」
冷え性なんですよねぇ…
そう言って八戒は一瞬甘さを含んだ笑みを浮かべると、音もなくドアをすりぬけた。
廊下で待つ男のもとへと。




入れ違いに部屋に入ってきた悟空は、不思議そうに瞬いた。
「今日はそんなに冷えるかなぁ…?寒いのか?三蔵」
「寒くねぇよ」
向けられる大きな金の瞳に、三蔵は見かけだけの不機嫌を装いながら考える。


人の気も知らないで。
いや、何もかも見抜いているからこそなのだろうが…。

アイツのように、簡単に温まることができたら苦労しないのだ。
まるで小さな太陽のような目の前の温もりに触れたら、自分はきっと沸騰してしまう。


それを求めることは、弱さなのか。それとも強さなのか。



この弱さを、撃ち殺せ。










end



そもそもは、リロード4巻、気功を使いすぎて倒れる八戒から妄想した話なんですが…
ちょっと凹んだ三蔵を書き始めたら面白くなって、ついこんなことに。
三蔵はもちろん俺様で傲岸不遜な所が魅力なのですが、そんな彼が、時に背負うものの重さに負けそうになって歯を食いしばり、やせ我慢でつっぱる姿は、かなり魅力的です

三蔵と八戒の間には、いつも少し緊張した空気があるように感じるのですが、私だけでしょうか?

(2008.11.14)




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