11月9日






目を開けると自分の靴が目に入った。
所々擦り切れくたびれたそれは、ひどく埃をかぶっている。
ノロノロと視線を上げて、足元から続く階段をぼんやりと眺めた。
ひどく疲れて身体が重かった。
今まで何時間も歩き続けてきたように思う。
もう僅かも足を動かすことができなくて、僕は深い溜め息を着いて肩を落とした。

少し休んだ方がよいだろうか。
先はまだ長そうだ。
そう考えて息をのんだ。
思わず小さな震えが走る。

僕はどこに行くつもりなのだろう?
どこからきたのか?
いつから歩いているのか?
今まで、この階段を上っていたのか?
下っていたのか?
そもそも此処は、どこなんだ?

突然わき出た疑問は身体の奥底から恐怖を生んだ。
「!」
声にならない叫びを上げた瞬間、足を踏み外しそうになり、懸命に目の前の手摺にしがみついた。
鈍く銀色に光る金属の冷たさに息をのむ。
手摺の外側は強い風が吹いていて、僕の前髪をかき乱した。

風の冷たさに少し落ち着きを取り戻し、恐る恐る辺りを見回した。
ここは、螺旋階段の途中だった。
手摺を強く握り締め、そっと下を覗きこむ。
延々と暗い渦が続き、所々薄い靄がかかっていて底が見通せない。
あまりの高さに再び恐怖が湧き上がる。
救いを求めて見上げると、更に強い恐怖が込み上げて悲鳴を上げそうになった。
無機質な銀の塔が、行き着く先などないと思われる程、高く続いている。
下と同様にその先は霞んで見えなかった。

暑くなどないのに嫌な汗が吹き出して、震えが走る。
急に吐き気が込み上げた。
僕はよろよろとしゃがみ込み自分の肩を掴んだ。
どうしてここにいるのか、本当に分からない。
そもそも、僕は…
僕は、誰だ?


ここに辿り着いた経緯は思い出せないけれど、何かを探していたような気がした。
誰か、僕にとって大切な人…
僕はもう一度手摺にしがみつくと、さっきより身を乗り出して上や下を眺めてみた。
底の方から地を震わせる恐ろしい声が聞える。
いや、それは気のせいかもしれない。
風が吹き抜ける音が、怯む心を惑わせているのだろうか。

突然、頭上に音が聞こえた気がして、僕は顔を上げた。
ごうっという風の音に混ざって、確かに小さな音が聞こえる。
一定のリズムを刻みながら少しずつ大きくなるその音に、僕の心は緊張で強張った。
誰かが階段を下りてくる。
コツコツと冷たく響く靴音に恐怖がわき上がった。
訳のわからない場所で見知らぬ他人と出会う恐怖。
だが同時に小さな期待も覚えた。
もしかしたらその人物が何か知っているかもしれない。
ここは何処なのか?僕は誰なのか?どこからきたのか?
少なくとも階段を下りて来るのだから、この上がどうなっているのかは知っているばずだ。
恐怖より期待で高鳴り始めた胸の音を感じながら、僕は螺旋の消える先を見つめた。
やがて調子の外れた鼻歌が聞こえた。
その声から下りてくるのはどうやら男性らしいと考えた瞬間。
長い髪を風に躍らせながら、男が現れた。
目の前に翻る紅い髪に目を奪われる。
少し驚いたようにこちらを見下ろして瞠った瞳も、吸い込まれそうなほどきれいな紅玉だった。
咥え煙草の煙が、風に流され消えていく。
一瞬状況を忘れて見惚れていた。
立ちすくむ僕を見下ろして、男は口元を引き上げた。

「今日はよく人に会うな」
「あ…」
「あんたで2人目だ」
「え?」
「さっきも白い着物の、しかめっ面の坊主と擦れ違った」
「…彼は何と?」
「話しかけようとしたら懐から拳銃を出しやがるから、慌てて下りてきたってわけ」
肩を竦めて苦笑いする。
僕はその僧侶を知っている気がした。
胸に痛みに似たざわつきを覚える。
「その人はどの位先にいますか?」
「ちょっと前にすれ違ったから、急げば追いつくかもよ」
何故か湧きあがる安堵の気持ちに足の力が抜けそうになる。
そんな僕を見て、男は少し寂しそうに笑った。
なぜ、そんな顔をする?
「あなたは…どこに行くのです?」
「さぁな」
男は少し首を伸ばして手すりの向こうの深い闇を覗き込んだ。
「気づいたらこの階段を下ってたんだけど。もう何日経ったかわかんねぇわ」
この男も僕と同じ状況のようなのに、平然と笑っている。
「この先には何があんの?」
形の良い顎で深い淵を指しながら、どうでもいいように男は尋ねた。
そんなことを言われても、どうやってここまで来たのか全く覚えていない。
黙りこむ僕を見て、男はニッと笑った。
「まぁいいや。歩いてばっかも飽きてきたし」
男は手すりに片足を乗せると、肩越しに振り向いた。
「じゃあな」
「!」
咄嗟に、手摺に立ち上がった男の手を掴んだ。
男は驚いたように振り向いたが、淡く微笑みながら空へと飛び出していく。

ああ、だめだ、
引き戻そうとしたが間に合わない。
手を放すなんて考えられなかった。
一緒に手摺を乗り越えて、僕らは手を繋いだまま底の見えない淵へと落ち始めた。
不思議と恐怖はなかった。
落ちながら強く引き寄せられて、厚い身体にしがみつく。
ぼくらは抱き合いながら落ちていった。



「で?」
「夢ですよ、夢。変な夢をみてしまいまして」

八戒は起きてきた俺を捕まえて、朝食の準備をしながら妙な話しを滔々と話し続けていた。
熱っぽく話すわりに、ちっとも俺を見ない。
視線を合わせないのは、怒ってる時か照れてる時。
今は多分―

「で、俺らはどうなったんだ?」
「さあ。夢ですからねえ」

八戒は、やたら時間をかけてコーヒーをいれている。
妙な夢だが、つまり、
自分が誰かわからずパニクってる時に、心惹かれる最高僧らしき奴が先にいると知りながら、ヘラヘラ飛び降りちゃうイカレた俺を選んでくれたってことか?

まるで告白されてるみたいだな。
そう考えて気がついた。
思わず壁に掛かったカレンダーに目がいく。

ああ、そうか。
らしくない夢の話なんかしたのは、今日だからか。
こいつは普段、愛の言葉なんか決して口にしないけど。

「なあ」
「はい?」
八戒は、コーヒーをなみなみと注いだマグカップを両手に運んでくると、やっと俺を見てくれた。
「また一緒に落ちてくれる?」
冗談めかして尋ねると、八戒はカップをテーブルに置いてがっちりと俺の手を掴んだ。
「次は落としませんからね」
頬を染めながら、見惚れるような笑顔で宣言した。




end




(2019.11.9〜2020.11.8 web拍手)





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