キンモクセイ




夜中にぽっかりと目が覚めた。
懐かしい夢をみていたようで、夢の記憶は欠片も残っていないのに、ひどく名残惜しい気持ちばかりが残っている。
悟浄は何か無くし物をしたような気持ちで暗闇の中で二三度瞬きをしてから、今何時だろうと考えた。


身を起こして隣を見ると、寝ていたはずの八戒の姿がない。
真っ暗な部屋の中を見回していると、ベッドの足元の方から声がした。
「起こしちゃいました?」
暗闇に慣れてきた目を凝らすと、窓辺に立つ八戒の姿がぼんやりと見える。
「いンや」
こんな夜中に窓の外を見ていたようだ。
一瞬、雨が降っているのか?と考えた。
この宿に着いたときは、西の空はきれいな夕やけだったけど。


「すみません、悟浄」
暗闇の中、八戒のシルエットは少し右に首を傾けた。微笑む時の八戒の癖だ。
その時ひやりとした空気に混じって、甘い香りが漂っていることに気がづいた。
よく見ると、窓が細く開いている。
「眠れねぇの?」
枕元の灯りをつけると、白熱灯の淡い光が部屋を照らし出した。
八戒は窓の前で眩しそうに少し目を眇めながら、こちらを向いて困ったように笑っている。
悟浄はベッドから降りると八戒に近づいた。
裸足に床の冷たさが凍みる。
八戒も同様に裸足なのが目に入って、余計に寒さが増した気がした。
昼間は暑いほどでも、夜半になれば冷える季節だ。
普段冷え性だと嘆いているくせに、こいつはどれだけココに立っていたのだろうか。


「匂いが気になって…」
八戒は言い訳するように小さく肩をすくめると、窓から身を離した。
「ああ、これ」
10センチほど開けた窓の隙間から、暗いオレンジ色の塊が見える。
よく見るとそれは、小さな花の集まったものだった。
えーっと、何ていう花だったっけ?
「金木犀です」
悟浄の疑問を悟ったように、八戒はその花の名前を口にした。
「好きなの?」
「いいえ。どちらかというと、強い香りの花は苦手で」
「じゃ、窓閉めたら?」
「でも何となく惹かれてしまうんですよ」
この小さい花は可愛らしいですし、と言い添えて、八戒は目の前の花に手を伸ばした。
繊細な指先でそっと撫でると、小さな花ははらはらと零れ落ちる。
だが可憐な姿とは裏腹に、その香りは強烈だ。むせ返るような甘い香りに頭がくらくらする。

「すごく匂うな」
「三蔵が、トイレの匂いだといってましたよ」
思い出し笑いに八戒が目を細めた。
「色気ねぇな」
「あなたなら、何と称しますか?」
「んー、…芳香剤?」
同レベルの答えに、八戒はくすくす笑う。
「昔はよく使われていましたからね」
「今は違うの?」
「ラベンダーの香りを経て、現在ではせっけんの香りが主流らしいですよ」
どこで仕入れるのか、八戒はすらすらと芳香剤の流行の変遷を口にした。
「こんなに匂うのに、何で気づかなかったんだろ?」
サイドボードの煙草に手を伸ばす悟浄をとがめるように、八戒はため息まじりに応えた。
「あなたがずっと煙草をすっていたからでしょう」




「で、こんな夜中に、一体何をしているわけ?」
一服すると、甘い花の匂いが中和されて、少し気分がよくなった。
苦い香りが漂う中、心なしか八戒も気分がよさそうに見える。
「ちょっと思い出したことがありまして」
八戒は灰皿を手渡しながら、にこりと微笑んだ。
「昔、この木の下に、死体を埋めたことがあるんです」
「え?」
物騒な言葉に驚いて、悟浄は煙草を取り落としそうになる。
相変わらず飄々とした八戒の顔を眺めて、悟浄は考えこむように眉をひそめた。
「たしかそれって、桜の樹の下には屍体が埋まっているってやつだろ」
「ああ、そういう話がありますね」
そういって、八戒は古い作家の名を口にした。
「金木犀?桜じゃなくて?」
八戒は目を細めてうなずいた。
「死体といっても、人間じゃないですよ」
そう断ると、八戒はめずらしく昔の話を始めた。



こう見えても僕、小さい頃は、色々と虫を飼っていたんです。
人と接するのは嫌いでしたけど、小さな生き物は好きでした。
何も喋らず、ただ短い自分の時間を淡々と生きている虫たちは、人間という集団の中でどう生きていけばいいのかわからない僕にとって、とても神秘的で羨ましい存在でした。
夏になると蝉やカブトムシなんかを捕まえては、虫かごに入れて観察するのが楽しみでした。
でも夏も終わる頃になると、虫は次々に死んでしまって…
僕は孤児院の庭にあった大きな木の下に、その虫たちを埋めました。
その木には濃い緑の葉が茂っていて、足元に涼しげな陰を作っていて、いつも少し土が湿っていて。
そこが虫たちのお墓には、相応しいように思えたのです。

そして日が過ぎて、季節は秋になりました。
ある日、庭にとてもいい香りが漂っていることに気がつきました。
一本の木の枝に咲く、金色の花が匂っているのでした。
付いている花の一つ一つは小さいのに、集まるとまるで金の塊のようになって、うっとりするほどいいにおいをさせているのです。
僕は呼ばれるようにその木に近づいて行って、気がつきました。
それはあの木だったのです。
虫たちを埋めた木が、とてつもなく甘く芳しい匂いをまきちらす花をつけていたのです。
虫たちの屍骸を養分にして。

僕は怖くなって、急いで部屋に入ってドアをしめました。
それでもその匂いは追いかけてきます。
夜になってベッドに入って毛布をかぶっても、それはどこからかそっと忍び込んできました。
花の季節が終わるまで、僕は落ち着かない気持ちで過ごしました。




「ふーん」
悟浄は八戒の横顔を眺めながら、煙草の煙を吐き出した。
「で、今もこの花が怖いわけ?」
「まさか」
八戒は悟浄の問いに微笑んだ。
「もう子供じゃありませんし」
こんなことできるくらいに、ね。と言いながら、八戒は悟浄の唇から煙草を取り上げると、代わりにそっと自分の唇を寄せた。
「それはよかった」
悟浄がお返しとばかりに深く口付けると、八戒は満足そうに小さく息をつく。
指先の煙草を灰皿に押し付ける八戒の身体を、悟浄は当然のように引き寄せた。
だが肉の薄い背骨を下から順番になぞり始めた悟浄の指を、八戒はしっかりと捕まえてぱっと身を離した。

「ちょっと待ってください。話はまだ終わっていませんよ」
「は?」
怪訝な顔で見つめる悟浄の前で、八戒はうっとりとした表情を見せた。
「埋められた虫たちの気持ちを、ちょっと想像してみてください。だんだんと消滅していく者の気持ちを」
またしても突拍子もないことを言い出す恋人を、悟浄は少し呆れ顔で眺めた。
だいたい生物学的に死んでるんだから、気持ちも何もないだろう。
そう思いながらも、礼儀上、少し考えてみる。
自分はとても忍耐強くて愛情溢れる人間だ、と思いながら。



冷たい土の中なんて言うけれど、暗く湿った土の中は案外温かいのかもしれない。
徐々に腐り溶けてゆく四肢。土に沁み込んでゆく液体。
少しずつ存在を消してゆく魂の抜け殻が長い時間の果てに一片残らず消えてしまうその時は、一体どんなカンジがするのだろうか?
身体がふわりと重さをなくす瞬間、きれいな光が天に昇っていくのだろうか。


「うわ〜、寒っ!」
柄にもない想像に一人肩を落とす悟浄を尻目に、八戒はうっとりと微笑んだ。
「この木も、きっとたくさんの生物のおかげで、こんなにきれいな花を咲かせているんでしょうね」
大げさに顔をしかめる悟浄ににっこりと笑いかけると、八戒はもう一度オレンジの花に目をやった。
一瞬見せた遠いものを見るような瞳には気づかないふりで、悟浄は八戒の肩ごしに腕を伸ばす。
そっと窓を閉めながら、八戒の気を引くように、開いている方の腕で抱きよせて首筋に唇を落とした。
今度は逃げようとしない八戒を抱きしめたままベッドに座らせて、その瞳を覗き込んだ。

深い碧がもの問いたげに向けられる。
こちらを見上げるその表情は、もういつもと同じ八戒だった。
それでも室内に漂う空気に混ざって、花の匂いは残っている。
八戒の夜着にも、髪にも、身体にも。

「そんなに金木犀が気になるなら、いつかお前も埋めてやっから」
含み笑いながら囁くと、八戒は眉を吊り上げた。
「いやですよ、あんな冷たい土の中。僕が冷え性だって知ってるでしょう」
確かに掌に触れる八戒の身体は、冷え切っている。
そんな奴がこんなになるまで、何を考えていたんだか。
大方埋めてやれなかった女のことでも考えていたのだろうけど。

ふと八戒の髪にオレンジ色の小花を見つけて、悟浄は手を伸ばした。
指先が触れて、花はぽろぽろと八戒の髪を滑り落ちる。



「!」


その時、さっきまで見ていた夢の中身を思い出した。
一人の女のために、花を手折ったこと。
小さな手で懸命に穴をほったことを。


冷たく堅い土の感触。
爪の先に食い込んだ土の塊。裂けて血が流れ出した指先。
痛みにも構わず、夢中で素手で土を掘った。
裏の物置にシャベルが放り出してあったことを思い出したのは、掘り出してからだいぶ経ってからだった。
壊れかけた物置からシャベルを持ち出してからは、作業は捗った。
ただひたすら、掘った。
窮屈でなく横たわれるように。少しでも居心地のいいように。
大人一人が入れる大きさになるまでに、何時間かかったのだろう。
満足できる大きさになると、穴の傍に立つ木を見上げた。
なんという花だろう?
金色の小さな花がたくさん集まって、とてもいい匂いをさせていた。
零れんばかりに花をつけた枝を幾つも折って、穴の中に敷き詰めた。
昨日まで触れることも許してくれなかった女を抱き上げて、できるだけそっと横たえた。
安らかに眠れますように。
貴女を苦しめる子供のことなど、思い出さずに過ごせますように。

さよなら。と言ったかどうか、覚えていない。
これでもうこのヒトは、苦しまないですむ。そう思うと、嬉しかったのは覚えている。
嬉しいのに涙がでたことも。


そういえば自分も、埋めたことがあったっけ。



悟浄はぼんやりと目の前の碧の瞳を見つめながら、考えた。
八戒の昔話を笑えない。
それにしてもなぜ今まで忘れていたんだろう?

だが胸の中にこみあげるのは、自責や後悔の想いではなかった。
幼かった自分の必死の想いを、今はなぜか愛しく感じる。
そう思えるのはきっと、目の前のこの男のせいだ。




「悟浄?」
急に黙り込んだ悟浄に、八戒が怪訝そうな顔を見せている。
悟浄は照れたように笑うと、少し甘えた声で問いかけた。
「じゃ、俺も埋めてくれる?」
お前になら、それもいいかも。と半ば本気で言ってみる。

「あなたがそうお望みなら…、と応えたいところですが」
八戒は迷いのない瞳できれいに微笑んだ。
「だめですよ。あなたは僕専用の湯たんぽなんですから」
少し温かくなった掌が、悟浄の背中を強く抱きしめた。
「手放したりしません」


悟浄はやっと温かくなりはじめた細い身体を抱き返した。
冷たくて哀しかった女の身体とは違う、生きた温もりとしなやかな強さをもつ身体を。
どこからか入り込む甘い香りに抱かれながら、悟浄は目を閉じた。


遠い街のキンモクセイの木の下で眠る女は、淡い光になって天に昇っただろうか?








キンモクセイの木の下には、死体が埋まっている、というおはなし。


end




ラブラブな58にチャレンジ!
しかし微妙なテンションです。
この二人はいろんなことを引きずりながら、しがらみながら、一緒に歩いていけばいいと思います。
悟能が虫を愛でるような可愛い子供だったかは?ですね。
悟浄が「梶井」を知っているかどうかも?ですが、案外読書家だったりして。

58or85? どちらでもお好きなようにどうぞ。

(2008.10.17)




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